09
ラスダフリックはすくすくと成長した。
正義感が強く、冷静で、義に厚く、剣の腕もたつ。王太子となったエヴィエニス王子の無二の腹心とまで呼ばれるようになっている。
そして、彼はとうとう婚姻の日を迎えることになった。
「あの子供が結婚か……」
しみじみと、グランが呟く。
「お前まで親みたいな顔になっているぞ」
一人、酒杯を手にして、アルマが上機嫌で茶化す。
ラスダフリックの相手は、トリュボス侯爵の娘、セルベティだ。王家の血を引く大公家の、しかも先の戦争の英雄の一人息子としては充分な相手だ。
しかも、ラスダフリック自身が将来有望で、品のいい貴公子だという評判である。
セルベティは、今年十七歳。淡い金髪の、おっとりとした愛らしい娘で、トリュボス侯爵はエヴィエニス王子に嫁がせるつもりなのではないか、とまで言われていた。
どこから見ても充分つりあいの取れた縁談だった。数度顔を合わせて、当人たちも満更ではないようだ。
「しかし、何だか、一仕事終えたような気分だな」
薄く笑みを浮かべ、アルマは大きく息をつく。
「お前も随分と人間っぽくなったものだ」
頭に角を戴く〈魔王〉に、グランは笑いかけた。
婚姻の儀は盛大に行われた。
火竜王の高位の巫子グランは、その後に続く数日に渡る祝宴には参加できない。だが、アルマは、それを幸運だ、と言い残していた。
ひと段落した後で、酷くぐったりとした様子で現れた親子に、呆れつつも納得したのだが。
[奇襲王]イーレクスの治世は、十年も保たなかった。
父王の在位が長かったこともあり、彼が即位した時にはもう四十が近かった。しかし、それにしても短命だと言わざるを得ない。
イーレクスは即位して以来、イフテカールと度々衝突していた、という情報もある。
だが、それであの男の関与を疑うのは早計だ。
グランと違い、ある程度友好的にイーレクスと接していたアルマが苛立つのを諌める。
アルマは何か言いたげではあったが、既に殆ど交流のなくなっていたイーレクスには、グランはもう苦い感情は抱いていない。
ただ、これからは次代を担う子供たちを支えていかねばならないのだ。
幸い、若いとは言えエヴィエニス王子は聡明で、ラスダフリックも彼によく仕えている。
だから、まさか、あのようなところから崩れていくとは、思いもしなかったのだ。
ラスダフリックとセルベティは、非常に仲睦まじい夫婦だった。
その幸福は、セルベティが懐妊して頂点に達した。
僅かに不安を覗かせつつも、セルベティは光り輝くようだったし、そわそわと落ち着かなくなったラスダフリックはだらしない笑顔を崩せない有様だ。
アルマとレヴァンダは、出産に際して万が一の時のためにグランの滞在を希望し、幼い巫子は勿論それに応じるつもりであった。
だが、セルベティはそれに難色を示したのだ。
「いざという時でなければ寝室には入らない、念のために屋敷にいて貰うだけだ、と言ってはいるのだが」
困ったように、アルマは報告にやってきた。
彼女の不安と恥じらいが、どうしても医師でもないグランの存在を受け入れられないらしい。
普段はさほど頑固だという訳でもないのだが、これに関しては譲ろうとしない。
更に、トリュボス侯爵家からも、やんわりと抗議が入っているらしい。
この巫子が不老であるとはいえ、この時代には、彼が生まれる前から生きている人々が多数生存している。グランを超越した存在だとみなすには、まだ早すぎた。
「お前の判断はどうだ?」
グランの問いに、アルマは眉を寄せた。
「正直、このような事態は初めてだ。異界の者が人と子を成して、その子供がまた子を成している。レヴァンダの場合は、わしが〈魔王〉であった故の苦難だ、と言ってよい。だが、ラスダフリックは……」
彼は、角を持たず、魔術も使えない。普通の人間と違うのは、その紫色の瞳ぐらいなものだ。
普通に子を産むのと、何ら変わりがないかもしれない。
しかし、その普通の出産ですら、いとも簡単に母親が生命を落としかねないのだ。それを思えば、制限があるとはいえ癒しの御力を使える高位の巫子が待機することは、心強いと思えるものだが。
