08
グランは、柔らかな椅子にぐったりと身体をもたせかけていた。
「遅かったじゃないか」
非難するような口調は、イーレクスを送り出すのに時間をとられてしまったせいではない。
「レヴァンダに引き止められていたんだ」
イーレクスが訪問する間、妻に色々と話しかけられ、連絡を受けるのが遅くなったことを説明する。
「姉さまか……」
溜め息を落とす。肩を竦め、アルマは手近な椅子に腰を下ろした。
「イーレクスに知れるのが今になったことがむしろ意外ではあったがな」
「竜王宮からの報告が渡っていないことがか? お前は目端が利かないな。数年前から、本宮の人間を入れ替え始めている。以前要職にあった者たちは、とっくに他地方へ栄転させた。今、王宮から粉をかけられているのは、全て僕の配下だ」
不敵に笑んで、グランがそう告げる。驚いた顔で、アルマは幼い主を見つめた。
流石に副竜王宮長が異動になったことには気づいていたが。
「だが、王子が知った以上、すぐにイフテカールには伝わるだろう。正念場だな」
もの思わしげに、呟く。
「わしも少しばかりあいつに釘は刺してきたが、どこまで効くかは判らんしな」
アルマの言葉に、グランは胡散臭げな視線を向けた。
しかし、その後数日間は王宮からもイフテカールからも何の接触もなかった。
グランの容態が急変するまでは。
高熱が続き、意識を保つのも難しくなり、苦痛に叫び声を上げることすら増えてくる。
家族が次々にやってきたことにも気づかない。
最後に、イフテカールがとうとう竜王宮へ乗りこんできたことも。
ただ、苦しくて、辛くて、痛くて、ひたすら全てが終わることだけを待ち望んでいた。
そして、瞼を開いた瞬間の、呼吸の軽さに驚いた。
手を頭上に掲げてみる。あの、膿み爛れていた指先は、つるりとした綺麗な皮膚に戻っていた。
「気分はどうだ?」
傍らから、静かな声がかけられる。
「最悪だ」
「そうか」
ぶっきらぼうに返すが、相手には動揺した様子もなく応じた。それはそれでまた苛立つ。
「……結局、僕は、また生き永らえさせられたのだな」
「ああ」
ぱたん、と腕を寝台へ落とす。
新しい身体に馴染むには数日かかる。が、以前の衰えた身体と、今まで動かすことが殆どなかった新しい身体とでは、使いづらさは大体似たようなものだ。
「それで、一体誰が契約者だったんだ?」
ただ、冷徹に尋ねる。
視界に入らない場所から、アルマは答えてきた。
「王妃だ」
母か。
僅かに絶望がよぎる。
子に死なれることは、それは酷く動揺するだろう。それはレヴァンダを見ていても想像がつくし、もしもラスダフリックに何かあったら、と思えば、自分でさえ平静でいられるとは思えない。
つまり、彼女に説得は通用しない。
「王妃が亡くなるまで、僕はこのままか……」
ぽつりと呟く。
だが、義兄は更なる絶望を与えてきた。
「亡くなられても、継続を望んだままであれば、イフテカールはそれに従うだろう」
反射的に上体を起こし、振り返る。瞬間、ぐらりと視界が歪んで、グランは再び倒れ伏した。
「無理をするな」
「どういう意味だ?」
ぎりぎり、視線を上げて、問い詰める。アルマは、部屋の隅に置かれた椅子に座ったまま、身動きひとつしていない。
「子供たちを永遠に生かしておきたい。王妃が、そう考えておられるのならば」
「莫迦莫迦しい!」
吐き捨てるように言う。だが、今の状況は既に充分莫迦莫迦しいものだ。
「……子供たち?」
ふと、心に引っかかった単語を尋ねる。
アルマは一度頷いた。
「イーレクス王子も、そのうち同様の術を受けるらしい。不死なる王と巫子とが、イグニシアを支えていくという訳だ」
唖然として、言葉も出ない。
どさり、と寝台に顔を伏せた。
「……王妃に心変わりを求めるよりないのか?」
小さな呟きも、アルマはきちんと拾いあげた。
