19
涼やかな夜気を、胸いっぱいに吸いこむ。
炎の熱は、グランを害することはない。だが、それとは別に、熱気に晒されていた身としてはやはり心地いいものだ。
頭上から、ちらちらと火の粉や灰が舞い落ちる。
呪いによって作られた牢獄を、あっさりとその剣で切り裂いた少年は、エスタを庇い、地に伏せた格好で目を見開き、こちらを見上げてきている。
「おおおおおお前なっ! 流石に今のはやばいだろ!」
二人に向き直ると、呪いによって抉られた傷が、改めて痛む。グランは割とゆったりした服を着ているが、それにも血が滲んできていた。
「当たり前だ。殺す気でやっている」
言い切った言葉に、アルマが見るからに怯む。
彼は、レヴァンダル家の者たちは、身内に酷く甘い。この世界に寄る辺がないことが、血縁者に対する執着へと変化している。
そのことは、三百年彼らの傍にいたグランが、一番よく知っていた。
「仮にもお前の剣だった男だ。お前に手を下せとは言わん。僕がやる。そこを退け」
アルマが、エスタへ視線を向ける。
その紫色の瞳に浮かぶのは、恐れだ。
そう、彼らは、身内に裏切られることには慣れていない。
「……貴方は、結局、竜王宮を選ぶのですね」
しかし、エスタは、決定的に、レヴァンダル大公家を、アルマナセルを、〈魔王〉の血筋を、裏切った。
「グラナティスを殺し、貴方を殺し、旦那様を殺して、私が〈魔王〉の遺志を継ぐ」
エスタの宣言するような口調に、鼻で笑う。
「〈魔王〉〈魔王〉と、やたらと拘る男だな。自身に力も誇りも持てないから、祖先の名に縋ろうというのが見え見えだ。言っておくが、〈魔王〉アルマナセルは、貴様が思うような人物ではなかったぞ」
グランの言葉に、ぎり、と青年は奥歯を軋ませた。
それほど、寂しかったのか。
レヴァンダル大公家に迎えられることなく、貧しく肩身の狭い立場で育ったことが。
自らの依って立つところを、始祖である〈魔王〉に、この国の英雄であり人を超越した存在に求めざるをえないほどに。
「あれは文字通り〈魔王〉だ。人ではない。人の血が混じった、お前たちとも違う。人の愛情も人の友情も、全く理解の外だった。価値観が違う。美意識が違う。そもそも魂の造りが違う。俗悪で卑小で尊大で醜悪だった、我らが……」
古き〈魔王〉アルマナセルは、今現在を生きる彼が縋りつくべきものではないのに。
「黙れ! アルマナセル様を侮辱するな!」
しかし、青年は吼える。
その言葉の一つ一つで、仕えていた少年を、そして自らを切り裂きながら。
とは言え、既に彼に勝機はない。
今は三竜王の巫子が、何故か全員揃った状態だ。
アルマは積極的にエスタを殺そうとはしないだろうが、それでも基本的には火竜王の高位の巫子には逆らわない。
どのような形であれ、ここで憂いを取り除ける筈だったのだ。
このままなら。
「……ふむ。〈魔王〉と竜王の巫子が全て揃っていては、少々分が悪いですね」
聞き覚えのある声が、夜空に流れる。
一瞬、懐かしさすら覚えてしまう自分が腹立たしい。
「貴様……!」
「イフテカール!」
エスタが驚愕したように名前を呼んだ。
絹糸のように細い金髪。澄んだ青い瞳。薄く笑みを湛えたままの唇。
それこそ何百年も会っていないというのに、グランの記憶にあるままの姿で、青年はそこに立っていた。
「彼らを殺すのなら、一人ずつで、とお願いしていたではないですか」
その唇から直接放たれる、明らかな敵意。
そして、同盟者である筈のエスタへの嗜虐性。
判っている。昔、幼い頃に見せていた顔は、彼の本質ではない。
その、イフテカールの本質を、エスタは知っている。それでいてなお、彼の助力を受けたのだ。
〈魔王〉の裔を、彼の子孫をむざむざ失ったのは、自分の失態だ。
判っている。
「下僕。そいつをこちらへ渡す気はないか」
グランの呼びかけに、青年は僅かに驚いたような視線を向ける。
名前ではない。その侮蔑に満ちた呼称が、今の彼らの互いの立場を端的に突きつけていた。
イフテカールは口を開く。
昔と変わらず、うやうやしく。
昔と変わらずにこちらを侮って。
新たな〈魔王〉の裔と、龍神の下僕が姿を消して、グランは心のままにひたすら罵った。
彼らへの苛立ちと、そして自らの甘さを。
ともあれアーラ砦に戻ろうとして、がくん、と膝から力が抜ける。
……まずい。
ぞく、と背筋が冷えた。
「グラン!」
アルマが走り寄ってくる。
「来るな!」
制止する声は、僅かに強すぎた。
何とか立ち上がり、歩き出そうとして、そしてまた蹲る。
