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いつか、竜の舞う丘で。  作者: 水浅葱ゆきねこ
贄の章

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190/252

16

 ばらばらと、頭上から小さな石の破片が落下する音が聞こえる。

 咄嗟に背後にいる仲間たちを護る防御壁を構築し、その衝撃と熱風に耐えたアルマが、恐々と目を開けた。

 グランの作り出した炎の塊よりも上、礼拝堂の天井に、直径十メートルは越える穴が開いている。

 まだ夜明け前の闇が、黒々とした存在を主張していた。

 その天井を作り上げていた石材は、殆どが消えてしまっていた。礼拝堂の中に、または外に落下した様子はない。

「……クセロ?」

 誰かが、小さく名前を呼んだ。つい数十秒前まで、あの大穴の中心にいた男の姿は、どこにも見えない。

「くそ……!」

 罵声を上げて、走り出そうとした肩を、背後から掴まれる。

「私が行く。あそこまで辿り着けるとしたら、私だけだ」

 真っ直ぐに、暗い闇を湛えた空を見上げ、オーリが告げた。

「危険だ、オーリ」

 しかし背後から止められて、苛立たしげに視線を向ける。

「グラン、君はいつまで……!」

『心配は要らぬ、巫子どもよ』

 聞き慣れた声が響き、目の前に異形の竜王が顕現した。

 二メートル程度の高さとなったその背には、力なく四肢を投げ出した男が乗っている。

「クセロ!」

『死んではおらぬ。が、意識がない』

 意識がなくては、竜王の御力は発揮できない。彼が自らの傷を癒せずにいるということだ。

 アルマとオーリが、慌てて金髪の男の身体を引き下ろした。できる限りそっと、床に寝かせる。

「大丈夫か?」

 難しい顔をしているオーリに、小さく尋ねる。

 すぐに、傍らにグランとペルル、プリムラが集まってきた。プリムラは今にも泣き出しそうだ。

 クセロの身体は、血に染まっている。が、地竜王から下ろした時も、今も、新たに出血した様子はない。返り血なのだろう。……願わくば。

「ペルル?」

 問いかけるように視線を向けたオーリに、考えこむようにペルルが答える。

「外傷は、大したことはありませんね。ですが、意識が……」

「沈んでしまっている?」

「はい」

 深刻そうな会話に、焦れる。

「何があったんだよ」

「後で話すよ。ペルル、引き上げられそうか?」

 だが、オーリはあっさりとアルマを疎外した。

「僕がやろう。おそらく、この中で一番こいつに近い」

 グランが静かに告げる。そして、その小さな手をクセロの額に乗せた。手袋に赤黒い血が染みる。

『気を逸らすな。奴はそこにいるぞ』

 彼らに背を向けた地竜王が、低く忠告した。

「……奴?」

『判らぬか。まだ存在が薄いからの。だが、何故、つい先刻(さっき)あんな爆発が起きたと思っておる』

 爆発。聞き慣れない言葉だが、何故かぞくり、と背筋がざわめく。

 なにやら、恐ろしいような。

 どこか、心が沸き立つような。

 その気持ちを押しやって、アルマは地竜王に並んだ。剣を抜き、竜王が見据えている、天井の穴へ目を凝らす。

 最初は、錯覚かと思った。

 穴の向こう側に(わだかま)る、夜の闇よりも深い闇が蠢いている、などと。


 だがそれは、時折礼拝堂の内部にまで侵食してきていた。

 グランの、火竜王の御力である炎の塊でさえ、消せない闇が。ゆらゆらと、じわじわと、自らの力を探るように、慎重に。

「あれは……?」

 ぐっ、と剣を握る手に力を籠めて、小声で尋ねる。

『あれが、龍神よ』

 こともなげに、地竜王が告げる。


 その言葉を、理解できたかどうか、という瞬間に。

