11
アーデルオーグが一歳になってしばらくした頃。
大公夫人レヴァンダが亡くなった。
レヴァンダはまだ四十代の半ばだ。この時代としても、早すぎる死であった。
葬儀の前夜、竜王宮の最も大きな礼拝堂に安置された遺体の傍には、夫であるアルマがずっとついている。
グランは、自室でぼんやりと窓の外の闇を見つめていた。
縁を切った俗世の家族が、これで全員この世を去ったことになる。
姉とは、もう十数年顔を合わせていなかった。
他の家族と同じように病みやつれ、若い日の輝くような美しさは僅かに面影が残る程度だ。
胸の奥が、奇妙に重い。
随分と夜も更けた頃、扉が静かに叩かれた。
部屋に入ってきたのは、彼の甥だ。見るからに、顔色は白い。
「……大丈夫か」
彼は、この一年で妻と母を亡くしたのだ。
こんな、どうしようもない言葉しかかけられない自分が、もどかしい。
だが、ラスダフリックは静かに頷いた。
「ちょっと、眠れなくて」
ぽつり、と言う青年に頷き、椅子に座らせた。
「何か飲むか?」
「いいえ」
断られて、そのまま椅子に戻った。
ただ、沈黙が続く。
やがて、無理に笑顔を作り、ラスダフリックは口を開いた。
「私は大丈夫ですよ、グラン。母はもうずっと伏していましたし。セルベティのように、突然のことではないですから」
「そうか」
それでも、やはり心配しているように見えたのだろう。ぽつり、とラスダフリックは言葉を続ける。
「母は、セルベティを失った悲しみは、全部自分が持っていくから、と言っていました。だから、私たちは、アーデルオーグのことを考えて生きていくように、と」
少し驚いた顔でそれを聞いていたグランは、ふ、と薄く笑みを浮かべた。
「そうか。……あの方らしい」
噛み締めるような言葉を漏らす。
その後、二人は夜明けまでぽつりぽつりと亡き人の思い出話をした。
アーデルオーグは、癇の強い子供だった。
生後まもなくから、よく泣いた。乳児であるから当たり前なのだが、そうでないこともある。
彼の近辺で、よく何かが壊れたのだ。
ゆりかごに置かれたぬいぐるみは、布が裂けて綿がはみ出していた。
温かな布団からは、羽毛が飛び散っていた。
陶器の小皿が、床に落ちた訳でもなく割れた。
アーデルオーグの不快感が、周囲への物理的な破壊衝動として働きかけていたのだ。
だが幸いなことに、同じ部屋にアルマがいると、その衝動は抑えられていたようだ。おそらく、祖父の強大な魔力を感じとっていたのだろう。傍にいると、泣くことすら我慢しているようにも見えた。
「父親としての威厳がないなぁ」
苦笑して、そうラスダフリックは言った。
「言ってきかせて判るようになれば大丈夫だ」
アルマはあっさりと告げる。彼は事実、息子をそうして育てたのだ。
乳母は、この一年で四人代わった。突然周囲で何かが壊れ、軽くとはいえ怪我をした者もいる。無理はない。
今務めてくれているのは、三人の子供を育てているという女性で、多少のことには動じない肝の太さを持ち合わせていた。
彼女に最も危険があるのは肌を晒している授乳の時だが、布で仕切られたとはいえ同じ部屋に、アルマが同席する、ということも短い説明で納得した。無論、他にも一人以上の侍女がいることになっている。
おかげで、アーデルオーグは健康に育っている。
「何故、力任せに壊すだけなのだろうな」
破壊されたものを並べて見比べながら、興味深そうにグランが呟いた。
「おそらく、まだ世界の認識ができていないからだ」
さらりと〈魔王〉アルマナセルは答えた。
妻を亡くし、酷く嘆き悲しむかと思われた男は、淡々と以前のままの生活を続けている。
だが、ごく近しい者たちには、彼の深い喪失を感じ取ることができていた。
「認識?」
問いかけられて、頷く。
