02
イグニシア王国軍が出兵すると、王都は随分と寂しくなったようだった。
グランの周囲だけを見ても、まず、アルマとイーレクスが不在だ。彼らがいないと、レヴァンダもあまり訪ねてこない。
イフテカールも、忙しさが継続しているのか、殆ど顔を出さなかった。
静かな竜王宮の生活の中にいると、少しばかり物足りない気分にもなる。年相応の子供の肉体となった彼は、少々元気を持て余し気味だった。
それでも、火竜王の高位の巫子としての責務を覚えながら、日々を過ごしていく。
アルマが突然彼を訪ねてきたのは、彼が王都を発って一年近くが過ぎた頃だった。
「アルマナセル様?」
慌てて時間を空け、応接室へ駆けこんだグランが見たのは、暗い顔で椅子に腰掛けている男だった。
以前までの、姉を愛し、人を愛し、音楽を愛し、人の世界を愛していた、あの〈魔王〉だとは思えないほどに。
「……どうされたのですか?」
「ああ、いや、突然訪ねてすまない」
眉間に皺を寄せたまま、アルマは返事をする。
「いつお帰りになったのです? 知らせは全く来ませんでした」
とりあえず、彼の前の椅子に腰かけて、続けて言葉をかけてみる。
「つい先ほどだ。イフテカールが王宮まで送り届けてくれた」
「イフテカール?」
何故彼の名が出てくるのかと、小首を傾げる。
この時点まで、グランは、イフテカールは父王の相談役であるとしか思っていない。
「イフテカールは、今、イーレクスを戦場まで送っていっている」
「兄さまを? でも」
「時間がない、グラン。奴が戻ってくるまでに、お前に聞いて貰いたいことがあるのだ。そして、判断して貰いたい。……わしには、何が正しくて何が誤っているのか、よく判らぬ」
その、鬼気迫るほどの形相に、グランは口を噤んだ。
小さく息をつき、手を膝の上で組んで、〈魔王〉は話し始める。
「フルトゥナは、壊滅した。わしは、あの国と、風竜王と、その高位の巫子を滅ぼしてきたらしい」
それは、懺悔にも似た、苦渋に満ちた声だった。
アルマは、立て続けに、この一年で何があったのかを話し続けた。
異界より自分を召喚したのがイフテカールであったこと。
彼の背後には、龍神という、強大な存在があること。
遥か昔、地竜王という竜王に封じられた龍神は、竜王とこの世界に憎悪を抱いていること。
まずは風竜王を滅することを目的に、アルマは召喚されたのだと。
そして、龍神の封印を解くためには竜王の高位の巫子の生き血が必要で、そのために、グランは新たなる肉体を与えられたのだ、と、
グランは、ただ沈黙のうちにそれを聞いていた。
衝撃がなかった訳ではない。
酷く弱かった、しかし産まれてからずっと自分のものだった肉体がどうなったのか。
そして、未だ行方知れずである、先代の高位の巫女が、どうなったのか。
その辺りは推測でしかないが、しかし。
「しかし、アルマナセル様。今回、イフテカールがその風竜王の高位の巫子の心臓を手に入れたとなると、事態は更に進行していると見ていいのですね?」
グランが、不安げな表情で尋ねる。
僅かに、アルマは驚いて少年を見つめた。
彼は、さほど多くの人間を知っている訳ではない。王宮で過ごし、行軍した間に関わった人間たちぐらいだ。
だが、このような、既存の知識と全く真逆の事実を告げられて、相手がどう考え、動くかは大方予想はついていた。
しかし、グランは、酷く冷静に状況を判断し始めている。
彼は酷く幼く、何より当事者でもあるというのに。
「アルマナセル様?」
不審そうな声に、〈魔王〉は我に返る。
「ああ、いや、そうではない。あやつに渡したのは、高位の巫子の心臓ではないのだ」
「……なるほど」
多くを説明されなくても、すぐにその意図を飲みこんでいる。
こうして、グランに相談に来ている、ということが、アルマがイフテカールたちへ懐疑心を抱いている証左であり、それ故に彼は、本当は誰の心臓であったのかを欺いているのだ。
「ですが、それはすぐにばれるでしょう。彼らが高位の巫子に執着するなら、それなりの理由があるはずです。……イフテカールが戻ってくるまで、どれほど時間がありますか?」