龍神の下僕たちと対峙していた時よりも、今の焦燥感の方が強いかもしれない。
「ああもう、意地を張るなよ。砦まで運んでやるからさ」
アルマが、手を伸ばしてきた。
「触るな!」
反射的に、その手を振り払う。
「……グラン……?」
傷ついたような瞳が、幼い巫子を見つめてくる。
ペルルとオリヴィニスが、不審そうな表情を浮かべていた。
だが、触れられる訳にはいかない。
今の自分の状況をきちんと把握するまでは。
余裕などない。全く。
空気が、奇妙な緊張感に張り詰める。
「意地を張りすぎだぜ、大将」
呆れた声でそれを破ったのは、金髪の部下だった。
「危険だからお前は出てくるなと言っておいたはずだ」
この男には、他に計画していることがある。人間相手ならともかく、龍神の下僕や敵対する〈魔王〉の裔などという相手にまだ晒しておきたくはない。
グランの非難にのらくらと返事を返しながら、クセロは幼い巫子を抱き上げた。少なくとも、異常を感じてもそれを顔に出さないだけの分別は持っている。
他の者たちを足止めして、金髪の男はアーラ砦へと足を向けた。
「……悪いな」
「そのためにおれを飼ってるんでしょうが」
肩を竦めかけて、グランに振動が伝わると思ったのか、止める。
「嫌味か」
小さく溜め息をついて、グランは手下の肩に頭をもたせかけ、目を閉じた。
クセロの行動には無駄がない。
途中で厨房に寄り、扉を一度蹴飛ばすとプリムラに湯を沸かすようにと言いつける。
そして寝室へ向かい、静かにグランの身体を下ろした。
請願を唱え、目の前に火球を発生させる。灯りが必要だ。アルマの残していったものよりも、強い灯りが。
腕や足を動かすたびに引き攣れた痛みを覚えながら、グランは服を脱いでいく。
身体を貫く異様な傷口を目にしても、クセロは眉一つ動かさない。
「どこか異常はあるか? 肌が痣のように変色しているとか」
「……いや。見たところはないぜ」
背後に回り、注意深く見ながら答えてくる。
「軽く触れてみてくれ。内臓がある辺りだ。指がめりこむ場所があるかもしれん。熟れすぎた果物のように」
流石に僅かに怯んだ気配がしたが、男の掌が慎重に肌に触れた。がさついた感触が残る。
「ない、と思う」
「そうか」
身体の前面は自分で判る。まだ、危惧したほどに症状は進行していなかった。
自分に直接向けられた呪いを浴びて、どんな変化があるかと思っていたが。
「大丈夫なのか?」
「そのようだ。多分、先刻動けなかったのは、おそらく単純に疲労と血を流しすぎたせいだな」
安堵の表情を浮かべ、火竜王の御力で、抉られた傷を癒していく。
プリムラがおずおずとお湯を満たした盥と布を持ってきた。彼女は流石に眉を顰めながら、それでも手早くグランの肌に残った血を拭いさる。
「服はどうする?」
「燃やしてくれ。全てが灰になるまでだ」
頷いて、クセロは血が沁みた衣服を手に部屋を出かけた。
「助かる。二人とも、すまん」
短い謝罪に、男と幼い少女はそれぞれ違った笑みを見せた。
そのうちにペルルが戻ってくるから、と、適当なところでプリムラを帰す。
少し黴臭い寝台に、どさり、と身体を沈めた。
「……疲れた」
小さく零すと、目を閉じる。
その夜は何か懐かしさを覚える夢を見た気がするが、しかし目覚めてからは思い出すことができなかった。
翌日には、彼らは湖に向かった。
この旅の、最大の難関に挑むために。
太古に失われた、古き竜王である地竜王を探し出すのだ。
そもそも実在したのかどうかも、そして現存しているかどうかも判らぬ竜王だ。
それに比べれば、風竜王を解放することや、この先の計画などは容易に過ぎる。
無駄とも思える日々を送り、焦りがじりじりと心を苛む。
グランにとっての最大の誤算、クセロの反意が顕れたのが、この時だ。
とは言え、流石にクセロが最初から彼の言葉に全面的に従う、と予想していた訳ではない。
この金髪の男は、グランの命令を受ける際に、大抵一度は反論し、軽口を叩いていた。
だからこそ、彼は慎重を期した。クセロに対する支配を強め、信頼感を示しては警戒心を緩めさせ、そして、逃げ出す隙のない場所へと追いこんだ。
クセロが船室の一つに閉じこもったことも、想像のうちだった。しばらくの間、悩むことは避けられない。
それでも、この金髪の盗賊が、最後には苦笑しつつ使命を果たすだろうことを、グランは疑っていなかったのだ。
グランは、自ら望んで竜王宮に入った訳ではない。火竜王に選ばれた時も、歓喜した訳ではなかった。
それでも竜王に対する自然な畏敬は身についていたし、何も持たなかった自分を選んでくれた、という、誇らしさもあった。