「手段は、もう一つある。イフテカールが死ぬことだ」
重々しい声に、息を止める。
「契約は、施術者の死後までは継続しないのか?」
「あまり例はないが、おそらく。そもそも、死後、どうやって奴がお前を生かし続けるのだ? イフテカールは、毎回、お前を直接新しい肉体へ移動させなくてはならないのに」
「僕はその時意識がなかったんだから知る訳がないだろう」
憮然として返す。ごろり、と、仰向けに転がった。
「……それも何とかしたいところだな。奴と顔を合わせなくてはならない、というのは、どうも嫌だ」
グランにしては珍しく、好悪の情を露にする。
疲れたように額にかかる前髪をかき上げた。普段、手に触れる火竜王の瞳が、今はない。
グランは、術後を心配して訪れる元家族を、全て拒絶した。姉、レヴァンダまでも。
唯一面会を許されたのは、〈魔王〉アルマナセルと、その息子ラスダフリックのみだ。
幼い息子は、時折、高位の巫子に母親へ会って欲しい、と頼んできたりしたが、しかし相手は薄く笑んだままでそれに応じようとはしない。
やがて、徐々にその頻度も下がっていく。
〈魔王〉の魔術を体系づけ、それをグランが理解するには、膨大な時間が必要だった。
アルマは、優秀な教師ではなかった。特に意識もせずに扱える魔術を、そうではない人間に説明する、というのは、酷く困難だ。
グランの卓越した理解力がなければ、成しえなかったことだろう。
その過程で、彼らはグランを延命させる魔術を、無人で執り行うことができないか、という命題にも取り組んでいく。
「魔術の構成を順次発動していくこと、龍神の魔力を累積させておくことが可能であれば、できる筈だ。僕の身体が十年程度保つと仮定して、その間、流れ出していくだけの魔力を取りこみ続けられればいい」
グランの提案に、アルマが眉を寄せる。
「手順があるから、一度には無理だな。数個の媒体をそれぞれ稼動させれば、あるいは」
念入りに問題点を改良し、作り上げていくのには、数年を要した。
これを使うことになるのなら、それは、イフテカールと完全に決別する、ということだ。
拒絶されたイフテカールが、どれほど怒りを露にするか、彼らには予測がつかなかった。
だから、かなりあっさりと承諾されたことに、肩透かしを食らった気分であったのだ。
「結局、イーレクスが不老不死の術を受け入れない、と強弁していたらしいからな。人によっては嫌がられるものであるのだ、という認識はあるようだ」
一人交渉に赴いたアルマが、そう告げる。
イフテカール自身も、延命している。彼が不満に思っていないことが他者はそうではない、ということにようやく気づいたのか。
「都合のいい男だな」
憮然として非難したのは、しかしイフテカールのことではないだろう。
「そう言ってやるな。お前は、火竜王の加護の下にある。イーレクスはそうではない。彼が、イフテカールを拒絶するのは、かなりの覚悟が必要だ」
グランは、僅かに顔を曇らせた。
「そう気に病むな。わしがいる」
悠然と構える男に、少しばかりむっとしながら、幼い巫子は頷いた。
レヴァンダル大公家の義務は、勿論竜王宮に対するものだけではない。
貴族として、王家にも忠誠を誓っている。
そして、かなりの時間を王宮へ出仕していた。主に社交的な理由で。
イーレクス王子には、息子が一人いた。エヴィエニス王子だ。
彼はラスダフリックと歳が近く、従兄弟ということもあり、とても親しく、まるで兄弟のように育っていた。
ラスダフリックが竜王宮の管轄にあるという名目で、少しずつこちらの手の者を王宮へ送りこんでいたのはグランだ。そして、その影響は、エヴィエニス王子にも及びつつあった。
王家を、イフテカールの、龍神の手から取り戻す。
それが、グランのもう一つの目的だった。
やがて、国王夫妻が病に倒れた。
