22
背後の気配が、次第に濃密さを増す。
それがゆらり、と動いた頃に、流石に気づいたのかオーリが振り向いた。
「グラン……!」
喘ぐような声に、だが、グランはただ真っ直ぐに少年に向き合った。
存在を大きく変化させた彼は、ほんの小さな仕草一つで、仲間たちを捕えていた龍神の罠を崩壊させる。
「全く、俺がちょっといない間に、お前らは何もできてなかったのかよ?」
軽く、泥のこびりついた聖服の裾をはたく。その音に紛れさせて、小さく溜め息を落とした。
成功した。
「お前こそ、随分と時間がかかったじゃないか」
気を取り直して皮肉を言うと、アルマは見るからに顔を歪めた。
「俺がどんだけ酷い目に会ったと思ってるんだよ。まだ身体中がみしみしするぜ」
以前、魔力を成熟させる時も、かなりの負担がかかったようだった。存在を転換させるのは、確かにそれ以上なのかもしれない。
とりあえず、ざっと全員に状況を説明する。エスタもその場に加わり、彼らは行動を開始した。
「僕が地面に形を作る。それをなぞるように、魔力を流しこめ。形を変化させるなよ、効果がなくなってしまう」
「それぐらい判っている。私に命令をするな」
アルマとオーリが地上を離れたところで、グランはエスタに説明を始めていた。
アルマが立てた作戦だということもあり、渋々とそれに従っている青年だったが、それでもグランに対してはまだ思うところがあるようだ。
「命令ではない。指示だ。頼む」
長身の男を見上げ、告げる。
それは何が違うのだ、と言いたげな相手はもう放置して、右手を延ばす。
「我が竜王カリドゥスの御名とその燃え盛る誇りにかけて。邪なる龍神を縛り上げる縄を綯え」
足元の石畳が、淡く赤い光を放つ。
それは見る間に左右へ広がり、巨大な円を描いた。その内側に滑るように様々な直線や曲線、文字のような文様を描いていく。
陣をぐるりと回りこむように、エスタは移動した。グランから円の中心を経て正面の位置に跪き、両手を陣の傍に置く。
慎重に魔力を流しこんでいく様子をしばらく見守る。順調であることを確認し、グランは頭上を見上げた。
やがて、地竜王が顕現する気配が感じられる。
陣を示す淡い光を、やや抑えた。奴らに勘づかれては、意味がない。
赤黒く蠢く闇が、こちらへ向けて落下してくる。
それは地響きを立てて石畳へと激突した。
同時に、グランが抑制を解き放つ。
真紅の光に晒されて、闇が泡のように崩れ、溶けて、消えていく。
巨大なる龍神と、その掌に跪いているイフテカールの姿が露になる。
憎悪を籠めた視線が、真っ直ぐに向けられた。
「グラナティス……!」
もう、彼に侮られない。もう、生命を掴まれたりは、しない。
「僕を生かし続けたのが、お前たちの敗因だよ。イフテカール」
嘲りと、何よりも歓喜が湧き上がり、浮かび上がる笑みを抑えられない。
アルマが無造作に龍神を縛る陣へと踏み入った。
抵抗する意思を見せたイフテカールを、陣の外へと放り出す。
そのまま〈魔王〉の裔が龍神の四肢を、風竜王の高位の巫子が頭部を傷つける。
そして、龍神を閉じこめる陣は、煮え滾る溶岩の坩堝と化した。
『何故だ! 何故、この儂が、龍神である儂が、このような人間如きに!』
龍神が絶叫する。
その身は、遥か眼下に満ちる溶岩にゆっくりと沈んでいった。
視界の隅に、ゆらりと動く影がある。
グランの正面、エスタのすぐ傍で、イフテカールが立っていた。
二人は何か話しているようだが、その内容は聞こえない。
金髪の青年は、小さく笑みを浮かべたようだった。
「……イフテカール」
グランが呟いた名前は、決して耳に届いてはいまい。
幼い頃から見知っていた、現在ただ一人生存する人間が、その身を地獄へ向けて落下させる。
何とはなしに、視線を上へと向ける。
熱気に滲む視界に、明るくなってきた空が映し出された。
王女を救い出して戻ってきたアルマを、目の前に座らせる。
このまま〈魔王〉の状態で彼を放置しておくのは、少々危険だ。
一通りの説明を済ませると、アルマは驚いたような、困ったような顔で見返してきていた。
「……お前、ここまで考えて」
「陰謀を巡らせているなかで、奴らを倒した後どうするか、が一番楽しかったよ」