「僕が巫女であれば、よかったのだろうがな」
ぼんやりと、グランが呟く。
「それは、酷く可愛げのない巫女になりそうだ」
アルマが大きく笑った。
結局、いざとなれば迎えを寄越す、ということにして、グランは出産時には竜王宮で待機となった。
まるで身内のように、不安と期待で気持ちがいっぱいになっているのを自覚し、グランは苦笑した。
全く、巫子としての心構えに欠けるというものだ。
できる限り、気を軽く持って、彼は子供を待った。
だが、レヴァンダル大公家からもたらされた報せは、酷く悲痛なものだったのだ。
それは、暗く重い雲が垂れこめる夕暮れだった。
〈魔王〉アルマナセルはグランを訪れ、扉を閉め、ぶっきらぼうに告げた。
「セルベティが死んだ」
何も考えずに、ただその声だけを発するために来たように。
「……どういうことだ」
だが、勿論グランはそれでは済ませない。
アルマは、どすん、と音を立てて椅子に腰を下ろす。背を丸め、自らの爪先を食い入るように睨みつけながら、口を開いた。
「難産だったのだ。産気づいてから半日ほどもかかってしまい、体力が保たなかったのだろう。ただでさえ、あの娘は華奢で弱かった」
「何故僕を呼ばなかった!?」
突然怒りに駆られて、グランが怒鳴りつける。
原因によっては、彼の持つ竜王の御力も及ばないかもしれないが、それでも。
「産婆や医師たちは、決してお前を呼ばないように、と言い含められていた。当然、我らにも何も言ってはこなかった。わしらが、ラスが部屋に入れたのは、彼女が息を引き取ってしまってからだ」
グランが悪態をつく。
アルマは長く溜め息をつき、そしてようやく顔を上げた。
「子供は無事だ。だが、角がある」
鋭く、グランが視線を向ける。
「まさか、そのせいで……?」
「判らぬ。全てが初めてのことばかりだ。侯爵夫妻は、酷く怒っている」
アルマの顔色は悪い。先日会った時よりも、酷く老けこんで見えた。
「怒っている? 嘆いているのではなく?」
ふと心に引っかかって、尋ねる。
〈魔王〉は、軽く片手を振ってその問いをいなした。
「娘が亡くなっているのだぞ。その責を、誰かに押しつけたい、というのは、至極当然だ」
「そんなものか?」
「全てを陰謀に結びつけようとするな。……これは、痛ましいことだ。それだけだよ」
眉を寄せるが、とりあえずそこを追求するのは断念した。
「僕はそっちへ行った方がいいか?」
アルマは、力なく首を振る。
「止めておいた方がいい。今は皆、怒りの矛先を探しているところだ。ラスダフリックでさえ」
「あの子がか?」
流石にそれは考えつかなかった。驚きの声に、じっと相手はこちらを見つめてきた。
「お前が、回りの反対を捻じ伏せてでも強引に屋敷にいてくれれば、と思っているのだ。勿論、お前に非はない。皆が納得した上で、ここに留まっていて貰ったのだから。だが、それでも、何かに感情を叩きつけたくなるのだよ」
「……そうか」
小さく呟く。
慰めるように、アルマはその大きな手を肩に置いた。
「しばらく経てば落ち着くだろう。待っていてやってくれ」
グランは、セルベティの葬儀を執り行わなかった。
トリュボス侯爵が、娘の遺体を自宅へ引き取っていったのだ。そして、火竜王宮の本宮ではなく、自らの邸宅に設けられている竜王宮で葬儀を行った。
そこの巫女は戸惑って連絡を寄越してきたが、グランは、ご遺族の望むように、とだけ返した。
ラスダフリックたちは葬儀に出席はできたようだが、妻の墓は公爵家の敷地内に作られた。
生まれた子供は、父親の元に残っている。
結果的に娘の生命を奪った孫を、侯爵は望まなかったのだ。
一月ほどして、ようやくラスダフリックは竜王宮へやってきた。
「大丈夫か」
見るからに憔悴した青年に、グランは声をかける。
一瞬、ぐっと唇を引き結んだが、しかし彼は弱々しく笑んだ。
「はい。ご心配をおかけしました」
そして跪くと、大事に手にしていた籠をそっと持ち上げる。
「見てやってください。アーデルオーグです」
その中には、柔らかな布に包まれて、小さな赤ん坊が寝かせられていた。
黒い髪に、紫色の瞳。こめかみには、薄灰色の小さな角がくるりと巻いている。
