16
ばらばらと、頭上から小さな石の破片が落下する音が聞こえる。
咄嗟に背後にいる仲間たちを護る防御壁を構築し、その衝撃と熱風に耐えたアルマが、恐々と目を開けた。
グランの作り出した炎の塊よりも上、礼拝堂の天井に、直径十メートルは越える穴が開いている。
まだ夜明け前の闇が、黒々とした存在を主張していた。
その天井を作り上げていた石材は、殆どが消えてしまっていた。礼拝堂の中に、または外に落下した様子はない。
「……クセロ?」
誰かが、小さく名前を呼んだ。つい数十秒前まで、あの大穴の中心にいた男の姿は、どこにも見えない。
「くそ……!」
罵声を上げて、走り出そうとした肩を、背後から掴まれる。
「私が行く。あそこまで辿り着けるとしたら、私だけだ」
真っ直ぐに、暗い闇を湛えた空を見上げ、オーリが告げた。
「危険だ、オーリ」
しかし背後から止められて、苛立たしげに視線を向ける。
「グラン、君はいつまで……!」
『心配は要らぬ、巫子どもよ』
聞き慣れた声が響き、目の前に異形の竜王が顕現した。
二メートル程度の高さとなったその背には、力なく四肢を投げ出した男が乗っている。
「クセロ!」
『死んではおらぬ。が、意識がない』
意識がなくては、竜王の御力は発揮できない。彼が自らの傷を癒せずにいるということだ。
アルマとオーリが、慌てて金髪の男の身体を引き下ろした。できる限りそっと、床に寝かせる。
「大丈夫か?」
難しい顔をしているオーリに、小さく尋ねる。
すぐに、傍らにグランとペルル、プリムラが集まってきた。プリムラは今にも泣き出しそうだ。
クセロの身体は、血に染まっている。が、地竜王から下ろした時も、今も、新たに出血した様子はない。返り血なのだろう。……願わくば。
「ペルル?」
問いかけるように視線を向けたオーリに、考えこむようにペルルが答える。
「外傷は、大したことはありませんね。ですが、意識が……」
「沈んでしまっている?」
「はい」
深刻そうな会話に、焦れる。
「何があったんだよ」
「後で話すよ。ペルル、引き上げられそうか?」
だが、オーリはあっさりとアルマを疎外した。
「僕がやろう。おそらく、この中で一番こいつに近い」
グランが静かに告げる。そして、その小さな手をクセロの額に乗せた。手袋に赤黒い血が染みる。
『気を逸らすな。奴はそこにいるぞ』
彼らに背を向けた地竜王が、低く忠告した。
「……奴?」
『判らぬか。まだ存在が薄いからの。だが、何故、つい先刻あんな爆発が起きたと思っておる』
爆発。聞き慣れない言葉だが、何故かぞくり、と背筋がざわめく。
なにやら、恐ろしいような。
どこか、心が沸き立つような。
その気持ちを押しやって、アルマは地竜王に並んだ。剣を抜き、竜王が見据えている、天井の穴へ目を凝らす。
最初は、錯覚かと思った。
穴の向こう側に蟠る、夜の闇よりも深い闇が蠢いている、などと。
だがそれは、時折礼拝堂の内部にまで侵食してきていた。
グランの、火竜王の御力である炎の塊でさえ、消せない闇が。ゆらゆらと、じわじわと、自らの力を探るように、慎重に。
「あれは……?」
ぐっ、と剣を握る手に力を籠めて、小声で尋ねる。
『あれが、龍神よ』
こともなげに、地竜王が告げる。
その言葉を、理解できたかどうか、という瞬間に。
アルマの身体は、いとも軽く、弾き飛ばされた。
どん、という、鈍い音と共に、背後の床に叩きつけられる。
その場の全員が、言葉を失った。
うっすらと、クセロの瞼が開く。
奇妙に捻れた世界の中、アルマの、既に光を失った瞳が視界に入る。
「……旦那……?」
訝しげな声が、小さく響いた。
身体が、ふわふわする。
視界が暗くて、はっきりしない。
どろりと溶けて、自己が消えてしまいそうな恐怖に、彼は周囲を手探りした。
ごつごつと固い、冷たいものを掴む。
遥か昔、手にした何かに似た。
『気づいたか。吾子よ』
気高く、雄雄しく、耳にするだけで力が湧いてきそうな、その声。
そうだ。この手が掴んだものは、主の鉤爪だ。
ずっと、彼を護る指輪に納められていたものと、同じ。
「……我が、きみ」
細い声が、漏れる。