「もう戻ってきている。先刻から、凄まじい勢いで呼び出されているからな」
知覚の一部で龍神の使徒からの怒りを感知しながら、アルマは肩を竦めた。
「あまり待たせてはよくないですね。アルマナセル様、一旦彼らの元へ行って、心臓は、あくまで高位の巫子のものであったと思いこんでいたようにみせかけてください。貴方に疑いがかかっては困ります」
「疑い?」
少年に指示された、ということが意外で、繰り返す。
彼は、相談しに来たのだ。
いや、むしろ、状況が掴めず、混乱している心情を、単純に聞いて欲しかっただけなのかもしれない。
なのに、幼い巫子は軽く返すのだ。
「貴方は、龍神よりも、僕たち人間を選んでくださるのでしょう?」
この、今のままの世界を。
人の作り出すもので溢れる、彼の愛した世界を。
それを破壊し、滅ぼし、異界と同様に変えてしまおうとする、龍神よりも。
アルマが、薄く笑む。
「お前は、その弱い身体に、とんでもない牙を隠しておったようだな。任せよ。わしは、風竜王の高位の巫子に、『莫迦』だと称された男だ。奴に欺かれた演技など、するまでもない」
「……何というか、豪胆な方だったのですね……」
これほどの巨漢であるアルマにそのような暴言を吐くなど、グランには想像もできなかった。
その後、アルマは勝利の宴と結婚式の準備とが重なり、あまり火竜王宮には来れなくなっていた。
グランは、まず、イフテカールの身辺を探りにかかる。
だが、いくら聡明とはいえ、まだ九歳の子供である。彼自身の力では、殆ど何も掴めないだろう。
最初に、古参の巫子や火竜王宮の親衛隊に尋ねてみた。だが、グランが竜王宮入りする前はとんと接触がなかったらしく、めぼしい情報は得られなかった。
王宮に、グランが親しくしていた者はいない。そちらへ訊いてみることもできないのだ。
そこで、彼は書物に頼ることにした。最低でもこの百年の間、イグニシア王室に関わった者が書き残した手記の類を、できる限り集めさせたのだ。
イグニシア人は、北方の野蛮な民だと思われている。だが、彼らは意外と記録というものが好きで、王室の行事から日用品の購入に至るまで、細々と記録が残されているのだ。歴史学を学ぶのであればイグニシアが最高峰である、と言われているのも、その積み上げられた記録の保持の成果だ。
グランは時間を捻り出し、その手記に片っ端から目を通した。ほんの少しでも、イフテカールを思わせる記述はないものか、と。
竜王宮の者たちは、内心それを歓迎していた。彼が外出してばかりであると、竜王宮の動きに色々支障が出始めていたのだ。ここ一年ほどはそれもなくなっていたが、〈魔王〉の帰還により、また始まるのではないかという懸念が彼らにはあった。
一冊の本を傍らに置いて、グランは考えこむ。
ここ二十年ほどは、イフテカールはそれなりに表に出てきていたようだ。王宮に参内した貴族たちの手記にもちらほら姿が見える。
だが、それ以前となると、数は激減した。
それでも、幾つかはそれらしきものを見つけている。金色の髪の、物腰の穏やかな青年。
そう、百年近く前でも、彼の容姿は変わっていなかった。
少なくとも、これで、アルマの情報の裏づけにはなるかもしれない。
その後、少年はイフテカールの関与した事柄が、その後どう発展していったのか、を調べ始めた。
しかしそちらの方は、さほどの成果も上げられなかった。
まあ、考えてみれば、後ろ暗い行為を行うのに、自らの手を汚すことはそうあるまい。
第一、問題は、今後彼らの行動をどう止めるかだ。
まだ幼いグランには、信用のおける部下というものがいない。
とはいえ、いないのならば、作ればいいだけなのだ。
グランは机に向かい、ペンを手に取った。
アルマが火竜王宮を訪ねたのは、早朝のことだった。
「すまない。時間が取れなくてな」
申し訳なさそうに言うが、まあ仕方がない。結婚式が迫っているのだ。
「御気になさらないでください。早く終わらせてしまいましょう」
ドライにグランは告げる。新郎のことを思いやっているだけではない。この間会った時に、式の準備はどうなっているのか、と水を向けてみたら、滔々と長時間語られたのだ。主に、新婦の美しさについて。