「この子はまだ、生まれたてだ。この世界を構成する要素、言うなれば竜王が司るものをまだ知らぬ。温かさや冷たさ程度は知っているだろうが、火や水や風が、どのように世界を構築しているのかを知らぬ。知らぬものは扱えぬから、ただ、ものを壊すのだ。人の子が、拳で叩き割るように」
ラスダフリックの椅子に掴まりながら立っている子供へ視線を向ける。アーデルオーグはきょとんとして、紫色の瞳で家族を見つめてきた。
「なるほど。それを認識し、扱い始める前に、抑制することを教えこまないといけないな。この屋敷が焼け落ちて欲しくはない」
思案しながら、グランは呟く。
「貴方は、思いついたことを言わずにはいられないんですか?」
少し渋い顔で、ラスダフリックは苦言を呈した。
ラスダフリックは、妻を亡くしてからずっと纏っていた無気力の殻を、何とか破ろうと努力し始めていた。
最初は気遣わしげだった国王、エヴィエニスも、再び彼を頼るようになっていく。
実際、彼の祖父王の起こしたフルトゥナ侵攻に関する事案が、そろそろ終わらせなくてはならない時期に来ていた。
フルトゥナ王国が滅亡したことによる、数々の条約の無効化宣言を出し、または改めてイグニシア王国との二国間で締結し直すために、エヴィエニス国王はかなり多忙だったのだ。
アルマも、時折、議会や会談の場に同席した。主に、睨みを利かせるために。
だが、彼が、息子へ少しずつ責務を負わせつつあることは、誰の目にも知れたのだ。
北方の王国イグニシアでもようやく水が温み、重い曇り空から日差しが差しこみ始めた時期に。
「少し、旅へ出ようか」
レヴァンダル大公アルマナセルは、そう誘いかけてきた。
「旅?」
訝しげに、グランが問いかける。
「ああ。冬の間、この小さな街に籠もりきりだったのだから、少しは外へ出るべきだ。今、野山は素晴らしく美しいだろう」
レヴァンダが存命だった頃は、彼ら家族は時折国内を巡ることがあった。
だが。
「僕はできる限り王都から離れるな、と、イフテカールから釘を刺されているのを忘れたのか?」
渋い顔で、グランは返した。
龍神の使徒は、火竜王の高位の巫子が自らの目の届かぬ場所で何かあったら、と思うと気が気ではないらしい。
故に、高位の巫子として各地を巡幸することが、グランは殆どできないのだ。
「なに、お前に何かあったら、わしが王都まで転移するさ。それぐらいの魔術、今でも軽いものだ」
しかしアルマは軽く請け負った。
「それをあいつに納得させられるかどうかだな」
皮肉げに告げる幼い巫子に、アルマは任せておけ、と一笑した。
結果的に、イフテカールはそれを了承した。
妻を失い、気落ちしているアルマを気遣う気持ちがあったのではないか、とグランは睨んでいる。
あれで、イフテカールは意外と感傷的なところがあるのだ。
春の訪れた郊外を、馬車の一団が進む。
レヴァンダル一家とグランを乗せたものと、召使たちが乗っているもの。後は、火竜王宮親衛隊が警備についてきている。
他の貴族たちの移動に比べれば、大した人数ではない。
暖かな日で、彼らは馬車の窓を開いていた。
「ゆま!」
片言で話せるようになってきたアーデルオーグが、生真面目な顔で父親に目に入るものを説明している。
ごとごとと石畳に揺れる馬車は、眠気を誘う。
「お前と遠出をするのは、何年ぶりかな」
ぽつり、とアルマが呟く。
「フルトゥナ侵攻の前だな。あれも、遠乗りに出た程度だから、精々隣の街ぐらいまでしか行っていない」
グランは肩を竦めた。
彼は、人生の殆どを王都アエトスで過ごしている。
「レヴァンダも、お前と出かけたがってはいたのだが……」
言いにくそうに、アルマは言葉を濁した。
「そうか」
静かに頷く。
グランは、この十年ほど、姉を始めとする家族に会うことを拒否していた。それ自体は、竜王の巫子としては自然なことだ。だが、彼らがそこへ至るまでの経緯が、全員の感情を複雑に絡み合わせていた。
