18
ぱん、とグランが聖服の裾をはたく。
「お前こそ、随分と時間がかかったじゃないか」
その言葉に、あからさまにアルマが嫌そうな顔をする。
「俺がどんだけ酷い目に遭ったと思ってるんだよ。まだ身体中がみしみしするぜ」
「……アルマ!」
が、突然横合いから衝撃を受けて、息を詰める。追いついたペルルが、目を潤ませて抱きついてきていた。
困った顔で、アルマがその肩に腕を回しかける。
『まさか、〈魔王〉アルマナセル……? 生きておったのか』
しかし、上空から憎々しげな声が降ってきて、うんざりした顔で振り仰いだ。
「じーさんなんかと一緒にすんじゃねぇよ。龍神だなんてご大層な名前名乗ってるくせに、その程度の区別もつかねぇのか? 寝惚けてんのも大概にしときな」
その言葉に、数秒の沈黙が落ちる。
そして突然に、球体に無数の棘を生やしたような物体が、龍神の前面に出現した。その数は十を下らない。
次の瞬間には、様々な軌道を描き、龍神の敵へと突進する。
「……我が竜王の名とその誇りにかけて」
が、距離を半分詰めたかどうか、という時点で、その攻撃的な姿を銀色の球体へと変化させ、停止した。
いや。棘だらけのその物体を、銀色の液体で包みこんだのだ。
「お静かになさっていてください」
ペルルが、断固とした口調で告げる。未だアルマの身体を離さないまま。
苦笑して、アルマはその肩に改めて手を回した。
「……ええと……。とりあえず、最初から訊こうか。何で君は生きてるんだ、アルマ?」
色々と言いたいことがありそうだったが、オーリは辛抱強く質問を選んだ。
上空では、龍神と水竜王の御力との攻防が続いている。
アルマはこともなげに告げた。
「お前は知っている筈だぜ、オーリ。〈魔王〉アルマナセルは、肉体の死を重要視していなかっただろう?」
風竜王の高位の巫子は、僅かに目を見開いた。
確かに、そのために、〈魔王〉は人の死というものを理解できていなかったのだ。
「あれか……? しかし、君は、その、〈魔王〉ではなかっただろう?」
〈魔王〉と、その裔とでは、存在感が絶対的に違う。時折、アルマがその力を制御しきれなかった時などに、〈魔王〉の存在感が滲み出てきてはいたが。
そう。今のように。
「〈魔王〉は、昔、人の肉体へ変異している。この世界に受け入れられ、この世界の者として生き、そして死ぬためにだ」
上空の戦況を注意深く見つめながら、グランが話し始めた。
「人の肉体から産まれた子孫たちは、人として生きてきた。だが、必要とあれば、始祖とは逆に〈魔王〉の、異界の者としての肉体へ変異する。今のアルマのように」
「君が隠し事をしなくなってくれるのは、一体いつになるんだろうね」
呆れた口調で、オーリは呟いた。
「何をお前たちに話していないのか、僕もよく覚えていないからな」
幼い巫子は、さらりと嘯く。
「まあ、説明はもういいだろ。いつまでもペルルに無理をさせたくない。で、俺が戻ってくるまで、お前たちは何をやってたんだ?」
〈魔王〉の裔の言葉に、その場にいた高位の巫子たちが顔を見合わせる。
「見ての通り、龍神は上空にいるだろう。こちらの攻撃は届かないんだよ。私の矢がかろうじて、ってところだけど、本数がもう少ない」
オーリが肩を竦めて告げる。
「竜王の御力は?」
「似たようなものだ。巫子の扱える御力は、龍神に対しては大した脅威になりえない。せめて龍神が地上にいればもう少しなんとかなったのだが」
僅かに考えこんで、アルマは視線を傍らの巨体へ向けた。
「地竜王。貴方なら、龍神を落とせるんじゃないか?」
『可能ではある、〈魔王〉の子よ。だが、奴のところまでわしの力を届かせようとすると、わしを中心にした同じだけの範囲に同じだけの力がかかる。しかも、奴は抵抗するであろう。奴を落とせるだけの力が、この地にかかれば、まあ、崩落は免れまいな』
それは、建造物の崩落ではない。この王都の建つ、岬の崩落だ。
淡々した口調に、皆が眉を寄せる。
まあ、この一万年眠っていたという地竜王にしては、この地に住む人々を気遣ってくれているのだろう。
