15
アーデルオーグは、この事件の後、かなりおとなしくなった。
父親の務めに伴われて王宮や竜王宮へも向かうし、他者との関わりにおいても以前ほど感情を露にしないようにはなった。
それでも、時折派手に喧嘩を買って、グランに小言をくらっているが。
「全く、それだからお前は嫁の来てがないんだ」
呆れた風に言うと、アーデルオーグの顔が引き攣る。
「それは俺のせいじゃねぇ」
アーデルオーグの婚約者選びは、難航していた。
それには、確かに彼の若い頃の粗暴さや不品行が影を引いている。
だが、彼の母親の死は、未だに世間では記憶に新しい。
自分の娘を同じように死なせても平気だ、と思う親は、流石の貴族社会でもそういない。
結果、レヴァンダル大公家の嫡子は、二十歳を越えても未だ婚約が成立しないでいた。
勿論、その辺りの事情は充分判っていてグランはからかっているのだが。
それでも、何とか三十を迎える前には、彼の婚姻は成立した。
相手は、地方の男爵令嬢。持参金はなし、実家が背負った借金を大公家が肩代わりする、という条件だ。
困窮した令嬢を金で買ったのだ、と王宮の貴族たちは噂する。
まあそれはほぼ事実だったので、グランはさほどの報復をしなかった。
花嫁が王都に到着したのは、春になり、道が通れる程度に乾いた頃だった。
朝から正装させられていたアーデルオーグは、自邸の居間でずっと歩き回っている。
「少しは落ち着け」
呆れて、グランが声をかける。
「まあまあ。こんな時は緊張するものですよ。私もそうだった」
息子がじろり、と睨みつけるのを宥めるように、ラスダフリックが口を開いた。
「親父も?」
ちょっと驚いた顔で、花婿が尋ねる。
「勿論だ。初めて顔を合わせたのは、侯爵家主催の舞踏会でね」
おそらく、母親の話を聞くのは滅多にないのだろう。ラスダフリックが懐かしげに披露するのに聞き入り、アーデルオーグは落ち着いていった。
「まもなくご到着でございます」
午後を過ぎた頃に、家令がそう告げてくる。
男たちは、ぞろぞろと前庭まで移動した。
やがて、がらがらと音を立てて馬車が数台やってくる。豪華に飾り立てているようだが、ところどころ塗料が剥げているのが見える。
びしり、と車寄せに停めると、御者がうやうやしく扉を開いた。侍女が一人、先に馬車を降り、そして彼女が姿を見せる。
赤みがかった金髪は結い上げられ、午後の日差しに煌いている。薄めの緑色の瞳が、緊張と期待に見上げてきた。小柄ではあるが、あまり華奢だという印象は受けない。
おそらく、十代半ば、という少女は、優雅に一礼した。
「コルムバ男爵家のシニスフォラでございます」
彼女には付き添いの親族の男性すらいない、ということに思い至るまで、数秒かかった。
「ようこそおいでくださいました、シニスフォラ嬢。レヴァンダル大公家は、貴女を歓迎します。長旅でお疲れでしょう、さあこちらへどうぞ」
そつなく、ラスダフリックが挨拶を返す。
アーデルオーグが彼女の手を取るために近づいた。それを待つ少女の瞳には、少なくとも怯えの色はない。
両家の召使たちが、荷物を抱えて二人の後に続く。
シニスフォラは旅の汚れを落とすために、すぐに客間へと通された。
居間へ戻ったアーデルオーグが悩みつつ口を開く。
「本当に、これでよかったのか?」
「不満でもあるのか?」
皮肉げにグランが尋ねる。
「そんなことねぇよ! ただ、あの娘は……」
言葉が途絶える。
できる限り裕福であるように見せようとしているのか。
娘一人を犠牲にして、家族は知らぬふりであるのか。
どちらにせよ、あの娘は憐れだ。
ラスダフリックが、息子の肩に手を置いた。
「お前の祖父母は、私の目から見ても幸せな夫婦であったよ。私とセルベティだって、短い間でも共に夫婦としていられて、幸せだった。今度は、お前が、彼女と幸せになる番だ。私たちは、皆、それだけを願っている」
複雑な表情で、アーデルオーグは頷いた。
晩餐の時に、彼らは再び顔を合わせた。
シニスフォラは明るく振舞っている。
故郷から王都までの旅で遭遇した出来事を楽しげに語り、王都の広大さに驚嘆した。笑い声が絶え間なく響く。
