14
高位の巫子グラナティスは、普段と全く変わりのない姿だった。
白を基調とした聖服、アーデルオーグの腰ほどまでしかない背丈、銀に近い金髪、不機嫌そうな表情。額には、赤いルビーを嵌めこんでいる。
唖然としているアーデルオーグをひとしきり見つめ、彼は口を開いた。
「どんな格好だ、ラス」
「こっちですか」
苦笑して、ラスダフリックは肩を竦めた。
「……え?」
小さく、アーデルオーグが呟く。
「目が覚めたか。どこか、痛むところは?」
「いや、何で? え?」
混乱しっ放しの少年をじっと見据え、グランは視線を父親へ向けた。
「ちゃんと説明したのか?」
「勿論ですよ、グラン。私は事実しか話していません」
腕を吊っていた布を外し、頭に巻いていた包帯を解きながら、素知らぬ顔でラスダフリックは答えた。
「嘘をついたのか、親父!」
なんとなく事態を把握して、アーデルオーグは怒鳴った。
「嘘は言っていないと言うのに。私が怪我をしていたのも、本当だ。とっくに癒して頂いていたが」
ひらひらと、左手を振る。
「騙してたんじゃ……!」
「落ち着け、アーデル。お前はそれだけこいつを心配させたんだ。謝れとは言わんが、八つ当たりは筋が違うぞ」
溜め息混じりに、グランが止める。
「……謝らせないのか?」
彼は、無理矢理にでも頭を下げさせようとするものだと思っていた。
だが、グランは普段通りに笑みを浮かべる。
「お前を利用して僕たちを殺そうとしたのは、あのロマたちだ。責任があるとすれば、全て奴らにある。それこそ、お前に謝らせるのは筋違いだろう。まあ安心しろ。僕は、後顧の憂いはきっちり絶つ主義なんだ」
そして、何やら不吉な胸騒ぎを抱えたアーデルオーグをよそに、踵を返す。
「それだけ元気なら、頭の傷は大丈夫だな。それじゃあ、僕は仕事の続きに戻る。ラス、ちゃんとその子に説明をしておけよ。今度は脅しはなしだ」
「貴方のご命令なら」
滑らかに立ち上がり、うやうやしく礼をしてその背を見送る。
まるで嫌がらせをされたかのように男を一瞥して、グランは寝室を出て行った。
暗く、じめじめとした場所だった。
石造りの部屋の中には、寝返りを打つたびに不吉に軋む寝台が二つ、壁に寄せられていた。かび臭い空気の中に、幾つもの呻き声が満ちている。
貴族を、まして竜王宮の高位の巫子を襲ったなど、大罪だ。近いうちに処刑が待っていることは確実だった。
恐れが、怯えが、恨みが、憎しみが、腹の底を熱く灼く。
「ちくしょう……」
ずきずきと痛む傷を抱えて、唸る。
一体何時間が過ぎたのだろうか。
「解きほぐせ、頑なたる扉」
鋼鉄製の扉の向こう側で、小さな囁きが発せられた。
がちゃん、と硬い音が響き、次いで、扉が軋む音とともに開かれる。弱い明かりが隙間から射しこみ、扉の前に立つ人間の影を黒々と際立たせる。
寝台の上で身を縮め、死をもたらす相手を見つめた。
覚悟など、できてはいない。
「……誰か、いるか?」
だが、小声でかけられた声に、目を見開いた。
「……アーデル……?」
信じられずに呟いた名前に、ほっとしたような反応が返る。
「よかった。大丈夫か? あまり時間がないんだ、早く出ろ」
思わず、同室の男と顔を見合わせる。だが、ずっとここに籠もっていても仕方がないのは明らかだ。
そろそろと、警戒しながら部屋の外へ出た。
そこは、やや狭い廊下だ。見慣れた少年が、嬉しいような、困ったような顔で立っている。
「何故、俺たちを出した?」
単刀直入に尋ねる。
「このままここにいたかったのか?」
僅かにむっとして、アーデルオーグは訊き返した。
昨日までは、この反抗的な少年を宥めすかしていたものだが、今は違う。警戒心も露に、更に言葉を投げつける。
「お前が俺たちに慈悲を掛ける理由がない。罠なんじゃないか」
「莫迦にするな。友達だろうが」
しかし苛立たしげに、そしてあっさりとアーデルオーグは言い返した。
ちょっと寄ってろ、と片手を振って、少年は隣の扉に近づいた。こちらの声が聞こえていたのか、扉の内側でぼそぼそと話し声がしている。
〈魔王〉の裔は、小さく呪文を唱え、鍵を開ける。
今度出てきた男は、思わず、といったようにアーデルオーグの両手を取った。
「ありがとう、アーデル……! 俺たちを許してくれないか」