ああ、と頷くアルマを、グランはじっと見つめた。
「まずは一つ、お訊きしたい。貴方と、イフテカールの間の契約は一体どういうものなのですか」
〈魔王〉は、その問いに、驚いたような、困ったような顔をした。
「そなたは、わしたちと同じ世界にいた訳ではないのだから、悪気はないことは判っておる。だが、他者に、その者が結んだ契約について尋ねるは、酷く無作法なことなのだよ」
諭すように答えられる。
どちらかといえば直情的なこの男が、これほど気を使うとは、随分と変わったものだ。姉の影響か、と、グランは密かに考えた。
一方で、彼は素早く思考を巡らせている。
「それは申し訳ありません。ですが、大事なことなのです。答えられるところだけでも、教えて頂けないでしょうか。僕が特にお訊きしたいのは、イフテカールとの契約は終わることがあるのか、ということ。そして、その後は、貴方はどのような立場に置かれるのか、ということです」
アルマが眉を寄せる。
「そうだな……。わしとレヴァンダの婚礼が終われば、報酬を手に入れた、ということで、契約が終わると見ていいだろう。その後は、おそらく、契約解除の状態になる。継続したい、と双方が望むのであれば、優先的にそうなってしまうが」
「双方でなければ、継続はされないのですか?」
「まあ、そうだ。契約というものは、お互いの承諾の元に成立するものだからな」
グランが、一つ頷く。そして、晴れやかな笑顔で、こう言ったのだ。
「アルマナセル。婚礼が終わったら、僕と契約をしませんか?」
イフテカールには、グランが敵対しようとしていることに気づくのを、できる限り遅くなって欲しい。
そのため、交渉は全てアルマへと任せることにした。
彼ならば、異界の神がどう考えて行動するか、ある程度は判る。
そして、それは、数年の間は上手くいったようだった。
アルマとレヴァンダの婚礼は恙無く挙げられ、二人は幸せの只中にいるように見えた。
英雄として祭り上げられたイーレクスとアルマは、共にカタラクタ王国のために働いている。
表立っては、イフテカールも何も動きを見せてはいない。
今は、焦らずに力を蓄える時だ。
グランは、ひたすら地道に資料を読み耽っていた。
一年ほど経った頃、〈魔王〉アルマナセルは、酷く苦悩した様子でグランを訪れた。
「レヴァンダに、ばれた」
そう一言呟いて、彼は顔を上げようとしなくなった。
「アルマ。一体何のことですか。イフテカールの陰謀を、レヴァンダ様が気づいてしまったのですか?」
だとすると、彼女の生命が危ないかもしれない。ここで悠長に落ちこんでいる暇はない。
だが、アルマは力なく首を振った。
「そうではない。わしが、フルトゥナで何をやったのか、だ」
彼の言葉に、眉を寄せる。
あのフルトゥナ侵攻で、彼は西から攻めこむ軍の将となっていた。戦争が何をするか、といえば、それは単純に人殺しだ。
その程度のこと、今更ばれたばれないという話ではないと思うのだが。
「先日の舞踏会に、吟遊詩人が来ておったらしいのだ。そやつは、カタラクタ王国軍が、特にわしがどれほど悪逆非道にフルトゥナの民を惨殺したか、それをひたすら言い募っていたらしい。無論、すぐに捕らえられてはいるが、ご婦人方の中にはそのあからさまな話に、卒倒した者も何名かいたようだ」
吟遊詩人は、フルトゥナの出身者が多い。まして、国を失った民たちは、現在イグニシアとカタラクタの二国を流浪している。
恨みを持っていない訳がない。
「それで、レヴァンダ様は?」
容赦のない、グランの追求に、アルマは深く溜め息をつく。
「激怒しておるよ。自分が、そのように、他国の民の、竜王の巫子たちの血で贖われたとは、と」
レヴァンダは、情が深い反面、意外と激情家だ。
だが、身体の弱い末の弟として甘やかされていたグランは、その辺りをよく判っていない。
「僕が姉さまとお話ししましょう。少しは聞く耳を持ってくださるかもしれません」
彼がそう申し出たのは、あまりにも浅慮だったのだ。