二十年以上も、レヴァンダル大公家には女性の家族がいなかった。その華やかさは、どこか落ち着かない気持ちすら呼び起こす。
「……貴女は、本当に、よかったのですか」
いたたまれない表情でとうとうアーデルオーグが口にした。
きょとん、として、シニスフォラは婚約者を見返した。
「このような遠い、友人の一人もいないような土地へ、しかも私のような者に嫁いでくるなど」
「アーデル」
嗜めるように、ラスダフリックが呼ぶ。
アーデルオーグは既に[成熟]しており、その角は長く延びている。年々、王宮の人間は彼を忌避するようになっていた。
だが、シニスフォラは朗らかな笑みを浮かべる。
「私は、皆様には感謝しております。昨年、冷夏ということもあって、我が領地では作物が不作となりました。この冬を越えるために、種籾さえ食べてしまったほどです。我が藩は金策に走り、ようやく今年を凌ぐ資金を手に入れましたが、それも、また不作が続けば消えてしまいます。レヴァンダル大公家が手を差し延べてくださって、我が領民は飢えずに済みました。崩れてしまった山道も、流れてしまった橋も整備することができます。私たちを救ってくださったお方を嫌いになるなど、ありえませんわ」
片手を胸に当て、誓うように告げる。
僅かに視線を逸らせたアーデルオーグを揶揄するように、グランが口を開いた。
「まあ、こいつはかなりの莫迦ではあるが、悪意がある訳ではない。気の利かぬ男で申し訳ないな」
「グラン!」
抗議する口調で、アーデルオーグが名前を呼ぶ。
「あら。高位の巫子様は、意地悪でいらっしゃいますのね。歳上の方にそんなことを言うものではありませんわ」
しかし、次いで発せられたシニスフォラの言葉に、大公家の親子は血の気が引いた。
グランを面と向かって子供扱いした者など、もう何十年もいない。
当の高位の巫子は、ただ面白そうな視線を向けていたが。
「我々は貴女を歓迎する、シニスフォラ嬢。アーデルオーグと何かあったら、いつでも言ってくるがいい。火竜王宮は貴女の味方となるだろう」
滑らかに申し出るグランに、アーデルオーグは胡乱な視線を向けていた。
シニスフォラは、その後数ヶ月、婚約者として大公家に滞在した。
王宮での舞踏会などにもアーデルオーグに伴われて参加する。
彼女の明るさに引き寄せられるように、すぐに数名の貴婦人たちが仲良くなった。そしてその人数は少しずつ、確実に増えていく。
女性たちがいる場では、そうそう乱雑な真似もしないアーデルオーグに、あまり関わらずに敬遠していた貴族たちの心象も僅かに緩んでいった。
二人は、ゆっくりと話しあっていた。
不安や恐れ、嬉しさや期待。
互いのそれを知り、手をとって立ち向かうことをたやすいと思うまで。
それは、最初は恋ではなかったかもしれない。
それでも、確かに繋がりはできていたのだ。
二人が結婚したのは、秋になる頃だった。
三年後には、一人息子を儲けている。
父方の全ての親族のように黒い髪、紫の瞳をもつその子供には、角はなかった。
名は、カゼルセイド。
カゼルセイドは、母親に似て陽気で明るい子供だった。
大公家はシニスフォラのおかげで宮廷に友人も増え、自然、カゼルセイドの遊び相手も多い。
王宮には多くの離宮があり、それぞれ高位の貴族たちが出仕する時に使われる。カゼルセイドは、大公家の離宮以外の建物にもよく入りこんでいた。
そのうち、彼は、扉に対して酷く興味を引かれるようになる。
どこかに繋がっている扉があると、開かずにはいられないのだ。
貴族の屋敷には、主人に姿を見られずに使用人たちが移動するための通路が張り巡らされている。それについては、貴族は見てみぬふりをするのが通例だ。
だが、カゼルセイドは積極的にそこへ入りこんだ。自邸のものを、王宮で宛てがわれた離宮のものを、他の貴族の離宮に至るまで。
それは普段使われているものだから、時折見つかってしまうことがある。
大抵の使用人は、困ったようにここへきてはいけません、と言って外まで連れ出す程度だった。
だが、一度、奇妙な大人に会ったことがある。
誰もいない通路を、一人歩いていた時だ。
「おや」
いきなり声が降ってきて、悲鳴を上げかける。
