23
まだ雪の残る街路を、二頭の馬が進んでいく。
騎乗しているのは、深くマントのフードを被った男と、ロマ特有の鮮やかな衣類を纏い、額を一周するように布を巻いている男。
エスタとオーリだ。
二人の間には殆ど会話がない。オーリは平然としているが、エスタは苦虫を噛み潰したような顔だ。
彼らは徐々に、身分が低い者たちが住む地域へ入っていく。
そして、一軒の家の前で馬を停めた。
エスタは、慣れた手つきで玄関のノッカーを叩く。
いつものように、さほど待つこともなく扉が開いた。
「お待ちしておりました」
うやうやしく言葉がかけられる。いつものように。
暖かな居間へ通される。物珍しそうに、オーリは周囲を見回していた。
「イフテカールのことは、知っているか」
居心地悪げに、エスタは問いかけた。
初老の男は、ぴしりと背筋を伸ばしたまま口を開く。
「はい、エスタ様。こちらへ来られるのに、随分と時間がかかられたのですね」
「色々と交渉していたんだ。……イフテカールの『本』を渡して欲しい」
「交渉、でございますか?」
エスタの要求に関しては一切触れず、忠実な家令は問い返した。
「ああ。それを火竜王宮に渡せば、イフテカールに従っていた者たちに関しては不問にする、という確約を手に入れた。どのみち、イフテカールがいなくなってしまっては、あの本には全く力は残っていない。悪い取引ではない筈だ」
「偉大なる龍神とその使徒がおられなければ、竜王が我らを恐れる理由など一切ないことを考えなければ、ですな」
面と向かって言い返す男に、オーリが僅かにむっとした表情を向けた。
が、エスタはにやりと笑む。
「その通りだ。……渡してくれるか?」
「お待ちくださいませ」
滑らかに一礼すると、家令は部屋を出る。
「言ってくれるじゃないか」
オーリが小さく呟いた。あの男は、彼がここに存在しないかのように振舞っていた。
「この場は私に任せるということになっているだろう。そもそも、私も、別に竜王宮と和解した訳じゃない」
憮然として、エスタが返した。
「都合がいいね。グランの厚意で、大公家が竜王宮から解放されたっていうのに。ああ、君は大公閣下に認められていないから関係ないのかな?」
オーリは一見平静を装ってはいるが、一時は仇と決めた青年に対し、やはり未だ思うところがあるらしい。挑発するような言葉を放つ。
エスタの視線が、更に険悪さを増す。
直後、タイミングを計ったように、扉の外から声がかけられた。
入ってきた家令は、濃い飴色の革表紙の本をエスタに差し出す。
青年はそれを手にとって、ぱらぱらと捲る。あるページでその手を止めた。
「間違いないな」
オーリが覗きこむ。
見開きのページには、ただ一行、エスタの名前が書かれていた。
「何だい、これは」
「イフテカールとの契約書だ。ここに、血で名前を書くことで、奴と契約を結ぶことになっていた」
「血?」
あからさまに眉を顰めて、改めて視線を落とす。
名前の綴りは滑らかとは言えず、所々、インクが掠れてしまったり、逆に塊になっている部分もある。
「ぞっとしないな……」
呟いて、ふと指を伸ばす。
「そこ。破れていないか?」
エスタの角度からは見えない場所に、羊皮紙の欠片が挟まっていた。開いてみると、ページが丁寧に破られた跡がある。
「そこには、わたくしの名前がありました」
礼儀正しく、家令が言葉を挟む。
「お前の?」
驚いたように、エスタが返す。
老いた家令が、片手を胸に当てた。
「もう、あのお方との繋がりはこれしか残っておりません。何の力でもないのであれば、どうか、私の元に残すことをお許しください」
僅かに戸惑って、青年たちは顔を見合わせた。
「……念のために、名前だけ控えさせて貰えばいいんじゃないかな」
オーリの言葉は、しかし完全に無視されてしまったため、エスタが改めて家令にそれを伝える。
彼が羊皮紙とペンを取りに再び場を外した間、ひとしきり罵声と嫌味を漏らす高位の巫子に、〈魔王〉の裔はかなり辟易していた。
数日後、アルマは大公家の屋敷へ一度戻っていた。
来客を迎えるためである。
訪れたのは、五十代の男性。髪は濃い褐色で、同じ色の口髭を蓄えている。明るい青の瞳は、興味深げに少年を見つめていた。
「ようこそおいでくださいました。アルマナセルです」
マノリア伯爵は小さく笑んで、アルマの手を握った。
「私如き若輩がお目にかかることになり、申し訳ない。父もグラナティスも、まだ数日起き上がれないようですので」
二人とも、未だ火竜王宮で静養しているのだ。
「お気になさらずに。また機会もありましょう。それに、まず貴殿にお会いしたかったのですよ」
穏やかにそう返してくるが、改めての会見を要求してきてもいる。マノリア伯爵領は、イグニシアの北部、ほぼ辺境と呼ばれる地ではあったが、領主は決して侮られる存在ではない。
穏やかに、マノリア伯爵は続ける。
「貴公のことを、あれは熱心に手紙に書いて寄越していましたのでね」
