04
彼らはアルマが辿ってきた路地をしばらく戻ったところで、また別の路地裏へと足を踏み入れていった。
そこはすぐに、暗く、道の端に溜まったごみと汚水溜めの悪臭が立ちこめる道へと変わる。
「……こんなところにいるのか?」
眉を寄せて、アルマが尋ねた。
「貴族のお坊ちゃんには耐えられないか? 帰ってもいいんだぜ」
足元の、折れた林檎の芯を蹴飛ばして、子供が揶揄するように言う。むっとして、アルマはそのまま足を進めた。
正直、この程度の薄暗さは彼には取り立てて不自由ではない。
しかし、路地自体には人気がないにも関わらず、そこここから向けられる視線が、酷く落ち着かない気分にさせた。
アルマが貴族であることは、その身なりからすぐに知れる。目の前を歩く子供でさえも判ったように。
そして、ここは、彼が歓迎される世界では、ない。
ふいに背後から殴りかかられて、ようやく彼はそのことを思い知った。
「……っ!」
頭を殴られよろめいたところを、力任せに押し倒される。
石畳の上に抑えつけられて、頬に、べちゃりと何かが付着した。相手は、手際よくアルマの腕を捻り上げている。
「何をする!」
怒声を上げた辺りで、周囲にぞろぞろと気配が増した。僅かに見上げられる範囲だけでも、数組の脚が視界に入る。おそらく、全てが男。
その、色彩が鮮やかな服と靴から、周囲にいるのがロマであることが知れる。
「ちょろいもんだな?」
嘲るような声が降ってきて、奥歯を噛みしめた。
「簡単過ぎねぇか? こいつ、本当に〈魔王〉アルマナセルなのかよ」
ごつ、と爪先で脇腹をつつかれた。
「大公家の紋章がついた馬車から降りてきたとこからつけてたんだぜ。背格好も一致する。十六歳、黒髪、紫の眼、頭に布を巻いている」
……まずい。
単純に、貴族を身ぐるみ剥がそうというだけならまだしも、こいつらは自分を大公子だと知って襲ってきている。
額に、脂汗が滲む。
ほんの半年、王都を離れただけで、これほど警戒感が薄れるのか。
いや、三ヶ月だ。ほんの三ヶ月、ただ一人のロマと関わっただけで。
以前の自分なら、遠目にロマの姿を認めた時点でその場を離れていたはずだった!
まずい。まずい。まずい。まずい!
思考が空回りして、身動き一つ取れない。
「ひん剥いてみれば、判るだろうよ」
簡潔にそう言って、男の手が頭の布に触れた。
「止めろ……ッ!」
ざわ、と背筋が粟立つ。
もう、なりふり構っている余裕はない。
頭を振って男の手を逃れながら、息を吸った。
「消えよ--」
「っと」
術を唱えかけたところで、他の男がその掌で口を塞ぐ。同時に後頭部を抑えつけられて、逃れられない。
「危ねぇな」
「びびってんのか? こいつが魔法使うとか、迷信だろう」
「本当に〈魔王〉だとしたら、迷信じゃない」
「いいからさっさと解けよ。面倒くせぇなら切っちまえ」
「莫迦言うな。かなりいい布だぞこれは」
「みみっちいな」
げらげらと笑い声が満ちて、アルマの頭を覆う布が、一重、二重と剥がれていく。その過程で時々手は離れるが、他の者が固定しているために、隙はない。
そして、とうとう、布は全て取り去られた。
暫し、周囲が沈黙する。
「……間違いねぇ。〈魔王〉だ」
絶望に、身体の力が抜ける。
アルマナセルの、ちょうどこめかみの辺りには、拳ほどの大きさの角が一対、生えていた。
「すげぇ……」
子供が、小さく声を漏らす。
それは、形状で言えば羊の角に似ていた。まださほど大きくはなく、くるりと巻いている。
「触ってみていいか?」
おずおずと、子供が問いかけた。
「気をつけろよ」
男のうちの誰かが許可を出して、小さな手が角に触れた。
びく、とアルマの身体が震える。
この角が、アルマを他の人間と、他の家族とすら隔てる要因だ。
角を持ってこの世界に産まれ落ちたものだけが、魔術を扱える。
そのせいなのか、角は酷くデリケートで、急所と言ってもいい部位だった。乱暴に触れられれば、それだけで激痛に襲われる。
息を止めて、少年は他人の感触に耐えた。
幸い、子供は物珍しげに触れただけですぐに手を離した。
知らず、ほっと緊張を解く。
「……で、どうするよこれ」
「どうするって、生かして解放する訳にはいかねぇだろ」
吐き捨てるように、誰かが返す。
「まあそりゃそうなんだが。一息に殺すのもあれだしさ。この、角。殺る前に、取っちまわねぇ?」