 アルマの身体は、いとも軽く、弾き飛ばされた。


 どん、という、鈍い音と共に、背後の床に叩きつけられる。

 その場の全員が、言葉を失った。

 うっすらと、クセロの瞼が開く。

 奇妙に捻れた世界の中、アルマの、既に光を失った瞳が視界に入る。

「……旦那……?」

 訝しげな声が、小さく響いた。




 身体が、ふわふわする。

 視界が暗くて、はっきりしない。

 どろりと溶けて、自己が消えてしまいそうな恐怖に、彼は周囲を手探りした。

 ごつごつと固い、冷たいものを掴む。

 遥か昔、手にした何かに似た。

『気づいたか。吾子(あがこ)よ』

 気高く、雄雄しく、耳にするだけで力が湧いてきそうな、その声。

 そうだ。この手が掴んだものは、主の鉤爪だ。

 ずっと、彼を護る指輪に納められていたものと、同じ。

「……我が、きみ」

 細い声が、漏れる。

『そなたには苦労をかけた。少し休んでおれ。儂が、我らを阻むものを、我らを裏切るものを、今消し去ってくれるゆえ』

 視界が滲んで、更に見えなくなる。

 幾度か瞬いて涙を散らそうとしても、次々と零れるそれに視界は覆われ続ける。

 だが、この、確かな感触は、そしてこの、周囲の空気を震わせる声は。

 彼の主君、龍神ベラ・ラフマが、確固として現世に顕現したことを示していた。




「アルマ!」

 恐怖のあまり、ペルルが叫ぶ。

 だが、〈魔王〉の(すえ)は、その声にぴくりとも反応しなかった。

 つんのめるように、アルマの傍へと駆け寄る。

「アルマ! しっかりして、アルマ!」

 呼びかけ、身体を揺さぶっても、少年はされるがままだ。

 オーリは、呆然としてその様子を眺めている。

「くそ……! 早すぎる!」

 グランが小さく毒づいた。

「とっとと起きろ、クセロ!」

 苛立ち紛れに、怒鳴りつける。びくり、と身体を震わせて、クセロはしっかりと覚醒した。

「何があったんだ? 旦那は……」

「死んだ」

 短く言って、立ち上がる。その視線を、油断なく上空の闇へと向けた。

「死んだ……って、大将!」

 男は慌てて上体を起こし、グランとアルマとに視線を往復させる。

「何を動揺している。手駒が一人死んだ程度で、心が折れることが許されるような状況じゃない」

 ちらり、とペルルへ視線を向ける。

 水竜王の高位の巫女は、アルマに取り縋るように身を伏せていた。

 彼女が龍神に対して戦えないことは、明らかだ。

「クセロ……」

「アルマ!」

 声を遮るように叫び、礼拝堂の床を駆けてくるのは、エスタだ。

「……どいつもこいつも」

 小さく溜め息をついて、グランはそれを待ち受けた。

 弛緩した肉体が横たわる様を見つめ、エスタは足を止めた。ぎり、と奥歯を軋ませ、きつく拳を握る。

「イフテカール!」

 罵声を上げ、方向を変えて走り出そうとする。

「止まれ!」

 だが、グランの言葉に、ぴたりと足が止まる。

「な……?」

 驚愕に、エスタは背後を振り返った。

「何とか効いたか。貴様のような紛い者が龍神に盾ついて、生きていられる訳がないだろう。少しは考えろ」

「……グラナティス……!」

 再び、幼い巫子に対する憎悪が燃え上がりかけて、エスタは呪縛から逃れようと身を捩った。

「そんな気力があるなら、あの三人を護っておけ」

 が、あっさりとそう続け、グランは身を翻した。未だ龍神に対峙する地竜王の傍へと足を向ける。

「……三人?」

「ペルルとプリムラとアルマだ。言われずともそれぐらい判るだろう」

 軽い足音が、それに続く。

「悪ぃ、大将。どうすればいい?」

 クセロが、血まみれの顔を適当に拭いながらグランの後に従っていた。彼は、もう気持ちを切り替えている。

「決まっている。あれを、滅するぞ」