振り返ると、すぐ背後に一人の青年が立っていた。
ここに来るまで、人の姿など見ていない。横道もない。普通に考えれば後ろから追いつかれたのだろうが、彼も少し驚いたような表情を浮かべている。
まるで、いきなりそこに出現したような。
細い、絹糸のような金髪を揺らし、青年は小首を傾げた。
「ああ、アルマナセルの裔か。こんなところで何を?」
曽祖父の名を出されて、数度瞬く。
「近道、だから」
短く答える。この青年は使用人とは思えない。おそらく、貴族なのだろう。何故彼がここにいるのか判らないが。
「そうか……。ここは、殆ど人が来ないから便利だったんだが。場所を変えた方がいいかな」
一人、困ったように呟く。黙って見上げてくるカゼルセイドに気づいたか、小さく笑んで手を差し延べた。
「おいで。外まで一緒に行こう」
道すがら、聞かれるままに家族の近況を話した。
とはいえ、彼はまだ子供であるから、家庭内や竜王宮で見聞きした程度の話だが。
「そうか。元気ならいい。グラナティスにも久しく会っていないからね」
それでも青年は満足そうに頷いた。
「本宮に行けば会えるよ?」
不思議に思い、問いかける。
「それは君がレヴァンダル大公家の一員だからだよ。普通は滅多に会えないものだ。それに、私は彼に嫌われてしまっているし」
薄く笑みを湛えたまま、青年は返す。
たしかに、あの巫子は自分とさほど歳が変わらないのに偉そうだ。カゼルセイドはなんとなく納得した。
やがて現れた扉を開く。そこは無人の廊下で、扉を抜けた少年は位置を把握しようと周囲を見回した。
「じゃあね。気をつけてお戻り」
あっさりと告げると、青年はぱたんと扉を閉じる。
反射的に手を伸ばすが、その扉はもう開かれなかった。鍵がかけられたのだろう。
普通、このような通路に鍵などはつけられていないのだが。
その後、必然のように、カゼルセイドの興味は鍵のかかった扉へと移行した。
グランが、火竜王宮の地下室で悲鳴を上げたカゼルセイドを発見したのは、彼が十二歳の時だった。
床にへたりこみ、呆然とする少年を、呆れた視線で眺める。
「カゼル。どうやってここへ入った?」
飛び上がらんばかりに驚いた少年は、怯えの混じった目で幼い巫子を見た。
溜め息をつき、グランは同行していた竜王兵に、彼を部屋まで送り届けるように命じる。
「……鍵を何重かに増やすか」
一人、部屋に残ったグランは悩ましげに呟いた。部屋の奥に安置された硝子の棺には、彼と同じ顔を持つ少年がこの騒ぎも知らぬげに眠っている。
三十分ほどして、カゼルセイドの部屋をグランは訪れた。温かい飲み物を与えて傍についていた若い巫女に短く礼を言い、下がらせる。
「落ち着いたか?」
「……うん」
数々の疑問が浮かんでいるだろうが、もう取り乱してはいない。
グランは彼の正面の椅子にかけた。
「あのことは、お前が成人するまでは知らせないつもりでいた。だが、見てしまったものは仕方がない。これから話す内容は、全て竜王宮とレヴァンダル家だけの機密だ。その他の誰にも言ってはならない」
少年は、生真面目な表情で頷いた。
長い話を終わらせて、グランは椅子の背に身体をもたせ掛けた。問いかけるように、目の前の若い〈魔王〉の裔を見る。
しばらくの間じっと考えこんでいたカゼルセイドは、やがて真っ直ぐに視線を向けた。
「それで、僕たちは貴方を護る使命を持っているのですね」
グランが小さく苦笑する。
「お前が大きくなったらな。まだ何年かはそのことは気にするな。お前の父親だって健在なんだ」
しかし、グランが意図した以上に、彼はそれに拘った。
そして、彼は考えた末、巫子の一団に近づくことになる。
高位の巫子には、内密に。
「最近、あの子を見ないな」
探るような視線で見つめられ、アーデルオーグが肩を竦める。
「友人の領地へ遊びに行っている」
「大丈夫なのか?」
まだ子供だというのに、両親もついていかずに旅行、という状況に、グランは眉を寄せた。
「大丈夫だって。相手の身辺は探っているし、護衛もつけてる。何より、若いうちに見聞を広げた方がいい」
「お前が言うと説得力がまるでないぞ」
手を焼かされ続けた相手に、呆れた表情でグランが呟いた。