「角を?」
「魔王の角なんて、他にはないだろ。これを見れば、手を下せなかった奴らも、少しは溜飲が下がるってもんだ」
「……それ、凄く痛いんじゃないか?」
子供が、怯えたように口を挟む。
「でなかったら意味がないだろう」
だが、男はあっさりとそう返した。
いきなり、指が角の付け根をまさぐってくる。
「……っ、う」
アルマが、塞いだ手の内側で、小さく呻いた。
「頭の骨と一体化してるんだな。付け根で切り落とすのが一番いいか」
「家畜の角を落とすみたいなもんだな。誰か鋸を持ってるか?」
鼓動が、頭に響く。
抑えても抑えても、呼吸は荒くなっていく。
汗が止まらない。
震えが止まらない。
止まらない。
恐怖、が。
「鋸は馬車に戻らねぇとなぁ」
残念そうに、誰かが答えた。
ほんの少し、安堵したのも束の間。
「鉈ならあるぜ」
と、他の方向から声が落ちる。
「試してみるか」
俯せにされた背中の上に、ずしん、と重荷が乗る。
無造作に髪を掻き分けられて、角と頭蓋の接合部に、一、二度、硬い感触が当てられた。
まさか、と、思っていたのは確かだ。
まさか、本当に、危害を加えられることがあるなんて、と。
自分を脅すためだけに、こんなことをやっているのではないか、と。
だが。
「よっ」
軽い掛け声と同時、がっ、と鈍い衝撃を叩きつけられる。
「っぁあああああああああああっ!」
少年の身体が、撥ねる。
爪先が、足掛かりを求めて石畳を蹴る。拘束された手が、支えを求めて宙を掻く。身を捩り、のしかかる男の身体から、その凶器から逃れようとひたすらもがいた。
「しっかり抑えとけ!」
怒声が飛ぶ。
口を塞いでいた手が外れていて、慌てて再び伸ばしてきたのを、指示している男が止めた。
「それはいい。鉈が滑ったら、お前が怪我をする。それより、頭を固定しろ」
「ああ」
前よりも厳重に身体を押さえ、再び、鉈が振り下ろされる。
「う、あ、がぁあああああ、ぁああ!」
絶叫が、路地裏に満ちた。
数度、鉈に蹂躙され、とうとう角鞘を破壊したらしい。どろり、とこめかみから血が流れ落ちる。
〈魔王〉の、血が。
次の瞬間、轟音と共に、世界が発光した。
軽く街路を転がり、どん、と建物にぶつかって身体が止まる。体重が軽いせいか、さほどの痛みも感じなかったロマの子供は、怖々と、反射的に閉じていた目を開いた。
〈魔王〉アルマナセルは、石畳の上で蹲っていた。身体を丸め、両手で腕を抱え、呻き声の合間に長い、荒い呼吸を漏らしている。
彼を抑えつけ、角を切り落とそうとしていた仲間たちは、一人残らず撥ね飛ばされていた。子供と同じように、周囲の建物に叩きつけられる形でぐったりと倒れている。
そして、〈魔王〉を中心とした空気が、ばちばちと音を立てて放電していた。
「なん……だ、こいつ……」
少し離れて立っていたためなのか、無傷らしい男の一人が呟く。
その言葉に我に返ったか、他の男がはっと息を飲んだ。
「殺せ! 今すぐ殺してしまえ! 誰か弓を……!」
十人以上の男たちで臨んで、この場に無事でいるのは、もう四人ばかりだ。しかも、彼らの中に弓を持つものはいない。
ばちん、と鋭い音がして、倒れている男のうち、一人の身体が大きく跳ねた。
恐慌に陥るまで、時間はない。
そんな時に。
「……何をしている」
暗がりから、低い、平坦な声がかけられた。
アルマと子供が歩いてきた方向から、一人の男が現れた。
濃い栗色の髪。額を一周するように巻かれた、緑地に黒い模様の染め抜かれた布。飾り気のない深緑のマントに身を包み、手には弓を携えている。
ロマだ。
男たちがほっとして、汗を拭った。
「ああ、兄弟。ちょうどいい。そいつで、あれを殺してくれ」
震える指で、蹲る少年を指し示す。
その様子を一瞥し、青年は足を進めた。
「おい、危ねぇぞ! 近づくな!」
男たちの制止を聞く様子もない。
こちらへ足を進める彼の肩越しに覗くものが、矢筒とリュートの先端だと気づいて、子供が小首を傾げた。
「……あ。ひょっとして、〈魔王〉が探していた奴……」
「はぁ!?」
一人の男がその言葉に反応する。
「〈魔王〉が探していただと? ロマをか?」
その、新参のロマは、放電する空気も気にすることはなく、もうアルマのすぐ横まできていた。冷徹な視線で、がたがたと震え続ける少年を見下ろす。