「ゆ、許すとか何とかいうことじゃないだろ」
流石にうろたえて、アーデルオーグは視線を逸らせた。
「いや、竜王宮に逆らって俺たちを助けてくれるなんて、並大抵の決意じゃない。外には見張りがいたはずだろう?」
「ああ。眠って貰った。長くは保たないから」
やや居心地悪げに、少年は次の扉へ向かおうとロマたちに背を向けた。
彼が背後から勢いよく殴られたのは、その直後だ。
アーデルオーグは、呻き声を飲みこみ、数歩よろめいた。
以前のように武器を持たず、こんな狭い通路では腕も充分振り回せない。殴打の威力が激減するのは当然だ。
「抑えこめ!」
殴りつけた一人が、他の三人へ命令する。慌てて、彼らは少年に跳びかかった。
〈魔王〉の血を引く少年は、ただでさえ腕力が強い。振りほどかれそうになるのを、男たちは必死で体重を掛けて引き倒した。
「全く、化物が……!」
吐き捨てるように呟いた男を、見上げる。憎々しげなその顔が、真っ直ぐアーデルオーグを見下ろしていた。
「おい、どうするんだよ!」
暴れる少年を抑えこむのは、一苦労だ。
「縄でもあれば吊るしてやるんだがな。まあ、絞め殺せば一緒か」
男はアーデルオーグの無防備に晒された喉へ両手をあてがった。そのまま、体重をかけていく。
「か……」
アーデルオーグが、掠れた声を漏らす。
憎悪に満ちた視線だけが、彼の意識に残った。
「我が竜王の名とその燃え盛る誇りにかけて」
小さな声と共に、馬乗りになっていた男の背が燃え上がった。
「うわぁああああ!?」
声をあげ、慌てて服を脱ごうとする。手間取りはしたが、数秒でそれは投げ捨てられた。
「折角、死なぬ程度に癒しておいてやったのに、お前たちは恩というものを知らないのか?」
呆れた声音と共に姿を見せたのは、火竜王の高位の巫子だ。
「……グラナティス……」
声とも、吐息ともつかないものが、漏れた。
上半身が露になった男の皮膚には、幾箇所も引き攣れたような火傷の痕がある。
「今度こそ、骨さえ残らないほど燃やし尽くしてやってもいいんだぞ。そいつを放せ」
うんざりしたような顔で、グランが命じる。
迷う男たちの隙を衝いて、アーデルオーグは拘束を振り払った。そのまま、急いで立ち上がる。
「縛せ、雷撃!」
瞬間放たれた魔術は、グランへと向かった。
が、無造作に振られた片手の先で、あっけなくその眩い雷撃は消滅する。
「……くそ……」
どの道、彼の魔術が契約主に通用することはない。
だが、牽制程度にもならないとは。
じり、と、アーデルオーグはグランの出方を伺った。
唖然として、ロマの男たちはその周囲にへたりこんでいる。
「全く、莫迦なのかお前は。そいつらに慈悲をかけても無駄だというのに」
呆れた声音で、グランは告げた。
囚人の一人が、かっとなって怒鳴る。
「お前たちの慈悲なんて要るものか! 我らが風竜王と巫子を殺害し、我らが故郷を呪いで覆い、フルトゥナの民を放浪のままに放置する、全ての元凶が貴様らだ!」
自暴自棄になったような男のその非難に、グランは薄く笑んだ。
「全く、オリヴィニスもお前たちをさぞかし誇りに思ってくれるだろうよ。あいつは、最後に、何があっても生き延びろ、と民へ命じたそうじゃないか」
フルトゥナの民が、息を飲む。
「……何故、それを」
その名前を。
その言葉を。
「いいことを教えてやろうか。風竜王の高位の巫子、オリヴィニスは今も生きている。今後も生き続けるだろう。いつか、あの呪いから解放される時まで」
火竜王の高位の巫子の言葉に、少なからず彼らは動揺した。
「何を言っている! でたらめを!」
罵声に、しかし幼い巫子は動じない。
「おいおい。同じ竜王の巫子である僕が、その程度のことを知らないでいるとでも?」
さも当然のように言い放たれる言葉に、ぐっ、と、その場にいる者たちが詰まる。
「さあ、お前たちの巫子に顔向けできないようになりたくなければ観念するんだな」
嘲るようなグランに、ロマたちは憎々しげな視線を向ける。
「……そんなことは、どうだっていいんだよ」
低く、唸るような声を出したのは、アーデルオーグだ。
軽く開いた両掌に、ばちばちと放電する光の球が出現している。
「そこを通せ、グラン。皆を解放しろ」
「お前の我儘につきあう理由はないな」