火竜王宮に祈祷の依頼が来るのを、グラナティスは粛々とこなす。
だが、竜王は人の寿命には干渉しない。
そして、人の世のことにも。
無駄だということを、最もよく判っているのが、この火竜王の高位の巫子だ。
それでも、彼はただひたすらに、祈った。
数ヵ月後、国王が崩御する。
葬儀のために、前もって礼拝堂に安置された遺体を、グランはしげしげと見つめた。
子供の頃に、数えるほどしか会っていない父親は、殆ど記憶に残っていない。
老い、病み衰えたその姿は、哀れなものであった。
だが、確かに彼の父親だ。
グランは、深く、王に対して頭を下げた。
盛大に国葬として王が葬られ、その直後、王太子イーレクスが即位する。
火竜王の加護の下、彼に王冠を載せたのはグランだ。
跪くイーレクスは、しかし表情が酷く硬い。
幾度も自分を拒絶した弟に、そろそろ甘い感情も持てなくなってきたか。
王宮に、イフテカールの干渉が強くなってきた、という情報もある。
兄弟は、互いに無感動に式典を行った。
そして、それを見届けたかのように、王太后が数日後に崩御した。
葬儀の前の晩、やはり、グランはその棺の横でぼんやりと時間を過ごしていた。
「……どうして、貴女は、僕を解放してくださらなかったのですか……」
もしも死後の契約破棄が成ったのであれば、イフテカールから連絡がくるだろう、とアルマは話していた。それはどれほど個人感情に反しようと、契約上避けられない行動だ。
それがなかった、ということは、つまりグランの不老と不死は継続する、という意味だ。
夜も更けた頃、礼拝堂の隅の扉が小さく音を立てて開いた。
姿を見せたのは、すぐ上の姉だ。
「……レヴァンダ様」
滑らかに向き直り、一礼する。そのまま踵を返した。
「待って、グラン。最後なのだから、しばらく一緒にいてちょうだい」
だが、決意を秘めた言葉に、足を止める。
ゆっくりと戻ってきたグランに、視線を向けることなく、レヴァンダは口を開く。
「グラン。貴方には、もう一人兄がいたのよ」
幼い巫子は、僅かに眉を寄せた。
「貴方が生まれる、二年少し前に生まれたの。その子も身体が弱くて、本当に半年でいなくなってしまった。お母様は、ずっとお嘆きになっていて、後を追って死んでしまわれるのではないかと思ったほどよ。私はまだ幼かったけれど、よく覚えている。きっと、お兄様も」
棺に納められた、純白の百合の花弁に、レヴァンダはそっと触れた。
「そして、貴方が生まれて、また、長くは生きられないだろう、と言われたの。お母様は、もう二度と、あんな思いをしたくないと思われて」
「それで、僕をこのような境遇に貶めたと?」
冷たい声音に、レヴァンダははっとして向き直る。
グランは、怒りを露にしてはいなかった。
「僕のためじゃない。全て、貴方がたの自己満足だ。そこまでして、一体何を求めておられたのだ?」
「グラン……、私たちは、ただ、貴方に死んで欲しくはなくて」
「人は死ぬものですよ、レヴァンダ。高位の巫子となってから、僕が幾人の葬儀を執り行ってきたとお思いですか? 親しい人の死を受け入れる方は、結局、悲しみを癒すのが早い。貴方がたは、僕を生かすことによって、その子供の死から受けた傷を癒そうとした。だが、それは成しえない。筋が違うからだ」
グランの発する感情は、ただ、呆れと苛立ちのみだった。
「皆が、貴方ほど強い訳じゃないわ」
ぽつり、とレヴァンダは呟く。
「僕だって、最初から強かった訳じゃない。その僕に、貴方がたが欲求を押しつけた結果が、これだ! 誰かに、ほんの一人でも、僅かでも満足感が残ったのですか? 哀れな僕の兄は、こんな目にあわなかっただけ幸福だったでしょうよ」
「グラナティス!」
レヴァンダが、驚愕したような、非難するような声を上げる。
だがグランは静かにそれを見返すと、今度こそ礼拝堂を辞した。