「……私を、探していたのか」
ぽつりと青年が呟く。
小さく吐息を落として、ノウマードは真っ直ぐにロマたちを見据えた。
「何を、していた」
無意識に、男たちが一歩退く。
「何、って……、見れば判るだろうが! そいつを殺すところなんだよ!」
「相手が誰だか判ってやっているのか? 彼は大公家の跡取りで、王家に次ぐ地位を持っている。そんな相手を嬲り殺しにしたなんて、吊される程度で済めば幸運だ。この場の全員が火炙りにかけられた上、国内に滞在するロマが全て虐殺されてもおかしくない。ついでに言うと、今現在、カタラクタとの国境は開放されていないから、国外に逃げ出すことは不可能だ」
苛立った表情を崩すことなく、ノウマードが淡々と告げる。
さほど外れもしないであろう予測を突きつけられて、男たちが詰まった。
「悪いことは言わない。すぐにこの場を去れ。彼の生命が助かれば、ひょっとすれば最悪の事態にはならないかもしれない」
「……今ここでそいつを逃がしたら、今度いつ捕まえられるんだ! 三百年経って、ようやく見つけた好機なんだぞ!」
自棄になったように、一人の男が叫ぶ。呆れたように、ノウマードが嘆息した。
「彼は三百年前には生きていなかった。君たちのことは知らないが、多分それほど長生きではないだろう。当事者でもない人間が、昔の怨みを持ち続けていて何になる?」
「こっちだって、仲間をやられてるんだ!」
十人近い男たちが倒れている様を指して、叫ぶ。
「これは、今の怨みだろうが!」
「いやそれはそもそも君たちが彼に手を出さなければよかっただけじゃないのか?」
遺憾なく現実主義を発揮して、ノウマードが指摘する。が、男たちはそれで納得はしなかった。
「何で、お前にそんなことを言われないといけないんだよ」
低く、呻くような声が漏れる。
「大体、てめぇに命令される謂われはねぇ!」
「お前もロマだろうが! 何で、〈魔王〉を庇う!」
「邪魔するようなら、お前も一緒に殺してやるぞ!」
口々に罵声を浴びせられて、ノウマードは眉を寄せた。
ちらり、と足元の少年へ視線を向ける。
彼は身を縮め、顔を俯かせ、苦痛に耐えている。周囲の様子どころか声すらも耳に入っていないようだが、一応念のためだ。
無造作に、数歩、ノウマードは男たちへと近づいた。
ざわめくロマたちをよそに、両手を頭の後ろへと回す。
ばさり、と、彼の額を覆っていた布が、取り去られた。
意識のあるロマが、一人残らず息を飲む。
「まさ、か」
子供でさえ、それは例外ではない。
かつん、と小さく音が響いた。
「退がりな、お前たち」
ロマたちの背後から、しわがれた声が漏れた。
ロマが避けたところに姿を見せたのは、一人の老人だった。
傍に立つ子供と変わらないほど背が低い。杖を突き、ようやく立っていられるような姿勢だったが、しかし皺だらけの顔から覗く眼光は酷く鋭い。
その老人が、片手を胸に当て、うやうやしく一礼した。
「わしの生きているうちに、貴方様にお会いできる日が来ようとは」
「やめてくれ。私は、君たちとはもう何の関わりもない」
複雑な感情を滲ませて、ノウマードが告げた。
疎ましいような、羨ましいような、厭わしいような、痛ましいような。
「もう一度、頼む。このまま立ち去ってくれ。君たちのためだ」
「仰せのままに」
もう一度頭を下げ、そして数秒間じっとノウマードの顔を見つめ、老人は踵を返した。
「帰るよ。生きてる奴は連れてきな」
無造作に告げる。唇を噛みしめて、男たちは視線を逸らせた。
手にした布を再び額に巻くと、ノウマードはアルマへと近づいた。石畳に跪き、声をかける。
「アルマ。私だ。判るか? アルマナセル」
血の気の失せた顔が、ゆっくりと上げられた。
眇められた眼が、青年を捉えた。
「……ノウ、マー……ド?」
「ああ。もう大丈夫だ。帰ろう」
穏やかに告げると、そっと肩に腕を回す。ノウマードの胸元に、アルマが縋りついてきた。
「……て」
「え?」
「おも、て通りに、馬車を」
「馬車? 君の?」
荒い息の下で、頷く。
「判った。それに乗ればすぐに家に帰れるよ」
安心させるように言うが、少年は力なく頭を振った。
「竜王宮に……頼む」
「竜王宮?」
ノウマードの言葉にもう一度頷き、そして、アルマは意識を失った。




