12
「……オリヴィニス……?」
微かに聞き覚えのある名前に、眉を寄せる。
「風竜王の高位の巫子だ。わしが、滅亡させた」
ざわざわと、風が鳴る。
心が、騒ぐ。
「その巫子のことを、僕に頼むだと?」
「ああ」
短い返答に、溜め息を落とす。
「アルマ。お前が滅亡させたものを、僕がどうこうできる訳がないだろう」
「いや、あいつは死んではおらん」
「どういうことだ?」
苛立った口調に気づいたか、アルマはむぅ、と呻いて考えこんだ。
「そうだな……。現在、フルトゥナを覆っている呪いは、そもそもイフテカールが構築したものだ。だが、わしがそれを発動させる際に自分の血液を使ったこと、それにオリヴィニスのものが混じっていたこと、更に奴がやっきになって発動を止めようとしたことで、かなり変質してしまっている。今、イフテカールでさえあの呪いを破ることはできていない」
「ああ」
その辺りは、フルトゥナから戻ってきた直後に聞いた。
「それで、だ。わしは、その時に、呪いに歪みを作っておいたのだ」
「……何をしたって?」
アルマは、随分とこの世界に慣れてはきたが、それでも時折特殊な言葉の使い方をする。
「歪みというか、隙間というか。フルトゥナの領土の内外を、一部、繋いでおいたのだよ。そこから時々漏れ聞こえてくる話によると、どうやらオリヴィニスはまだ生きている。そして、竜王の力で不老長寿を得ているらしい」
「……不老長寿?」
更に、グランは訝しげに眉間に皺を寄せる。
「あの呪いは『フルトゥナの民を殲滅する』ということが目的だった。風竜王は、呪いが発動した直後、その民を全て放逐し、高位の巫子のみをただ一人の民と成している。民の殲滅が叶えば、呪いは解ける筈だ。だが、それが未だ解かれていないということは」
「民は生き延びている、と。だが、呪いが発動してまだ三十年ほどだ。厳しい状況ではあるだろうが、まだ死ぬほどの歳ではあるまい」
「ああ。だが、オリヴィニスは風竜王とそういった会話を交わしていた。竜王が、ただ一人の民にその全ての力を注いだとしたら、不可能ではないのではないか?」
腕を組んで、考えこむ。
竜王の御力は、確かに凄まじいものだ。人の力では推し量れない。
そして、人の世に干渉しない、という制約がある意味外れているとしたら。
「そうだな。可能ではあるだろう」
知らず、薄く笑みが浮かぶ。
「他にもいるのか。長い時を生きる、奴を仇とする者が」
フルトゥナ侵攻では、イフテカールは表立って動いてはいない。風竜王の高位の巫子は、自身の真の敵を知らぬだろう。
それでも。
グランの猛る気持ちを宥めるように、アルマは大きな掌をぽん、と頭に載せてきた。
「……お前は、あいつの歌を聴けるのかもしれないな」
僅かに羨ましそうな言葉が漏れる。
「歌?」
だが、その問い返しには応じず、思いついたように背後の男は腰から剣を引き抜いた。
ぎらり、と刀身が夕暮れの光を鋭く反射する。
「これは、わしが呪いを発動させる時に使った剣だ。これが、歪みに対する一つの鍵になっている。お前が、いいと思うときに使い、歪みを広げるがいい。あいつがそれに気づかないほどに無能であれば、呪いから脱出するなどできんだろう」
「出てくる、と思っているのだな?」
グランは、笑みを崩せない。
「オーリはわしを憎んでいる。必ず脱け出して、わしを殺しに来るだろう。だが、呪いがそれほど動けば、イフテカールに知られても不思議はない。奴と対決し、勝てるだけの条件が揃うまでは、使わぬ方がいい。でなければ、お前も、子供たちも、そして竜王も民も、全てが惨たらしく滅せられるだろう」
流石に少しばかり真面目な顔で、頷く。
「頼む、グラン。世界を救い、竜王を救い、あの、哀れな巫子を救ってやってくれ」
「できる限りのことはしよう。アルマ」
旅は恙無く終わり、彼らは再び王都へと帰った。
日常が続き、夏が訪れ、秋が深まる。
そして、もうしばらくもすれば王都に雪が降るだろう、と思われる頃に。
〈魔王〉アルマナセルは、その生を終わらせた。
病に倒れた訳ではない。
発見者によれば、椅子に掛けたその姿は、まるで眠っているかのようだったと言う。
外傷もなく、毒を盛られたようでもない。
ただ、静かに、死を迎えていたのだ。
彼の周囲にいた者たちは、さほど動揺しなかった。
妻を亡くしてからというもの、アルマは、少しずつ自分がいなくなった後について、皆に言い残していたからだ。