「それは……、お恥ずかしい」
おそらく、イグニシア王国を裏切ることにもなる手紙のことだ。
テナークスが、一体どんな風に領主である兄へ書き送っていたのか。彼は、実際以上に他人を誉めそやすような人間ではなかったが、しかし。
「会えてよかった」
小さく告げて、そして伯爵はふいに真面目な表情で口を開く。
「それで、テナークスはどのようにして死んだのですか」
この貴族が、わざわざアルマを訪ねてきた、理由だ。
下手な対応はできない。それは、よく判っていたけれど。
……ああ。よく、似ている。
彼の死から、まだ十日ほどしか経っていない。未だ、喪失の痛みは強く、アルマの心を締めつけた。
ひとしきり語り終えると、沈黙が満ちる。
居心地が悪く、アルマは再び口を開いた。
「私の力が及ばず、テナークス殿に無念の死を強いてしまいました。申し訳ない」
深く、頭を下げる。
どれほど詫びても足りる気はしない。
「顔を上げてください、アルマナセル殿。貴殿が、歴戦の名将だなどと、誰も思ってはおりませんよ」
穏やかに執り成してくれるが、言っていることはきつい。
彼も間違いなく、イグニシアの貴族である。
「自ら戦場へ出て行ったのは、愚弟の判断です。あれは指揮官であるのだから、背後に下がっていてもよかったものを」
「しかし、それは私が彼を戦場へ追いやるような条件を飲んでしまったせいで」
「そのような状況になる前から、テナークスは戦場に出ていた筈ですよ。覚えておられませんか?」
確かに、彼が生命を落としたユーディキウム砦よりも前、ニフテリザ砦において、彼は自ら軍を率いて戦場へ出た。
尤も、あの時も王国軍に対して降伏を勧告する、という任務があったから、ともとれるが。
だが、伯爵は溜め息をつきつつ首を振った。
「あれは昔から血の気が多いのです。我々家族は、少なくとも弟が礼儀正しく振舞えるようになるまで、かなり苦労したものですよ」
驚いて、目を見開く。
アルマの知っているテナークスは、生真面目で冷静だった。礼儀や慣習に反することには怒りを見せがちではあったが。
「意外でしたか?」
「え……ええ」
「なるほど。手を焼いた甲斐がありました」
兄は、小さく苦笑する。
彼らは、しばらくの間ぽつぽつと思い出話をしていた。
「私はしばらくの間、王都に滞在します。またお会いできれば嬉しいですよ」
そう告げて、マノリア伯爵は大公家を辞した。
おそらく、竜王宮側についたことを最大限利用し、今後の権勢を握ろうというのだろう。
だが、それを咎めるつもりはない。
テナークスは、王国のために、アルマのために、そして仕える主君のために生きていた。
その死の上に何も得られないなど、あってはならない。
王宮内部の、廃墟となっていた竜王宮が突如崩壊して、二週間が経った頃。
王室評議会は緊急に議員を招集した。
不審に思いながらも集まった会議室で、彼らは奇妙な面々と顔を合わせることになる。
議長の椅子に座っているのは、ステラ王女だ。
その右手の角の席には、蟄居を命じられている筈のレヴァンダル大公が既に着いている。
そして王女の後方に椅子が並べられ、五人が着席していた。
一人は、この場の誰もが知らぬ者はない、火竜王宮の高位の巫子、グラナティスだ。
貴族は、例え竜王宮と敵対する王室に組するものであろうとも、ありとあらゆる儀式に彼を担ぎ出そうとする。高位の巫子に執り行って貰うのは、一種のステータスだからだ。そして、竜王に関する儀式には、グランは一切私情を挟もうとはしなかった。
だが、彼が王宮へ足を踏み入れたことなど、今まで聞いたことはない。
その隣にいるのは、黒髪から灰色の角を長く伸ばした少年だ。腰に剣を佩き、足を組んでその場の全員を睥睨している。
その角のせいで随分と印象が違うが、おそらくレヴァンダル大公子アルマナセルだろう。しかし、彼は元々議会に出席を許されていない。しかも、廃嫡された彼が、グランを王都からかどわかしたとされている彼が、カタラクタで反乱軍の一員となっている筈の彼が、何故ここに。
そして、残る三名。アクアマリンのサークレットを額に嵌めた少女。エメラルドを頂いている青年は、面白げに面々を見つめている。もう一人、鋼鉄の地金のサークレットにダイアモンドを誂えた男は、憮然として視線を逸らせ気味だ。
彼らの事情を知らない者も、こっそりと知っている者も、戸惑いに、ざわめきが治まらない。
やがてステラ王女は、手にした扇をぱん、と掌に打ちつけた。
「さて、皆様。異例な会議にお集まり頂き、感謝しますわ。父、イグニシア国王の名代として、私ステラが皆様にお話しすることがございます」
その声に、ある程度、部屋の中は静まった。
「まず、国王陛下の容態ですが、あまり芳しくはありません」
言葉をさほど濁さなかったことで、不安のざわめきが生じる。
「そこで、私ステラ王女が、陛下の快復までの間、国務に当たることとなりました」