それらが欠けている男が、一体どういった行動に出るか判らないほどに追い詰められている、というのは、幼い巫子にはある意味想像の外であったのだ。
扉を開け、一歩中に踏みこむと、不快な臭いが鼻を衝く。酒精と、汗の匂い。
竜王宮は、基本的に常に清められている。そこで人生の大半を過ごしたグランには慣れない臭いだ。
だが、断固とした意思の元、グランは扉に鍵をかけた。
「……何の用すか、大将」
寝台の上、シーツがぐしゃぐしゃに盛り上がっている中から、ゆらり、と腕が一本持ち上がり、ふらふらと揺れてからまた落ちた。
「まだ酔っているのか」
軽口、と言ってもいい口調に内心少しだけ安堵して、グランは足を進めた。床板に固定されている椅子に腰を下ろす。
「あの程度の酒、二日目にはもうなくなってたよ。もう少し強いのを積むべきだ。ラムとか」
「竜王宮の船を何だと思っている。そもそも、ここは海じゃない。水がなくなれば汲めばいいだけだ」
尤も、そのままでは飲めないが。今、この船には竜王の高位の巫子がいる。飲料用の水を浄化するなど、造作もない。
グランの返答に小さく笑い声が返る。だが、それは、中途半端に消えた。
幼い巫子が眉を寄せる。
「納得していないんだな」
「おれが納得することが、大将にとって何か意味があるんすか?」
その問いかけ方が、あまりに馴染み深くて溜め息をついた。
「お前は最近、オリヴィニスと一緒にいすぎたな」
責任を風竜王の高位の巫子に押しつける。
ただの時間稼ぎだ。判っていた。
言葉に迷う。結局、誰に言うつもりもなかった事実を告げることしかできない。
「……正直、お前が地竜王の巫子になる確率は、さほど高くない。巫子はただ、竜王の意思によって選ばれる」
万全の策を持ち、自信に満ちている高位の巫子、という仮面を剥がしたも同然だ。
だが。
「確率とか、どうでもいいんすよ。おれは学がないし、そんなこと聞いても頭を痛めるだけだ。『選ばれるかもしれない』。それ以外に、おれに関わりがある言葉はない」
クセロは、ただ、感情においてそれを拒絶する。
「……おれには、無理だ。勇猛でもない、臆病で、諦めが早くて、真摯でもなく苛烈でもなく慈愛に満ちてもいない。なあ、大将。なんで、おれなんだ? 他に幾らでも、できた人間はいるだろう」
この男の本心からの弱音を、初めて聞いた気がする。
確かに、自らを弱いと思っているのだろう。
だが、それは的外れだ。
「そんなもの、竜王の御前では屑だ。勇猛さやしぶとさ、真摯さや苛烈さや慈愛深さなど、何の意味もない」
そうだ。竜王の前で、人の、人如きの善なるものや悪なるものなど、何の意味も、ない。
だが、クセロはその言葉に激昂した。
「じゃあ、なんでおれなんだ! 身寄りがないからか? 家名を棄てたからか? おれの命をその手に握っているからか!」
何故、と。
その答えだけは、グランははっきりと告げることができる。
「お前が、あれを目にしても悲鳴一つあげなかったからだ」
グラナティスの、不死の秘密を。
将来彼が入りこむ、おぞましき器を。
火竜王に仕える巫子でも竜王兵でもない。まして、レヴァンダル大公家の者でもない。
ただの民でしかない、この男が目の当たりにして、それでも。
ふ、と、クセロの身体から力が抜ける。
「……大将」
「お前が臆病だなんて、僕は思ったことはない。あの時、お前は、これが一体幾らぐらいで売れるのかと平然と尋ねてきたじゃないか。竜王兵二人に組み敷かれた状況で。……これでも、お前には感謝している」
グランにとって、それは本心だ。
しかし、クセロは迷い、俯く。
「……臆病だよ。おれは。怖くて仕方がないんだ。酒が切れちまってるから、もう、腕の震えが止まらない。おれには無理だよ。大将……」
掌で顔を覆う。幼子のように。
グランは、彼の傍に立ち、その頭を胸に抱いた。
「お前以外に、任せられる者はいない。すまないな。僕を、幾らでも恨めばいい」
男は言葉もなく、ただ力なく頭を振る。
グランが差し出したこの新しい地位が、彼の力を削ぐことになるだなんて、本当に、思ってはいなかったのだ。
だが、数日後にはクセロは籠もっていた部屋から外へと足を踏み出した。
それが、彼を必要とする、金庫破りという障害が起きたからという理由であっても。
今までのように、彼自身の培った能力によって、皆の力になれるという理由で。
それでも、第一歩だ。
グランは慎重に、急くことなく、押しつけることなく、金髪の男を見守った。