いずれは、と思っていた時が来ただけだ。
だが、だからといって平穏だということではない。
〈魔王〉アルマナセルの存在が抑えこんでいた、様々な害意が溢れ出すのは、時間の問題である。
グランは、各地の竜王宮からの連絡を密にさせている。
もともと、国内のどんな小さな村にすら竜王宮はある。これほどの情報網は、王室にも、イフテカールにもないものだろう。
そして、この幼い巫子は、それを最大限に利用しつつあった。
夜も更けた頃に、グランは最後の手紙に署名を終わらせた。
生乾きのインクに粉を振り掛ける。
そして、ぼんやりと机の上に置かれた燭台を見つめる。空気の動かない室内では、炎は殆ど揺れることはない。
「……カリドゥス」
小さく、口の中だけで、その名を呼ぶ。
グランは、普段から意図的に火竜王と接触はしていない。
もしも顕現された時に、運悪く龍神の手にかかってしまったら。
そう思うと、軽々しく彼の竜王を名前だけですら呼ぶことができなかった。
だが。
「我が竜王。貴方と貴方の民を、全力で護ることを誓う。……だから」
だが、もう、〈魔王〉はいない。
レヴァンダル大公家は、〈魔王〉の裔は、どれほど彼らが剣として盾として仕えると言ったとしても、結局のところ、火竜王宮の庇護の中にある。
グランのこの小さな背には、民と竜王と〈魔王〉が乗ることになるのだ。
「……だから、僕に、僅かながらの加護を」
どうか。
蝋燭の炎が揺れる。
ちりちりと灯心が焦げる音が、まるで静かに何かを語りかけてくるかのようだった。
アーデルオーグは、気の強い子供だった。
三歳を超えた頃から、グランとまだ存命だったアルマとで感情を抑制させることを覚えさせようとしてきたが、なかなか上手くはならなかった。
アルマは、この年頃の子供はこんなものだ、と言ってはいたが。
しかしせめて、もう少し聞き分けがよくなるまではあの祖父が生きていてくれなかったものか、と、僅かに逆恨みもしたくなる。
それでも、衝動のままに魔力を扱うことだけはさせてはならない。
高位の巫子も、それは同じだ。生まれついて持っていた力ではないだけで。自分にできたことが、この子供にできないとは思えない。
グランは、辛抱強く、時に厳しく、アーデルオーグを鍛え続けた。
そのアーデルオーグが、王宮で貴族の子弟を相手に一戦やらかしたのは、十三歳の時だった。
「……一体何のつもりだ?」
椅子にかけ、腕を組み、目の前に立つ子供を見つめる。
黒い髪は、父親よりも祖父に似たのか、少し癖がかかっている。頬の線はまだ子供らしい曲線を描いていた。
彼はその小さな灰色の角を隠してはいない。まだ、世間には〈魔王〉アルマナセルの印象は強い。また、アーデルオーグが角を持って産まれてきたことは知れ渡っている。隠すということなど、この頃誰も思いつきもしていなかった。
まだ成人していないというその年齢にふさわしく、簡素なデザインのチュニックを着ているが、無論、素材は絹である。それは、今、土や泥でところどころ汚れ、破れているところさえあった。
当然、とっくの昔に少年には身長を追い抜かされてしまっている。仏頂面で見下ろしてくるアーデルオーグには、反省した様子など微塵もない。
小さく溜め息を漏らして、グランは言葉を継いだ。
「イクティノス伯爵の三男は、右手に火傷を負った。医師にも完治させられるかどうか難しい。お前が、火竜王宮の管轄にいるから僕が出て行って今は傷一つないが」
その話に、少年は小さく舌打ちする。
「アーデル」
咎める言葉に、更に頬を膨らませた。
「お前の魔力は、王国と、竜王宮のためにある。何があろうと、私的に使うことなど許されない。僕が、何度それをお前に言ってきたか覚えていないのか?」
「……覚えてる」
「ほぅ。覚えているのに、こんなことをしたのか。ラスもイクティノス伯爵家に直接頭を下げに行ったぞ。大公が、伯爵に対してだ。お前は、父親にそんな屈辱を与えて平気なのか?」
苛立ちを隠せぬまま、更に言い募る。
ただでさえ短気なアーデルオーグがおとなしかったのはそこまでだ。
「うるせぇよ、人の気も知らないで! 誰のせいだと思ってんだ、このチビジジイが!」
怒鳴りつけると踵を返し、勢いよく扉を開けて外へと駆け出す。
制止する気力すらなくて、グランは椅子に沈みこんだ。
傍らの扉が静かに開き、控えの間からラスダフリックが姿を見せる。
「躾が行き届いておらず、申し訳ありません」
「それは僕に対する嫌味か?」