「先刻、クセロがイフテカールを天井に叩きつけたのは?」
『巫子を通せば、力は集中できる。細い管を通すようにな。しかも、あの時には相手に直接触れておったからの。最小限の範囲で済もう。じゃが、今の龍神は周囲に自らの力場を敷いておる。あれを突破し、奴を捕まえるのは、そう簡単にはいかんよ』
アルマナセルは考えこんだ。
上空では、未だ龍神の攻撃がこちらの隙を伺い、飛び回っている。
隣を通り過ぎざまに、ぽん、と肩を叩いていった少年の後姿を見送る。
傍らに、所在なげに立っていたプリムラが、軽くそのマントを引いた。
「向こう。行って、いいわよ」
彼女も、少年と、そして主である少女の姿を見つめている。
「しかし」
「あたしだって、自分の身ぐらいなんとかできるわよ。これでも色々慣れてるの。気にしないで」
だが、しょっちゅう龍神とやりあっている、という訳ではあるまい。グランの言いつけをずっと守っているというのは気に食わないが、かといってこんな幼い少女を戦場の片隅に置き去りにしていくのも後味が悪い。
そう考えかけて、小さく自嘲した。
全く、イフテカールが三、四ヶ月かけてじっくりと堕落させたというのに、また簡単に気持ちが変わってしまったものだ。
ふいにその原因の存在に思い至り、少女に手を延ばした。
「こっちへ」
少しばかり警戒していたようだが、プリムラはおとなしくその手を握った。
「アルマ」
小走りに走り寄ってきた青年に、振り返る。
「おぅ。プリムラは?」
「旦那様のところへ連れて行きました。あそこには、また別に防御壁を構築していましたから」
階段の踊り場に寝かせたままにしている、レヴァンダル大公の身体。エスタは、龍神が復活した際の衝撃が襲ってきた段階で、その周囲に防御の壁を作り出していた。
頷いて、アルマが一同を見回す。
「よし。じゃあ、行くか」
あっさりとそう言ってから身を屈めると、彼は無造作にペルルの頬に口づけた。
淡い青の瞳を大きく見開いて、ペルルの表情が凍りつく。
そのまま、アルマは少女の身体を抱き竦めた。
「ア……アルマ?」
震える声で問いかけられる。
大きく響く鼓動は、果たして二人のうち、どちらのものか。
「頼むよ。俺達を護っていてくれ」
小さく告げたその言葉に、ペルルの身体の強張りが溶けた。少年の身体に回していたままだった腕に、力を籠める。
「ええ。お任せください」
一人、無事でいて欲しい、などという言葉は、ことこの場において、竜王の高位の巫女に言うべきことではない。
どれほど、それを望んでいても。
「……旦那、一回死んで人間変わったんじゃないか?」
やや呆れた風に、クセロが呟いた。
「力が以前に比べると段違いだからな。高揚してるんだろう。ひと段落したら落ち着くさ」
こともなげに、グランが告げる。
「だといいけどね。何だか、今の彼を見ていると、お祖父さんを思い出して少し苛々するよ」
オーリが皮肉げな笑みを浮かべて言い切った。
そして、風竜王の高位の巫子は踵を返す。
「じゃあ、行くよ」
軽く矢筒を背負い直し、彼は全く気負う様子もなく、跳躍した。
龍神の浮遊する高度は、さほど高くない。一番下が、元あった礼拝堂の屋根程度の高さだ。
オーリは、それよりも遥かに高く跳べる。
しかしその天辺までだと、おそらくそこまで以上に高い。地上からだと、二、三十メートルにはなろうか。
彼を迎撃するかのように、龍神の纏う闇が移動した。
放たれる攻撃は、しかし、青年へ届く前に全てが水竜王の御力で防がれる。
自らの身体が描く放物線の頂点で、立て続けにオーリは矢を放った。
風竜王の祝福を宿す矢に、龍神の盾は呆気なく破れるが、やはりすぐにじわじわと塞がりだす。
そして重力に従い、オーリが落下を始め、もうこれ以上矢を放てなくなったところで。
彼は、同様に跳躍してきたアルマの背に、足を乗せた。
異なるタイミングで互いに跳び、その軌跡を交差させる。
彼らは立場を全く逆にして、フルトゥナの荒野で同じ行動を取ったことがある。
しかしアルマとは違い、オーリは足場となる相手に全く衝撃を与えることなく、もう一度跳んだ。