変わらず、平然と高位の巫子は言い放つ。
「じゃあ、腕づくでいくぜ」
一歩、〈魔王〉の裔が踏み出した次の瞬間に。
「止まれ」
小さな一言で、その身体は凍りついた。
「ぐ……」
それでも、無理矢理に足を、魔術を進めようとアーデルオーグはあがく。
「無理をするな。契約に逆らおうなど、お前の魂が軋みを上げているぞ」
「う、るせ……」
じわり、と身体に汗が滲む。
心臓を鷲掴みにされたような圧迫感。
角の付け根が、鈍く痛む。
だけど。
グランが溜め息をついた。
「跪け」
がくん、と膝が折れる。
石造りの床に跪き、頭を下げる格好のアーデルオーグに、周囲が動揺する。
「グラナ、ティス……!」
ぎしぎしと音が立つような錯覚すら覚えながら、アーデルオーグはぎりぎり視線を上げた。
「何だ」
平然と、彼の主は床に這い蹲る少年を見下ろしてくる。
「……頼む。こいつらを、許してやってくれ!」
「アーデル」
「友達なんだよ。頼む」
「お前を殺そうとしたんだぞ。しかも、つい先刻だ。お前が、逃がそうとしてやったその直後に。それを忘れるほど莫迦ではあるまい。賭けてもいいが、解き放った翌日には、またお前たちを狙ってくるだろう」
「関係ない」
諭すようなグランの言葉を、一蹴する。
「そんなこと、関係ねぇよ! だって、嬉しかったんだ! 嬉しかったんだよ、俺は!」
あの、場末の酒場で。
身分とか立場とか、そんなこと全く意にも介さずに笑いあって。
それが、殺意を胸に秘めて、憎悪を押し隠して、煮え滾る思いの表層を取り繕ってのことだとしても。
「……アーデル……」
男たちが怯む。
アーデルオーグは無防備に背中を晒している。勿論、グランがこの場にいる以上、彼に危害を加えることは不可能だろう。
それでも、何もできないのは。
うんざりしたような顔で、グランは胸の前で腕を組んだ。
「……いいだろう。アーデルオーグに免じて、生命は取らん。解放もしよう。ただし、聞くべきことを全て聞いてからだ。それから、貴様たち全員、二度と王都に足を踏み入れてはならない」
ぎろり、と、明らかに不本意な表情で眺め渡す。
「本来なら、貴様たちを一人残らず縛り首にした上で、王都にいるロマも拘束、追放、処刑まで行うべきことだ。国内のロマへの迫害も加速しただろう。こいつの醜態の上に、一体どれだけの温情をかけられているか、まあ理解したくはないだろうが覚えるだけは覚えておくがいい」
その口調に、言葉に、怯む。
彼ら個人の生命が奪われるかもしれない、とは覚悟していた。
だが、その罰が、フルトゥナ出身というだけの他の者たちにまで及ぶなど、考えてもいなかったのだ。
そう、彼らは、まだ若い。
全員の反応を一瞥して、グランは踵を返す。
廊下の奥から、十名ほどの親衛隊員が駆け寄ってきたが、彼らはもう抵抗しなかった。
「全く、甘くていらっしゃる」
夜明け頃だというのに、眠気を一切見せず、ラスダフリックは呟いた。
尤も、この日、竜王宮は一切眠らずに活動を続けているのだが。
「落としどころとしては、悪くない。奴らが龍神に傾倒しているのなら、即刻首を刎ねていたところだが。一応、風竜王への信仰はまだ持っていたからな」
肩を竦め、グランが返す。
どの竜王であろうと、その信徒に対しては等しく庇護を与える。
その後長く貫かれるグランの信念は、〈魔王〉アルマナセルに風竜王の巫子の運命を託された頃から、既に生じていた。
「だが、全く繋がっていないとは考えていない。誰か、貴族の子弟がアーデルを連れて行き、フルトゥナの民と引き合わせたと話していたな。そいつらがイフテカールと接触していないか、調べさせろ。どんな小さな繋がりでも見逃すな」
主人の指示に、ラスダフリックは頷く。
「しかし、あいつがとうとう実力行使に出てきたとすると、今の戦力ではやや頼りないかもしれないな……」
眉を寄せて、呟く。
イフテカールは、基本的に敵に対しては容赦がない。ただ、その気紛れさだけが難ではあるが。
しかし、グランは気紛れとは程遠かった。必要になった時に慌てて戦力を増強していては、間に合わない。
「親衛隊の総長を呼べ。少し、相談がある」
火竜王宮の警備を担当する組織が、親衛隊から竜王兵へと変わるのは、この後しばらくしてからのことである。




