悪の幹部がいなくなったら故国が傾きそうなんだが。(下)
やがて、アルマ一行がカタラクタのモノマキア藩に潜伏しているらしい、という情報を得て、エスタはその地へ派遣される。
とはいえ、今となっては、彼の外見は酷く目立つ。自ら表立って立ち回る、ということはできず、専らイフテカールの配下が集めてきた情報を彼に送るという役割だ。
イフテカールの配下は数多かったが、それを纏められる者はごく少数だ。しかも、彼らは今配置されている場所から簡単に動くことはできないらしい。
エスタは新参で、かつ、既に契約を結んでいる。連絡もつけやすい。
アルマがその地にいるというのなら、エスタに拒む理由もなかった。
彼らはあるイグニシア商人の元に身を寄せている、ということは判っている。
だが全く外へ出ることもなく、その商人の屋敷に潜りこめそうな隙もない。
じりじりと時間を過ごしていたある日、火竜王宮の帆船が、モノマキアの港へ着岸した。
そこから姿を現したのは、竜王の巫子たちとアルマだ。
彼らは、その後一直線に水竜王宮へと向かった。
おそらく、商人の家を見張っていた配下の者たちは、一行が脱出するのを見過ごしてしまったのだろう。
苛立ちに耐えられなくなったエスタは、翌朝、水竜王宮へと向かう。
朝の礼拝が市民に公開されており、そのまま礼拝堂に入りこむことができたのだ。
幸いまだ冬の最中で、彼がマントのフードを深く被っていることはさほど気にされることもない。
出口の傍で、祭壇に登る水竜王の姫巫女を見詰める。
〈魔王〉の肉体に変異して以降、色々と身体に変化が起きている。視力がよくなったことも、その一つだ。薄暗い礼拝堂の中でも、その巫女がペルルであることは、はっきりと視認できた。
さてどうしたものか、と考えていたところで、視線を感じ取る。
慎重に顔を上げると、二階の廊下から身を乗り出すようにこちらを見下ろす少年がいた。
フードを被ってはいるが、間違いない。アルマだ。
反射的に踵を返し、出口へと向かう。強引に押し退けると、人々が迷惑そうな顔で見やってきた。
礼拝堂の外に出たところで、そこから正門までの間の人ごみが凄まじい。水竜王の高位の巫女の人気に内心毒づきながら、エスタは横手へと足を向けた。
裏口を見つけるか、適当なところで塀を乗り越えるか、ほとぼりが冷めるまで身を隠しているか。歩きながらそれらを検討していく。
「待て!」
だが、背後から、懐かしいほどに聞き覚えのある声がかけられる。
振り返ろうとする衝動を抑え、足を進めた。
「待て、と、言っている!」
このまま彼を振り切ることができるだろうか。
半ば上の空だったエスタは、行く手から二人の巫女が姿を現したのに、ぎょっとする。
「逃げろ!」
背後からの声が響く。
思わずそれへ振り向こうとした瞬間に。
足元が、酷く不安定に変わった。
よろめきかけて、傍にある卓に手をついて身体を支える。
「一体何を考えているんですか!」
次に聞こえてきたのは、罵倒だ。
眩暈に眉を寄せながら視線を向けると、金髪の青年が睨みつけてきている。
「……イフテカール。どうしてここに」
状況を把握できなくて、呟く。イフテカールは露骨に眉を上げた。
「それはこちらの台詞ですよ。あんなところで、何をやっていたんです」
説明してくれるつもりはないらしい。エスタは周囲を見回した。
小さなティーテーブルと、二脚の椅子。足が沈むほど毛足の長い絨毯。暖かな炎が揺れる暖炉の上には小さな花瓶に数本の薔薇が生けてある。豪奢ではないが、上質な家具が揃っていた。
この趣味は、見覚えがある。
「お前の拠点か?」
エスタがモノマキアで住居に選んだのは、少々場末に近い下宿屋だ。まだこの青年が来たことはないが、おそらく趣味に合わないだろうな、とちらりと考えた。
「……竜王の巫子たちが現れたと聞いて、様子を見に来たのですよ。全く、今頃、イグニシアはまだ夜中だというのに」
イフテカールが夜中におとなしく寝ているとも思えないが。小さく肩を竦める〈魔王〉の裔を、じろり、と青年は睨め上げた。
「それで、何をやっていたのです」
「お前と同じさ。様子を見に行った」
「私は見つかっていません。一緒にしないでください」
そこは重要なのか、と思うが、まあ別の意味では重要だ。エスタはおとなしく口を噤んだ。
この頃には、もう、エスタはイフテカールをお前、と呼んでいる。どう聞いても尊大なその呼称が、どうして自分の口から出てくるのか時折不思議になった。しかし、イフテカールはそれ自体を咎めたことはない。
「全く、迂闊にもほどがある。貴方が彼らに捕らえられたとしたら、どうなると思っているのですか。最悪の場合、抹殺されますよ」
「……まさか」
思わず苦笑したが、イフテカールは苛立たしげにどすん、と椅子にかけた。胸の前で、軽く指を組み合わせ、見上げてくる。