そして、更に矢を放つ。龍神を護る闇は、徐々に穴を大きくしていった。
一方で、自らの勢いを弱めることなく、アルマがその穴へと跳びこむ。周囲に、彼を護るように浮かぶ銀色の球体を従えて。
〈魔王〉の裔は、手に抜き身のブロードソードを構えていた。その刀身には、薄紫がかった光が纏わりついている。
甲高い金属音が、響く。
龍神を護る闇は、もう一層あった。こちらは、外側の薄く、脆いものに比べ、遥かに固いらしい。
勢いのままに、卵のような形状の頂点へと突き立てようとした剣は、火花を散らしながら弾かれた。つるりとした外層の上に立つこともできず、アルマがそのまま滑り落ちそうになる。
「くそ……っ!」
罵声を上げるその背に、とん、と再びオーリが降り立った。身を屈めて、手を伸ばす。
「我が最愛なる風竜王ニネミアの御名と、その吹き荒れる誇りにかけて」
静かな声が夜空に流れ、剣の束の先端に掌が当てられる。
軽く押しこむような仕草と共に、僅かながら剣が龍神の護りへと侵入した。
そこを基点に、少年は表層に足を踏ん張り、身体を安定させる。知らず、安堵の溜め息を漏らした。
オーリは、まだアルマの背中に乗ったままだ。
そのまま動かないとなると、流石に彼の体重がずしりとかかってくる。
「重いぞ」
「君なら平気だろう。それより、しっかり壊してくれよ。破壊の〈魔王〉」
力任せに押しこむ剣は、徐々に内部へと入りこんでいく。時折力を入れる角度を変え、亀裂を広げた。
だが、時間がかかる。苛立ったアルマが片足を振り上げ、剣の刺さっている辺りを踵で蹴りつけた。
単純に物理的な力だけではない。魔力も併用してはいる。しかし呪文を唱えなくてはそうは見えないようで、オーリはやや呆れた顔で見下ろしてきている。
ばきばきと音を立て、龍神を護る闇は割れていく。
剣が身体を支える力が抜けそうになって、慌てて刺しこむ場所を変えた。かなり大きな範囲で、ごそりと闇が崩れていく。
その割れ目から姿を見せたのは、漆黒の、巨大な生物だった。
体高は、十メートルほどか。額から一対の太い角が突き出し、背には蝙蝠のような翼が生えている。
真紅に燃える瞳が、憎悪を籠めてこちらを睨めつけていた。
太い鉤爪の生えたその掌の上に、見知った青年がいた。血に塗れ、酷く青褪めた顔で、しかし両足で立っている。片手を自らの身長ほどもある鉤爪に添えて、こちらに向ける断固とした視線は、まるで彼の方が龍神を護っているかのようだ。
「やっぱりお前か、イフテカール! 妙に固いと思ったんだよ」
アルマが軽口を叩く。
この外層には、アルマの〈魔王〉としての、つまり地獄より来たりし者の魔力と、オーリのもたらすこの世界を統べる竜王の御力とで破壊を試みていた。龍神に対し、竜王の異質な力で崩し、同一の魔力で力押しをする、そういう戦術だった。
だが、あまりにも歯が立たなさ過ぎた。
それは、彼らと同じように、龍神の力にイフテカールの、人が介在する魔術を混ぜていたからだろう。
瞬間、先端の鋭い杭のような物体が、無数にずらりと彼らの間に展開した。
アルマとオーリに向けて突き進むそれを、ある程度は水竜王の御力が飲みこんでいく。
だが、距離が近く、何より数が多い。
幾らかは二人がその力で無理矢理軌道を変えさせたが、幾本かが前面に位置しているアルマの体に、鈍い音と共に突き立った。
「ぐ……!」
「アルマ!」
オーリが叫ぶ。
現在、〈魔王〉の肉体になっているアルマには、竜王の祝福による治癒はむしろ逆効果となる。
今までのように、怪我をしたらその都度高位の巫子が癒す、という手段は執れないのだ。
「いい気になるな。貴様らごときに、この方をどうこうできはせん!」
怒りに満ちた言葉が、意思が、向けられる。
「よく考えろ。ベラ・ラフマ様は、かつて世界を滅ぼしかけたのだ。これほど偉大で、これほど強大なお方に、お前たち人間ごときが、一体何をできるというのだ!」
イフテカールが、なおも言い募る。
まるで、一抹の不安を掻き消すかの、ように。