だが、もう、当事者はこの二人だけだ。厳密には、アルマは当事者ですらない。
これ以上我意を通す意味はないことを、グランは知っていた。
彼らが向かったのは、山からは離れた土地だった。
馬車で山を越えるのは、労力がかかる。そこまでして遠くへ向かいたい訳でもなかったからだ。
小さな街の竜王宮へ滞在する。
到着後すぐさま、彼らは竜王宮長たちとの会談、翌日の礼拝の段取り、数日後に予定された儀式の手配を話し合う。
その後は、レヴァンダル大公と共に、挨拶に来たその地の郷司と挨拶を交わす。
大公家を招待しての晩餐会の約束を取りつけ、相手は上機嫌で帰って行った。
「……お前に領地を持たせておけばよかったとつくづく思うよ」
疲れた顔で、グラナティスがぼやく。
〈魔王〉アルマナセルがこれ以上強大化することを恐れ、王家と貴族たちは、大公家に領地を与えなかった。
与えた場合、どこかの貴族の領地が減らされることを考えれば、無理もない。
大公家には、王家と竜王宮から金品が渡っており、それ相応の暮らしはできているが。
だが、こんな時に自らの領地へ赴くことができれば、これほどの手間はかからないのではないか。
「普段の雑務が軽減されているのだ。たまにこれぐらい働くことは構わんさ」
一方、涼しい顔でアルマはマントを手に取った。
「陽が落ちるまでは少し時間があるな。ちょっと出ないか、グラン」
二人は警護を断った。
〈魔王〉と高位の巫子がいて、一体何を恐れることがあるのか、というのがアルマの言い分だ。
とりあえず人目を避けるために、彼はフードを深く被っていた。
巨漢、と言ってもいい男がその格好で馬に乗り、その鞍の前に幼い子供を乗せている、というのは別の意味で人目を引くものではあったが。
街を囲む壁を抜け、街道をしばらく進んでから、アルマは横道へと馬を進ませた。
そこは小麦畑の中を通っている。膝の高さほどまで青々と延びた小麦が、風の流れのままにたわみ、ざわざわと音を立てながら柔らかな動きで揺れる。
「美しいだろう?」
アルマの声に、無言で頷く。
都市では、ある意味風さえも淀む。グランには、見慣れない光景だ。
「わしが焼き払う前のフルトゥナの草原も、こんな景色だった」
その言葉は、風に吹き散らされそうなほどに小さい。
ざあざあと、草が鳴る。
数分の沈黙の後に、アルマはとうとう口を開いた。
「グラン。お前に、頼んでおきたいことがある」
溜め息をついて、幼い巫子は背後の男の胸にもたれかかった。
「お前の子供たちについてなら、心配するな。彼らも、僕と契約を結んでいる。火竜王宮は、全力でレヴァンダル大公家を庇護する。それに、ちゃんとお前の血筋に魔術を扱える子供が産まれると判ったんだ。今後のことも、気にすることはない」
憮然として告げて、視線を上げる。アルマは、少しばかり呆気に取られた顔をしていた。
「……いや……、その辺りは特に心配してはいないのだが」
「は?」
あからさまに、グランは眉を寄せた。
「お前なら、きちんと我が家を管理してくれるだろう。ラスには、代々ちゃんとお前に仕えるようにと言い含めてあるし、何よりそれは契約となっている。わしは、この先そなたに子供たちを預けることに一切心配などしておらんよ」
「……、ならば何故、わざわざこんなところにまで連れ出したんだ」
静かな信頼感を寄せられて、視線を逸らせる。
「王都では話せぬことだからだ。子供たちのことなど、誰に聞かれても疚しいことなどないからな」
僅かに胸を張り、アルマは宣言する。
「ほぅ。それで、そこまでして僕に一体何を頼みたいと?」
皮肉げな笑みを作り、問い質す。
アルマは躊躇いもせずに、その名前を口にした。
「オリヴィニスのことだ」




