17
轟音が、床を削る。
龍神から放たれた深い闇は、しかし地竜王の意思によって方向を変え、巫子たちの周囲で破壊を撒き散らした。
「竜王に護って頂けるっていうのは、頼もしいね」
オーリがしみじみと呟く。
「何だ、改宗すんのか?」
クセロがそれに軽口を叩いた。地竜王は細かい礫を放っておくため、彼はこちらに飛び散ってくるそれを御力で逐一叩き落していた。夜明け前のこの気温で、しかも身体は殆ど動かしていないにも関わらず、既に汗だくだ。
「龍神はかなり力を抑えているように思えるのですが」
平然とそれらを見据えながら、グランが地竜王に問いかけた。
『うむ。以前対峙した時は、このようなものではなかったな。かと言って、それほど力が戻っていない、という訳でもなかろう』
「何の意図があると思われますか?」
更なる問いに、地竜王はちらりと幼い巫子を見下ろした。
『そなたらしくはないな、カリドゥスの子よ。わしに訊くよりも、まず己で考えてみればどうだ』
「僕はイフテカールなら少々見知っておりますが、龍神とは初対面ですのでね。考えつくことなど、埒もないことでしかありません」
片手をひらりと振って、グランが返す。
「一万年前と今とで、龍神が最も変わったことは、使徒としてイフテカールを得たことだから、などと」
『わしが巫子を得たように、か? なるほど、確かに埒もない』
「……イフテカールの居場所は判るかな?」
さり気なく、オーリが尋ねる。いつの間に拾ったのか、彼は先ほど打ち捨てた弓と矢筒を再び手にしていた。調子を調べるように、数度軽く弦を引いている。
「あの闇の中だな。ほぼ中心に近い場所にいるようだ」
グランの言葉に一つ頷いて、無造作に矢を放つ。夜空を飛行するそれは、僅かに緑色の光の尾を引いていた。
盾のように、ぐぅ、と広く延びた赤黒い闇が、矢を消滅させる。だが、同時に闇も大きく穴を空けた。
ゆっくりと塞がっていくそれをじっと見つめる。
「竜王の祝福はやはり効きそうだね」
「消耗戦か? 僕らの方が早く力尽きそうだ。相手はあれでも龍神だぞ」
「その前に私の矢が尽きるよ。さほど多く残ってる訳じゃない」
肩を竦め、言い返す。
そう、これは決定打には程遠い。
彼らは、龍神が一気に潰しにかかってこなかったことで、ある意味気を抜いてしまっていた。
突如、石畳の敷かれた床が、赤黒い、どろりとした何かに変化してしまうまで。
「なん……っ!?」
驚愕の叫びが漏れる。
粘つくそれは体重を支えるには酷く頼りなく、見る間にずぶずぶと彼らの足を沈め、動きを絡めとりつつあった。
『数百年に渡り、我が隠遁の地であったそこを、汝らの墓場としよう。我が像が、勿体なくもその墓標となるであろうな』
龍神の声が轟く。
「吹き散れ!」
オーリの声に下方へ向けて風が吹きつけ、彼の周辺の床が、ぶわりとへこむ。が、全てを散らすことはできず、足元は埋まったままだ。
むしろ、確かな足場など、もうないのではないか……?
「何とかできねぇのか、おやっさん!」
『できんことはないが……。この周辺の湖の形が、また少々変わることになるぞ』
焦るクセロに、悠然と地竜王が返す。
王都カクトスは、岬の上に築かれた街だ。
沿岸線が変わるということは、つまり。
「ああ、くそ!」
ほんの二、三メートル離れたところは、未だ石畳のままだ。クセロは闇雲にそこまで進もうとしてみるが、既に膝近くまで沈んでしまっている身としては、そうそう動けない。
『……待つつもりでいるのじゃな?』
地竜王が小さく問いかける。
この状況に、動じた様子を全く見せないグランは、それには答えなかった。
異変に気づいたのは、半ば呆然としたまま座っていたエスタだった。
アルマの頭から五十センチほど離れた床に、ぼんやりと淡い揺らめきが現れたのだ。大きさは、両手で包みこめそうなほど。
眉を寄せ、それを凝視する。
さほど間を置かずに、それは少年の足元にも出現した。
素早く身を起こす。
「姫巫女……!」
そのまま、ペルルの肩を掴み、アルマから引き剥がした。
「きゃ……!」
「あんた、何を!」
虚を衝かれたペルルとプリムラが、声を上げる。
が、じっと足元を見下ろすエスタに、二人も視線を向けた。
ペルルがつい先刻まで蹲っていた場所に、例の淡い揺らめきが発生している。
「何……ですか、これは……」
嗄れかけた声で、ペルルが呟いた。