『そなたには苦労をかけた。少し休んでおれ。儂が、我らを阻むものを、我らを裏切るものを、今消し去ってくれるゆえ』
視界が滲んで、更に見えなくなる。
幾度か瞬いて涙を散らそうとしても、次々と零れるそれに視界は覆われ続ける。
だが、この、確かな感触は、そしてこの、周囲の空気を震わせる声は。
彼の主君、龍神ベラ・ラフマが、確固として現世に顕現したことを示していた。
「アルマ!」
恐怖のあまり、ペルルが叫ぶ。
だが、〈魔王〉の裔は、その声にぴくりとも反応しなかった。
つんのめるように、アルマの傍へと駆け寄る。
「アルマ! しっかりして、アルマ!」
呼びかけ、身体を揺さぶっても、少年はされるがままだ。
オーリは、呆然としてその様子を眺めている。
「くそ……! 早すぎる!」
グランが小さく毒づいた。
「とっとと起きろ、クセロ!」
苛立ち紛れに、怒鳴りつける。びくり、と身体を震わせて、クセロはしっかりと覚醒した。
「何があったんだ? 旦那は……」
「死んだ」
短く言って、立ち上がる。その視線を、油断なく上空の闇へと向けた。
「死んだ……って、大将!」
男は慌てて上体を起こし、グランとアルマとに視線を往復させる。
「何を動揺している。手駒が一人死んだ程度で、心が折れることが許されるような状況じゃない」
ちらり、とペルルへ視線を向ける。
水竜王の高位の巫女は、アルマに取り縋るように身を伏せていた。
彼女が龍神に対して戦えないことは、明らかだ。
「クセロ……」
「アルマ!」
声を遮るように叫び、礼拝堂の床を駆けてくるのは、エスタだ。
「……どいつもこいつも」
小さく溜め息をついて、グランはそれを待ち受けた。
弛緩した肉体が横たわる様を見つめ、エスタは足を止めた。ぎり、と奥歯を軋ませ、きつく拳を握る。
「イフテカール!」
罵声を上げ、方向を変えて走り出そうとする。
「止まれ!」
だが、グランの言葉に、ぴたりと足が止まる。
「な……?」
驚愕に、エスタは背後を振り返った。
「何とか効いたか。貴様のような紛い者が龍神に盾ついて、生きていられる訳がないだろう。少しは考えろ」
「……グラナティス……!」
再び、幼い巫子に対する憎悪が燃え上がりかけて、エスタは呪縛から逃れようと身を捩った。
「そんな気力があるなら、あの三人を護っておけ」
が、あっさりとそう続け、グランは身を翻した。未だ龍神に対峙する地竜王の傍へと足を向ける。
「……三人?」
「ペルルとプリムラとアルマだ。言われずともそれぐらい判るだろう」
軽い足音が、それに続く。
「悪ぃ、大将。どうすればいい?」
クセロが、血まみれの顔を適当に拭いながらグランの後に従っていた。彼は、もう気持ちを切り替えている。
「決まっている。あれを、滅するぞ」
小さな瞳が、頭上に蟠る闇を見据えた。
「全く、君はどこまでタフなんだ」
呆れた声を上げながら、ふらりとオーリが隣に立った。
「三百年も生きていれば、慣れもする。お前の生命は、竜王の恩寵でできているが、僕の生命は龍神の呪いからできているんだからな」
その言葉に、風竜王の高位の巫子は眉を寄せる。
「アルマの悪い癖は、君譲りか」
「人聞きが悪いぞ」
グランが、目を眇める。彼はアルマほど視力がよい訳ではない。
「地竜王。龍神は、一万年前に比べ、どの程度力を回復させているのですか」
小声で問いかける。隣に立つ竜王は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
『初めてまみえた時の、半分以下じゃな。それにしたところで、この街の一つや二つ、軽く消し飛ばせるぞ』
「……なるほど」
殆ど無理矢理に笑みを浮かべて、グランは呟いた。
『じゃが、奴とやりあうには、ここは少々せせこましいの。カリドゥスの子よ、この建物は壊しても構わぬものか?』
礼儀正しく、地竜王が尋ねてきた。
「構いませぬよ、地竜王。ここは、三百年以上奴らに穢されてきた場所です。ただ、中にいる者たちが傷つかぬようにだけしてくださいますか」
鷹揚に、火竜王の巫子は快諾した。
彼らの背後にはペルルたちが、そして少し離れた場所にはレヴァンダル大公がいる。
『応よ』
異形の竜王が答えた瞬間、僅かな圧迫感が彼らをよぎる。