「グラナティスは、大公家の血筋を完全に掌握しています。〈魔王〉の血を引く人間は、全て彼との契約の内にある。貴方は、奇跡的にそこから外れていた存在だ。貴方の祖父、リアンステッドを管理しきれなかったというだけでも、グラナティスの権威は大きく下がる。まして、その落胤が今や〈魔王〉の力を持っているなんて、どれほどの失態だと思うのです。まだ世間に知られていないうちに、貴方の存在をなかったことにするのは、それなりに現実的な対処ですよ。もう少し、慎重に行動してください。私は、貴方の能力を発揮させないほど愚かではないが、だからと言って貴方を失うほど間抜けでもない」
意外と真剣な口調で、そう告げられる。
エスタは、ふと、つい先ほどアルマが発した警告を思い返した。
彼は、エスタが、自分に十年仕えた者が、水竜王の巫女たちを害すると考えていたのだ。
自ら作ったものではあれ、その亀裂は、酷くエスタを動揺させ、そして同じだけ、イフテカールに同調させた。
「冷静で、冷徹で、利害を見極めて動いているにも関わらず、意外と情が深い面がありました。駒を使い捨てることを躊躇わないのに、自分の意思以外のことで彼らが傷つくのは不愉快らしい。結構子供じみていたというか、我儘だったと言ってもいい。配下を救いに自ら出向いたことが、何度もありましたよ」
やがて、竜王の高位の巫子たちがイグニシア王国軍に宣戦布告すると、イフテカールは王国軍の方に顔を出すことが多くなる。
王国軍は、現在、カタラクタ王国の王都カルタスに駐留している。イフテカールはそこへ出向くのではなく、必ず相手を呼び出した。
「実際、全ての貴族が私のことを知っている訳ではないのです」
不思議に思ったエスタに、青年はそう説明する。
つまり、遠方からほいほいとイフテカールが姿を見せることに対して不審を抱かれる、ということだ。
「使い勝手のいい人間とそうでない人間は、どうしてもいますからね。下手に手を広げて、収拾がつかなくなっては意味がない」
とはいえ、通常の人間が管理できる以上の人脈を彼は既に活用しているのだが。
エスタを傍に置くのは、今後、彼をレヴァンダル大公家の実質的な嫡子とするための根回しでもある。
が、実際は反論してくる貴族たちへの牽制だった。今後の権益への欲望を煽り、保身を考えさせ、それでも折れない者には、エスタの剣か、若しくは魔術によって心を変えさせた。
「全く、イグニシア人はおとなしく人の言うことを聞いたためしがない。最低でも一度は逆らってくるのは、貴方がたの国民性なんですか、エスタ?」
皮肉げに笑みを浮かべながら、イフテカールはそう嫌味を言ったものだ。
「人をあげつらったり嘲ったりはしょっちゅうで、自分の命令に従わないと不機嫌になるし、償いと称してどうでもいいようなことを要求するし、朝だろうと夜だろうとお構いなしだし、私が彼から離れた時だって表情一つ変えなかったし、結局最後の最後まで思わせぶりな言動は変わらなくて一体なにを考えていたのかと」
エスタは、ふと、正面に座っている王女に視線を向けた。
彼女はやや斜め下を向き、片手で胸元を押さえている。
「ステラ様? いかがされました?」
「いえ……、何だか胸が痛くなってきて」
慌てて僅かに腰を浮かせる。
「人を呼びましょうか?」
「大丈夫……多分」
大きく息をついて、ステラが弱々しく笑む。
ひょっとして、あまりにも赤裸々に話しすぎただろうか。エスタが僅かに後悔する。
やはり相手はまだ歳若い少女だ。ずっと近くにいた男のことを、自分のような者が滔々と語るなど、面白くないだろうし、そもそも内容自体が衝撃だったのかもしれない。
少しばかり冷静になって、エスタは沈黙した。
しかしステラは、今度はとりなすように笑う。
「でも少し、安心したわ」
「え?」
彼女の意図が読めずに、小さく声を漏らす。
「だって、楽しそうだったもの、貴方」
続けられた言葉の意味は、更に判らない。
「あの、殿下?」
「貴方が楽しかったってことは、彼だって少しは楽しかったのでしょう?」
ああ、そうか。
「……ええ。イフテカールは、実に人生を楽しんでいましたよ。保障します」
彼女が知りたかったのは、イフテカールの使命や憎悪や他者との関わりなどではなく。
自分以外の相手に殉じて目の前から消えた男が、今までほんの少しでも幸福であったかどうか、だ。
「……でも少し寂しいわね」
「そうですね」
「それに、かなり悔しいわ」
「……そうでしょうね」
「貴方は同意しないの?」
楽しげに見つめてくる王女の表情には、嫌になるほどかの人の面影がある。
「訂正しましょう。寂しくもありません」
そうして、あらあら、と、訳知り顔で少女は笑う。
「ほら、仕事を続けましょう。休憩を長く取りすぎました。このままでは、一年経っても終わりませんよ」
全くあいつは面倒な状態にしていって、と、エスタは憮然として呟く。
イフテカール。
お前があっさりとここに捨てていったものたちは、ちゃんとお前を受け継いでいるよ。
それが、お前自身にとっては全くどうでもいいことであったとしても。