顔を僅かに伏せて、呟く。
奴らを倒した後に。
そんなことは、もう悩むまでもない。
〈魔王〉の額に片手を触れさせる。
そして、グランは彼を人へと変異させた。
苦痛にのたうち回る少年を、慣れた口調でクセロに抑えつけさせながら。
とりあえず順調に事は進み、その場をペルルとクセロに明け渡す。
仲間の注意は、アルマの傷へと向いている。誰も、こちらを見てはいない。
少し離れた場所まで、ふらつきながら歩く。
そして、瓦礫に背を預けて座った。
龍神とその下僕を倒した後に、なすべきこと。
軽く目を閉じる。
ただの呼吸が、随分と重い。
だがそれも、もう少しの間だけだ。
そう。すぐに。
火竜王の高位の巫子、不死なる幼き巫子グラナティスは、その意識をゆっくりと闇へ沈めた。
そして、瞼を開いた瞬間の、呼吸の軽さに驚いた。
現実が把握できなくて、しばらく呆然とする。
視界に入るのは、見慣れた竜王宮の天蓋だ。傍らの小さな卓に燭台が置かれ、蝋燭の炎が揺れている。
ゆっくりと片手を上げた。小さな白い手には、膿み爛れた痕はおろか、傷の一つも見受けられない。
「……夢、か……?」
混乱して、小さく呟く。
火竜王宮を出て、長い旅をしたことも。
イフテカールと龍神をこの世界から追放したことも。
腐敗が進み、もう幾らも身体が保ちそうになかった、ことも。
溜め息を落とし、ゆっくりと身を起こした。その身体がぴたりと止まったのは、動かすのに支障があったからだけではない。
壁際に椅子を寄せて座る、金髪の男と赤銅色の髪の少女。二人とも深く眠っているらしく、身動き一つしない。
そして男の頭の上からは、異形の竜王がじっとこちらを見つめてきていた。
「……地竜王、エザフォス」
『気分はどうじゃな、カリドゥスの子よ』
グランは、一気に記憶が蘇る感覚に、目を閉じた。
「夢では、ないのですね」
『応。ぬしらは首尾よく、龍神ベラ・ラフマを放逐した。上出来じゃ』
淡々と告げられる言葉に、ぎゅぅ、と拳を握る。
「では何故、僕は生き延びているのですか」
龍神はこの世界から消えた。
ならば、その龍神の力を利用する、幼き巫子の延命手段はもう使えない筈だ。
だが、地竜王は淡々とそれを説明する。
『ニネミアの子が、まずこの地まで先行し、巫子たちにそなたの状況を伝えた。そして、わしらが龍神を送ったあの地より、馬車を仕立てて全員で移動した。ここに着いた時には、どうやらもう準備が整っておったらしいな。どうも出力とやらが足りなかったようだが、あの〈魔王〉の子らが、無理矢理動かしおったよ』
「〈魔王〉の、子ら……」
アルマと、エスタ。
アルマの〈魔王〉化を解いたのは、それを成せないように、という思惑もあったのだが。
まさか、エスタがグランの生命を繋ぐために動くなど、予想もしていなかった。
おそらくレヴァンダル大公家当主の生命を人質にでもしたのだろう。その辺り、グランは青年の忠義に対して露ほどの幻想も抱いてはいない。
「余計なことを……」
溜め息をついて、どさり、と寝台に倒れこんだ。
失望感に、起きている気力が失せたのだ。
『前にも言うたであろうが。カリドゥスの巫子、グラナティスよ。そなたの生命は、犠牲にするには大きすぎると』
地竜王が続ける。おそらくは、したり顔で。
「そんなもの、火竜王の前では一片の価値もない」
小さく呟く。
竜王は、巫子を大事にするだろう。生きて、利用価値がある間は。
だが人間の生命が終わることはごく自然の成り行きであり、それに関して竜王は関知しない。
巫子の生命を惜しむことなどは、ない。
彼の肉体が、幾ら消費されていようと、今までに一度たりとも。
『だから侮っておる、と申しているのだよ。幸い、そなたには時間が与えられた。使命にも恨みにも惑わされず、しばらく考えてみるがいい』
しかし、地竜王はなおもそう告げる。
グランはそれには答えなかった。
『さて、そろそろこやつを起こしてやろうかの』
のそり、と、異形の竜王は金色の髪の上で身じろぎする。
「疲れているのでしょう。寝かせておいてやればいい。全く、妙なところで義理堅い奴らだ」