みしみしと建物が軋む音が響き、礼拝堂を構成する壁が、屋根が、窓が、ゆっくりと外側へと倒れていった。
それは礼拝堂の最奥に祀られていた、黒瑪瑙で作られた巨大な龍神の像も例外ではない。
地響きを感じながら、グランは、ちらりとイフテカールが激怒するかもしれない、と考えた。
だが、そうはならなかった。
彼は既に真の龍神を蘇らせたのだ。あのような仮の姿など、もう気にもとめないのだろう。
夜明け前の闇は、まだ尚暗い。
彼らの頭上で、炎の塊に照らされた赤黒い闇が不定形に蠢いている。
それは、とてつもなく、大きい。
ごくり、と隣でクセロの喉が鳴った。
ほんの数秒、沈黙が満ちて、そして。
その闇の一部が、鞭のように延び、彼らに襲い掛かった。
「我が竜王の名とその誇りにかけて!」
彼らも油断はしていない。即座に、オーリが請願を口にする。次の瞬間巻き起こった突風が、まるで煙でも散らすように、闇を打ち払った。
しかし何事もなかったかのように、龍神が再びぐるりと闇を纏う。
周辺の建物から、恐怖のどよめきが起きた。
もう夜明けが近い。早起きの使用人たちは、先ほどから続く轟音に、こちらを伺っていたのだろう。
「……彼らは放っておいて大丈夫なのか?」
オーリが気遣わしげに尋ねる。
「危険だと判断したら、自分で逃げるだろう。城下の方は、とっくに巫子たちが動いている」
あっさりとグランは応じた。
彼の、王宮に関わる人間に対する素っ気なさは未だ健在だ。
『ふむ。厄介じゃの』
地竜王が小さく零す。
「何だ?」
そわそわと頭上の龍神を見上げながら、クセロが訊いた。
『奴め、力の弱い部分を霧のようにして周囲に張り巡らせておる。あえてその辺りは捨てる心算で、肝心な部分だけを護るつもりじゃな。実体化がまだ確実ではない故、我らの攻撃を受け流し、被害を最小限にしようというのだろう。姑息な手を覚えたものじゃ』
「ああ、それは姑息な部下を持ったせいですね」
さらりとグランは暴言を吐く。
「……君は本当に彼が嫌いだよね……」
自分のことを棚に上げ、オーリが呟く。
『小賢しい。貴様ら、下等なものどもが、我が意に未だ反抗するなど。身の程を知るがいい、下衆が』
上空から、重々しい声が降り注ぐ。
びくり、とクセロが身を震わせた。
この男は身を護る術に長けている。それだけに、脅威というものに敏感だ。
『ふん。異界より招かれもせずにやって来た余所者が、懲りもせずにまあ偉そうな口を叩くものだ。また身動きひとつ取れぬようにしてくれようかの』
侮蔑に満ちた返答を地竜王が返す。
龍神の意識を、自分へと惹きつけるように。
「……おやっさん」
傍らに立つ自らの竜王を見上げ、クセロは小さく呟いた。
『臆すでない、我らが子らよ。ぬしらには、竜王と民とがついておるのだ』
ぶる、と金髪の巫子は身を震わせる。
「誰も臆しちゃいねぇよ。こんなことでビビってたんじゃ、旦那に合わせる顔がねぇ」
だん、と片足を一歩前に踏み出す。土埃が、その足元を霞ませた。
踵を返し、横たわるアルマの元へと向かう。龍神と契約する以前と同様に、あの火竜王の高位の巫子の意のままであれば動く身体が、腹立たしい。
アルマの胸に取り縋るペルルは、もう泣き叫んではいなかった。ただ、静かに身体を震わせている。
その隣に座り、片手を姫巫子の背に置いている幼い少女は、こちらを警戒するように見つめていた。
彼女に対して小さく頷いて、そして口を開く。
「壁を」
瞬間、僅かに耳の奥に圧迫感が生じる。彼らを囲むように、透明な防御壁を張ったのだ。
エスタは少年の傍らに膝をつく。捩れた四肢を、一つ一つ丁寧に真っ直ぐに戻した。ペルルがいる、左腕は無理だったが。
アルマは、驚愕したような表情で凍りついていた。目をひっかかないように気をつけながら、その瞼を閉じさせる。
じわり、と冷たさが指先に沁みた。
こんな形で、終わってしまうなんて。
「……旦那様にどうお話しすればいいのですか……」
小さく呟く。
ほんの数十分前、胸に芽生えた希望は、更なる苦悩に押し潰されつつあった。
僅か数十メートル離れた場所で繰り広げられているであろう戦いは、しかし、この小さな防御壁の中の世界には全く関係ないことだった。