そこでまず、大きくどよめきが起きる。
ステラは今まで、華やかな社交界には熱心だったが、政治に関わったことはなかった。将来的には婿を取り、女王となるのだが、それも形ばかりだろう、というのが大方の見方であったのだ。
「勿論、私は若輩で物事には疎くありますので。相談役として、レヴァンダル大公を置くことに致します。また、火竜王の高位の巫子、グラナティス様にも助力をお願いしています」
今までの王室で、力を持っていた者たちが怒声を上げる。
実のところ、竜王宮が世俗に関わらないということは、多少は知られている。だが、絶対的な戒律である、とまでは外部は判っていない。
貴族にとっては、遥か昔とはいえ、王家の血を引く高位の巫子は、政治に関わりあうに充分な理由がある。
まして、竜王宮と敵対していた黒幕であるイフテカールは、この二週間、味方に引き入れた貴族たちの前に現れていない。彼が、どうやら失脚したらしいとあっては尚更だ。
もう一度、ステラは扇を鳴らした。
立場が弱い時には勢いを殺すな、とは、グランの提言だ。続けざまに、言葉を放つ。
「さて、先だって休戦となりました、カタラクタ王国との間の協定ですが。基本的に、イグニシア王国軍はカタラクタより撤退すると、国王陛下より決断が下りました」
怒声に、悲鳴すら混じったようだ。
カタラクタに権益を求めようとしていた者たちだろう。
「勿論、無条件でとはなりません。我々は戦に勝ったのですから、撤退にあたり、それなりの賠償金は手に入れることになるでしょう」
それでも、今後カタラクタ王国を直接支配することによる利益に比べれば、一時的かつ微々たるものだ。
竜王宮が政治に関わることへの不当性について罵声が浴びせられた時点で、アルマは立ち上がった。無言で、腰の剣を抜く。
「あらあら、血の気が多いのねアルマナセル」
刃が空を切る音で振り返ったステラは、鷹揚に声をかける。
「俺は竜王宮の剣だからな。彼らを統率できていないのは、貴女の責任だ、ステラ王女。評議会の人数を半減させたくなければ、おとなしくさせてくれ」
いつにもましてぶっきらぼうに、アルマが告げる。
ペルルが片手で口元を隠した。頬に浮かぶ笑みを見られるのは、今は少々都合が悪い。
「そうね。お行儀よくお願いしますわ、皆様。今日は、四竜王の高位の巫子様がたが観覧されておりますし」
さらりと、背後の一行を紹介されて、議員たちが怯む。
四竜王とその巫子たちに関しては、カタラクタで反乱軍が宣戦布告をした際に、王都にも報せが来ている。
しかし、まさか、今、この場にいようとは。
伝説の具現化に、その場は静まった。
レヴァンダル大公に非難するような視線も向けられるが、男は素知らぬ顔である。
「今後、幾らか変更が続くとは思います。主に、大臣や官吏の配属について。その都度ご報告はしますので、ご了承くださいませね」
にこりとステラが笑む。
普段の、何やら企むような笑みとは全く違うが、それでも議員たちは言い知れぬ不安を抱えることになった。
「全く、後始末はお前たちに一任するつもりだったのにな……」
明らかに不機嫌な顔で、グランが不穏なことを呟く。
彼は、ステラの後見に立つ、ということを一応了承したが、それは好んでということではない。世俗に、王宮に関わらない、という、竜王宮の、そして彼の信条をいたく傷つける行為だからだ。
「まあ、名ばかりと思っておけば宜しかろう。それで恩が売れて多少の顧問料も入るのですから、おいしい話ですよ」
宥めるように世知辛いことを言うのは、レヴァンダル大公だ。火竜王宮で、彼を交えての会議に初めて臨んだ時に、オーリは何とも言えない顔でアルマとグランを見比べていた。それに対し、アルマは頑として反応しなかったが。
「ステラはやっていけると思うか?」
アルマが尋ねる。彼女とは特に楽しい想い出がある訳でもないが、それでも祖国の王女だ。この先、国が弱体化するというのは、彼の望むところではない。
「父王が倒れ、イフテカールも失った。今、王室には彼女しかいないし、それは当人もよく判っている。貴方が端的に説明してくださったおかげですよ、オリヴィニス様」
一旦視線を向けて、大公は礼を述べる。
「保身だよ。私も、彼女に殺されたかった訳じゃない」
小さく肩を竦めて青年は返す。
それに対して意味ありげに笑うと、男は続ける。
「やる気はあるだろう。少なくとも、今は。だが、彼女のやり方はある意味直接的に出る形だ。確かにそれは間違っていないが、背後から推し進めるやり方も覚えて貰わなくては、困る。まあそれに関しては、貴方がいるから安心でしょう、グラン」
「名ばかりではなかったのか?」
彼にしてはあからさまに皮肉を突きつけるが、しかし当主は怯まない。
年の功か。
「……私が初めに会ったのがアルマでよかったよ」
呆れた口調で、オーリは呟く。
「僕の三百年の苦労を少しは察してくれ」
グランは、疲れたようにそう返した。