地竜王と二人きり、というのは、少しばかり歓迎できないが、しかしグランはそう提言した。クセロを起こせば、仲間たちが大挙してやってくることは容易に予想できる。冷静になれるまで、もう少し時間が欲しい。
まだ混乱しているのか、なかなか思考はまとまらないが。
もしも落ち着いて死が迎えられる時が来たら、彼らに何を言い残そうか、とふと考えた。
龍神との戦いより、二日後。
アルマとクセロは、王宮の中を歩いていた。
イフテカールは王宮の内部に多くの拠点を設けていた。それを逐一探し出し、残された遺物を回収するのが目的だ。
アルマは王宮に詳しいし、クセロは地竜王の御力で龍神の気配を感知することができる。
既に幾つかの部屋を巡り、次の拠点へ向かっている時だった。
「あら」
目の前の部屋から、ステラ王女が姿を現した。
「ごきげんいかが、アルマ?」
「かなり疑わしいところだよ、ステラ」
あからさまに胡散臭い顔で、アルマは答える。
「社交辞令も忘れてしまったの?」
呆れた顔で、ステラは返した。
「そろそろここでは体面を取り繕う必要がなくなったんだ」
あっさりと返された返事に、やれやれというように王女は溜め息を落とす。
「それはそうと、もう一人誰かいたようだけど……」
クセロは、最初のやり取りを始める前に、素早くどこかへ姿を消していた。
懸命な判断だ。
「俺の仲間を毒牙にかけないでくれ」
「酷い言い方ね。ノウマードなの?」
「いや。あいつは、今日は街に行っているよ」
ふぅん、と呟く。
「まだあいつを殺したいのか?」
緊張しつつ尋ねる。が、ステラはそれに苦笑した。
「まさか。あの日、傷を治して貰った時に、色々事情は聞いたのよ。傷痕一つ残さないでくれた恩もあるしね。……見る?」
「それについてはあんたの言葉を信じるよ」
軽くドレスの裾を持ち上げかけた少女に、きっぱりと言い渡す。ステラは楽しげに、ころころと笑った。
「今日は何のご用事?」
「イフテカールの巣穴を探してるのさ」
「ああ、彼の部屋ならこっちよ」
さらりと告げて、廊下を歩き始める。イフテカールは、ステラの公然の愛人だった。彼女の宮殿に部屋を持っていても、不思議はない。
「あいつはどんな男だったんだ?」
ぽつり、と尋ねる。
「それは夜の話?」
「一般的に、だ」
ぴしゃりと断言する。ステラは面白そうに見上げてきた顔を、ふと暗くさせた。
「従順だったわ。私のどんな要求にも、滞りなく応えてきた。一つだけ、ノウマードを捕らえて来い、というのは無理だった。だから、それが少し不思議だったの。ノウマードがただのロマでなかったことで、少し判った気がしたけど。……でも、彼にした他の命令は、本当に私が望んだことだったのかしら。イフテカールが、自分にできることを、私に命令させていたのではないのかしら」
王女の信頼を勝ち得るために。
「奴にできなかったことなんて、殆どないんだろう」
アルマは憮然として呟いた。
龍神の祀られていた礼拝堂で、彼女はイフテカールにいいように操られている。
自分の意思が、一体どこまで本当に自分のものだったのか。その曖昧な境界に不安を持っていたステラは、小さく、そうね、と返す。
「ずっと小さな頃から、傍にいた気がしていたの。姿が変わっていなかったから、思い違いだと思っていたけど。私は、彼に育てられたようなものなのかもね」
しんみりと続ける。
やがて質素な扉の前で彼女は立ち止まった。
「遺品は、全て持っていってしまうの?」
「いや。必要なのは、力を残しているものと、あいつの陰謀に関わるものだけだ。日用品なんかは持っていかないよ。あんたが好きに処分したらいい、ステラ」
「そうね。ありがとう、アルマ」
細かいレースで編まれた手袋越しに、片手を少年の頬に触れる。そのまま指先が長く延びた角を辿り、先端に被せられた金製の飾りから下がる、滴型のアメジストを軽く摘み上げる。一見無邪気な、悪戯っぽい視線を流した後でステラは廊下を戻っていった。
「……おっそろしい女だな」
どこからか、しみじみとしたクセロの声が響く。
「生命が惜しかったら、あれには関わらない方がいい」
半年前、オーリにした忠告を再び口にして、アルマは扉に手をかけた。