苦笑して、傍らの椅子を指し示す。殆ど物音を立てず、レヴァンダル大公家当主はそれにかけた。
「伯爵の様子はどうだった?」
「お怒りではありますが、許して頂けました。貴方のおかげです」
「奴がやったことだからな……」
急に疲れを感じて、呟く。グランの肉体は基本的に若いままだが、その若さに似合わぬ気苦労が多すぎる。
「しかし、どうしてああ荒っぽく育ってしまったのかな」
ラスダフリックが首を傾げた。
「アーデルはアルマ似と言えば言えるからな。あれも昔は結構短気な男だった。歳をとって変わっていったが」
懐かしさを舌に乗せて、話す。
「……父がいてくれればよかったのですが。あの子は、物心つく前に死んだ父を、殆ど覚えていません。なのに、周囲は〈魔王〉アルマナセルの偉業を語り、それに倣うことを要求する。まだ、十三歳です。気持ちと力をコントロールするには、幼すぎる」
「嫌味だな」
苦笑して、グランは甥を見た。
「だが、お前はそうならなかった」
「私には父がいたからですよ。角も魔術も持たない私には、周囲はさほど期待もかけていなかったし」
「ラス」
流石に少し厳しい声をかける。困ったような顔で、ラスダフリックは小さく笑った。
「お前は大公として充分にやっている。王家に忠実に仕えているし、正直、アルマよりも王に頼りにされているだろう」
壮年に差し掛かった王は、ラスダフリックを相変わらず右腕として重用している。アルマの死後、レヴァンダル大公家が衰退しなかったのは、紛れもなく彼の手腕だ。
「それはさておき、魔術で他人に怪我を負わせてしまったのは、まずい。聞く耳を持ってくれればいいのですが」
思案げに、ラスダフリックは話題を戻した。
「理由は話したか?」
「いいえ」
渋い顔で、父親は首を振る。
王宮には相変わらず巫子を数名同行させている。が、ラスダフリックの警護も兼ねているため、アーデルオーグはある程度自由に動いていた。貴族の子供たちは、大抵そうだ。大体は身分や王宮内での権力を親が把握させているため、さほどの問題は起こさないのだが。
「少し調べさせよう。今後のこともある」
思案げに、グランはそう告げた。
王宮や貴族の館に入りこませた密偵たちに命じ、事情を探らせる。
アーデルオーグが魔術を放ったことは既に知れ渡っている。噂程度でさえ、人目を憚るようにあちこちで囁かれているために、情報を集めるのは最初は難航した。
それでも、基本的にゴシップ好きな社会である。一度端緒を掴めば、後は早いものだった。
グランがアーデルオーグを呼び出したのは、五日ほど経った頃だった。
事件以来、竜王宮内での謹慎を言い渡されていた少年は、不機嫌な顔を崩さない。
「イクティノス伯爵の子息は、お前の母を嘲ったらしいな」
端的に口を開いたグランを、強い視線で睨みつけている。
この時代、貴族階級では、子供の数は多いほど歓迎された。というのも、無事に生まれ、成人するまで生き残る子供は少なかったからだ。
息子が一人しかおらず、妻を亡くしているレヴァンダル大公家には、時折、後添いの話もやってきていた。
しかし先妻の死の要因や、息子が角を持っている、という事実に、尻込みする家も多い。
何より、当主ラスダフリックが乗り気でないために、その話は常に進まなかった。
母親の死を、その原因が自分だと、そして更に、一人しか子供を産まなかったとして侮辱されたアーデルオーグは、その怒りをまずは拳で、次いで魔術で思い知らせたのだ。
「何故、それを誰にも言わなかった?」
やや呆れた表情で、グランは続ける。
「……言ったら、怒られなかったのかよ」
ぼそり、と、少年は問い返す。
「そんな訳がないだろう。お前が魔術を使ったのは、また別問題だ。だが、その原因が判っていれば、他に対処のしようもあった」
今からでは少し遅いか、と、残念そうに呟く。
「大体、お前はまだ子供だ。自分で立ち向かうことは許されていない。決闘を申し込むのであれば、父親に任せるべきだ。何も考えず、短絡的に自分から手を上げるなど、悪手にもほどが」
「うるせぇよ! そもそも、あんたが母さんを見殺しにしたのが悪いんだろうが!」
叩きつけるかのように、アーデルオーグが叫ぶ。
すぅ、と表情を消して、グランは相手を見上げた。
息を荒げる少年の両手が震えている。
それをぎゅぅ、と握りこんで、彼は踵を返した。
「……くそジジイが」
力いっぱい扉を閉めて、アーデルオーグは高位の巫子の前から姿を消した。