「〈魔王〉の、魔力そのものです。貴女も、私が使うところを何度かご覧になっている筈だ」
固い声で、エスタは告げた。
「人の身に触れれば、害がある。まして、竜王の巫女であれば、あれは、竜王の祝福とは相反する存在です。近寄らない方がいい」
「何故、こんな……?」
戸惑うペルルの肩から、そっと手を外した。
「判りません。私が何かした訳ではないので」
彼らの視線の先で、それは更に数を増す。やがてアルマを中心とした円を作り出すと、それから四方八方へと無秩序に広がり始めた。
「放っておいて、平気なの……?」
気遣わしげに、ペルルは呟く。
「アルマなら、死んだのです。これ以上もう傷つくことはない筈だ。……平気ではないのは、残された者たちですよ」
エスタの言葉に、再び少女の瞳に涙がこみあげる。
だが、青年はそれを気にもしなかった。
ただ魔力を以って床に描かれる文様を、どこかで見た気がして。
魔力は描く。
〈魔王〉の裔を中心とした幾つもの同心円を。
幾何学的な、または曲線的な文様を。
幾つも連なるそれらは、異国の文字のようにも見える。
……いや。異界の、だろう。
形が増えるにつれ、面積が広がるにつれ、魔力の輝きは増す。
淡い紫色の光に照らされて、三人は息を飲んでそれを見守っていた。
父がいた。
いつものように、どこか人を食ったような表情で。
祖父がいた。
幼い頃に亡くなったために、よく覚えてはいないが、気難しい表情を崩さなかった。
曽祖父がいた。
この辺りになると、もう、肖像画でしか見知っていない。
次々に、この血に連なる者たちが現れる。
そして常にその傍らにいるのは、火竜王の高位の巫子だ。
……これは、以前も見たことがある。
ぼんやりとそう考えた。
そう、フルトゥナの荒野で、角が伸びた時に見た、記憶だ。
なんとなく、この先に待ち受けるものを察して、身構える。
そして、絶大な存在感と共に現れたのは、彼らの始祖、〈魔王〉アルマナセルの姿だった。
「……人の肉体に?」
グランが、不思議そうな表情で問いかけた。
彼は見慣れた姿だが、しかしその風貌には何故か少々違和感がある。
「ああ」
重々しく、〈魔王〉アルマナセルが頷く。
「しかし義兄上、それは果たして賢明なことでしょうか。貴方のお言葉によれば、未だイフテカールとその主はこの世界を破壊すべく動いているというのに」
グランは、手にしていた分厚い書籍を閉じ、傍らの机の上に置いた。周辺には、似たような書籍や巻物が幾つも置かれている。
ここは、火竜王宮の書庫だ。
懐かしさに、胸が詰まる。
だが、そんなことには頓着せず、〈魔王〉は言葉を継いだ。
「それは、確かに無責任と謗られても仕方はない。だが、わしはレヴァンダと生きていきたいのだ。生きて、子を生し、共に老い、そして共に死にたいのだよ」
「貴方は、まだ、死ということをよくお判りでない。あれは、恐ろしいものだ。この身体も、意識も、全て消えてしまう。全くの無となってしまう。今日と同じ明日が、もう来ないのですよ。永遠に」
僅かに目を伏せ、グランは呟いた。
だが、〈魔王〉アルマナセルは苦笑する。
「そなたは確かに死に近かったかもしれん。だが、まだ若いな。わしは今まで充分に生きた。人生を共に終えたい、と思える相手と出会えたは、むしろ僥倖だ。……そなたも、いつかそんな相手と会えればよいな」
「無茶をおっしゃらないでください」
高位の巫子は、素っ気なく返す。
ふと、グランに、そういう、共に人生を終えたいと思えるような相手はいたのだろうか、という疑問に思い至る。
あの幼い巫子は、外見の印象も大きいながら、その断固とした生き様から、そんなことを想像もできなかったのだが。
「まあいい。話を戻そう。我らの間に子供が生まれれば、その子が使命を継ぐだろう。わしがいつまでもこの国に存在するよりも、その方がいい。そもそも、この世界はそうやって歴史を継いできたのだろう?」
〈魔王〉の言葉に、憮然とした顔でグランは頷いた。
オーリが言うところの、『莫迦』であった〈魔王〉アルマナセルに、どうやら彼は色々と教えこんでいたらしい。
「それに、もしも、我が子が産まれなかったとしたなら。少々手間はかかるが、わしが再び〈魔王〉の、異界の肉体に戻ろう。ならば、そなたも心配する必要はない」
「そんなことが、できるのですか?」