じっと見上げてくる赤子に、グランは笑いかけた。
「ようこそ、アーデルオーグ。我ら火竜王宮はお前を歓迎するよ」
その言葉に応えたか、小さな手を振り回す。
そして、グランはラスダフリックへと視線を向ける。
「僕たちにできることなら、何でも言え。お前たちを統轄するのが、僕らの義務だ」
「ありがとうございます、グラン。大丈夫ですよ」
しかし、青年は、そう言って気丈に笑んだだけだった。
竜王宮の巫子たちは、基本的に世俗とは関わらない。
レヴァンダル大公家を統轄するにあたり、グラナティスは密かに多少の人数を王宮へ送りこんでいた。
だが、それらは大公家の人間には知られた事実であり、彼らを避けることは、さほど大した努力もなくできることであった。
故に、その事態にグランが気づくのは、かなり時間が経ってしまってからになる。
最初は、小さな囁きだった。
──お子様を産んで、亡くなられてしまったのよ。
──まだお若いのにお気の毒に。
若い夫婦に降りかかった悲劇を、僅かな興味と共に悼む声だったのだ。
だが。
──子供には角が生えていたそうだ。
──〈魔王〉の血を引く呪われた子が、母親の生命を喰らって誕生したんだ。
──トリュボス侯爵は酷くお怒りだとか。
既に、フルトゥナ侵攻から三十年が経過している。
[奇襲王]イーレクスは亡く、〈魔王〉アルマナセルは元々社交界での押しは強くなかった。
彼らを英雄として崇めていた空気は、急速に失われていく。
現在の王、エヴィエニスは若く、諸侯を抑える力はない。勿論、親友であるラスダフリックのためにできる限りのことはしていたが、しかし実は当人が柔らかくそれを押し留めていた。
ある昼下がり、王宮で、ラスダフリックが何者かに突き落とされて初めて、グランはその現状を知った。
「どうして僕に何も言わなかった!」
発見されてすぐ、火竜王宮にラスダフリックは運びこまれた。
昏倒したままの青年を、険しい顔でグランは見つめる。
外傷は、脚の捻挫や骨折など。どれも、苦もなく治癒できるものだ。傷跡さえ残るまい。
報せを受けて駆けつけたアルマに、グランは苛立ちのままに怒鳴りつける。
しばらくむっつりと黙りこんで、グランを見下ろしていた男は、やがて口を開く。
「セルベティの死に関しては、全て我々の責任だ。何を言われようと……」
「アルマ」
だが、断固とした口調で遮られ、口を噤む。
普段なら、いや、以前のアルマなら、この程度で言葉を途切れさせることなどない。
「お前が何を言っている。彼女の死に、一体お前たちが何を負うことがある? 僕がいなくても大丈夫だと判断したのは、セルベティ本人と侯爵で」
「グラン。あの娘は悪くはない」
静かに、アルマは告げた。
その、癖のかかった黒髪には、白いものが混じり始めている。
苛立たしげに、グランは男を見上げた。
半ば懇願するように、アルマは続ける。
「お前は何も言わないでくれ。セルベティの判断は誤っていたかもしれぬ。だが、それを広めて何になる? 彼女に同意する者だとていなくもない。あの娘の、侯爵の名誉を護ると、我らは決めたのだ。そして、お前のものも」
「僕に傷つくような名誉なんてない」
吐き捨てるように、グランは返す。
これは、彼に、彼の庇護する者たちに対する、初めての攻撃と言ってよかった。イフテカールとの、水面下においてゆっくりと交わされる陰謀とは、まるで違う。
「頼む。グラン。人の噂など、そのうちに消えよう。我らが沈黙を続けてさえいれば」
言い募る男に、僅かに軽蔑した視線を向ける。
「老いたな。アルマナセル」
そして、グランはきっぱりと踵を返した。断固とした足取りで、部屋を出る。
そのまま、廊下で控えていた書記官に、王宮へ出仕していた巫子たちを呼び出すように指示をした。
彼には理解できないことだった。
セルベティの死を嘆くあまり、他者を攻撃し続けるトリュボス侯爵家も。
他者を責めることができず、ただ自らを罰し続ける、レヴァンダル大公家も。
理によって物事を判断し、徹底した現実主義を貫くグランには、そのような弱さが当時は全く理解できなかったのだ。