きょとんとして、グランが尋ねる。
「簡単ではないがな。もしも魔術を持って生まれなんだ子がいたとしても、それで何とか〈魔王〉と化すことはできる。だが、かなり力任せの手段だ。子に負担もかかろう。できるなら、その手は取って欲しくはないが」
魔術を持っておれば、さほどでもないが、と〈魔王〉は笑う。
「〈魔王〉アルマナセルを、レヴァンダル大公家を統轄する、火竜王宮の高位の巫子、グラナティスがそれを習得するに相応しかろう。できる限り、外へ漏らすでないぞ」
生真面目な顔で、グランは頷く。
彼に対する、ほんの僅かな違和感が、まるで幼い子供のような仕草をすることに依るのだと、ようやく気がついた。
記憶が遠ざかる。
意識が朦朧とする。
やがて彼は、『力任せ』という言葉の意味を痛感した。これ以上ないほど。
ゆらり、とその身体が立ち上がる。
その場の皆が小さく息を飲んだ。
あの身体は、確かに鼓動を止めていた筈だ。
「……アルマ……?」
恐る恐る、小さく声をかける。
しかし、彼は全く何の反応も見せない。
彼を中心として床に描かれた巨大な文様が、光を強めていく。
「そうか。……布だ」
エスタがようやく思い至って、呟いた。
アルマが、ほんの半年ほど前まで、角を隠すために頭に巻いていた、布。
あの、赤地に染め抜かれた黒い奇妙な模様。幾つもの円や、直線的な、曲線的な、文字を思わせるような、数々の模様。
一枚の布に散りばめられていたそれらを全て組み合わせれば、今、この場に出現した文様となる。
彼らは知らない。
それが、三百年前、まさにこの場所で〈魔王〉アルマナセルを召喚するのに使われた陣と同一であることなど。
彼らが知っているのは、今の状態のアルマを、以前に見たことがある、ということだ。
ペルルとプリムラは、イグニシアの山中で。
エスタは、フルトゥナの荒野で。
いずれも、アルマが〈魔王〉の力に飲みこまれていた時だった。
現在の状況にどうしても警戒感が勝って、エスタは少しばかり身構えている。
身を傾げるような姿勢で、アルマは一歩踏み出した。
反射的に、エスタはペルルとプリムラを庇うように前に出る。
彼らの周囲に巡らせた防御壁の内部が、激しい光に満たされた。
「きゃぁあっ!?」
背後から悲鳴が上がるが、エスタは生身でアルマの雷撃に耐えるのに精一杯だ。
防御のための魔術を龍神からの攻撃に対するべきか、アルマから発する魔力へ向かわせるべきか、切羽詰った選択を迫られている。
が、その悩みはすぐに解決した。防御壁内部を荒れ狂う魔力の威力が勝り、呆気なくそれは崩壊したのだ。
「……っ!」
こめかみの辺りを殴られたような衝撃が襲う。今や、彼にとっても角は急所に近い。眩暈に立っていられなくなりそうなのを、何とか堪えた。
霞みかけた視界の中、黒衣の少年がこちらへ視線を向けて立っている。
「全く……、何をしているんですか、アルマ」
荒い息の下で、エスタは呟いた。
突然背後に生じた気配に、オーリは反射的に振り向いた。
瓦礫の間を抜けて、一人の少年が大股にこちらへ歩いてきている。
「……まさか……」
「旦那!?」
それに気づいて振り返ったクセロが、素っ頓狂な声を上げた。
ぞくり、とオーリの背筋が冷える。
この、圧倒的な気配は。
三百年前に、〈魔王〉が衝動のままに荒れ狂った時と、同じものだ。
「グラン……!」
注意を向けようと、声をかける。
が、幼い巫子は、腰近くまでを拘束されたまま、ただじっと少年を見据えていた。
アルマの数メートル後ろをついてくるペルルが、救いを求めるような視線を向けてくる。
ある程度の距離を保ったところで、少年は足を止めた。
その唇が、嘲るような曲線を描く。
そして右手を軽く持ち上げ、くるり、と掌をひっくり返すような仕草をする。
瞬間、泥沼に陥っていたかのような彼らの足元が、ふいに確かになった。
「うわ……!?」
そのまま、一メートル近くは沈んでいた身体が、足場と共にぐんぐんと上昇する。
龍神の施した、流動性の何かはそれに連れて押し上げられ、周辺へと溢れ出す。が、すぐに乾き始め、土塊のようになって辺りに転がった。
ほんの十数秒で、高位の巫子たちはすっかり元に戻った礼拝堂に立っていた。
「全く、俺がちょっといない間に、お前らは何もできてなかったのかよ?」
にやりと笑んで、アルマは仲間たちに告げた。