 小さな瞳が、頭上に蟠る闇を見据えた。

「全く、君はどこまでタフなんだ」

 呆れた声を上げながら、ふらりとオーリが隣に立った。

「三百年も生きていれば、慣れもする。お前の生命(いのち)は、竜王の恩寵でできているが、僕の生命(いのち)は龍神の呪いからできているんだからな」

 その言葉に、風竜王の高位の巫子は眉を寄せる。

「アルマの悪い癖は、君譲りか」

「人聞きが悪いぞ」



 グランが、目を眇める。彼はアルマほど視力がよい訳ではない。

「地竜王。龍神は、一万年前に比べ、どの程度力を回復させているのですか」

 小声で問いかける。隣に立つ竜王は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

『初めてまみえた時の、半分以下じゃな。それにしたところで、この街の一つや二つ、軽く消し飛ばせるぞ』

「……なるほど」

 殆ど無理矢理に笑みを浮かべて、グランは呟いた。

『じゃが、奴とやりあうには、ここは少々せせこましいの。カリドゥスの子よ、この建物は壊しても構わぬものか?』

 礼儀正しく、地竜王が尋ねてきた。

「構いませぬよ、地竜王。ここは、三百年以上奴らに(けが)されてきた場所です。ただ、中にいる者たちが傷つかぬようにだけしてくださいますか」

 鷹揚に、火竜王の巫子は快諾した。

 彼らの背後にはペルルたちが、そして少し離れた場所にはレヴァンダル大公がいる。

『応よ』

 異形の竜王が答えた瞬間、僅かな圧迫感が彼らをよぎる。

 みしみしと建物が軋む音が響き、礼拝堂を構成する壁が、屋根が、窓が、ゆっくりと外側へと倒れていった。

 それは礼拝堂の最奥に祀られていた、黒瑪瑙で作られた巨大な龍神の像も例外ではない。

 地響きを感じながら、グランは、ちらりとイフテカールが激怒するかもしれない、と考えた。

 だが、そうはならなかった。

 彼は既に真の龍神を蘇らせたのだ。あのような仮の姿など、もう気にもとめないのだろう。

 夜明け前の闇は、まだ尚暗い。

 彼らの頭上で、炎の塊に照らされた赤黒い闇が不定形に蠢いている。

 それは、とてつもなく、大きい。

 ごくり、と隣でクセロの喉が鳴った。

 ほんの数秒、沈黙が満ちて、そして。

 その闇の一部が、鞭のように延び、彼らに襲い掛かった。


「我が竜王の名とその誇りにかけて!」

 彼らも油断はしていない。即座に、オーリが請願を口にする。次の瞬間巻き起こった突風が、まるで煙でも散らすように、闇を打ち払った。

 しかし何事もなかったかのように、龍神が再びぐるりと闇を纏う。

 周辺の建物から、恐怖のどよめきが起きた。

 もう夜明けが近い。早起きの使用人たちは、先ほどから続く轟音に、こちらを伺っていたのだろう。

「……彼らは放っておいて大丈夫なのか?」

 オーリが気遣わしげに尋ねる。

「危険だと判断したら、自分で逃げるだろう。城下の方は、とっくに巫子たちが動いている」

 あっさりとグランは応じた。

 彼の、王宮に関わる人間に対する素っ気なさは未だ健在だ。

『ふむ。厄介じゃの』

 地竜王が小さく零す。

「何だ?」

 そわそわと頭上の龍神を見上げながら、クセロが訊いた。

『奴め、力の弱い部分を霧のようにして周囲に張り巡らせておる。あえてその辺りは捨てる心算で、肝心な部分だけを護るつもりじゃな。実体化がまだ確実ではない故、我らの攻撃を受け流し、被害を最小限にしようというのだろう。姑息な手を覚えたものじゃ』

「ああ、それは姑息な部下を持ったせいですね」

 さらりとグランは暴言を吐く。

「……君は本当に彼が嫌いだよね……」

 自分のことを棚に上げ、オーリが呟く。

『小賢しい。貴様ら、下等なものどもが、我が意に未だ反抗するなど。身の程を知るがいい、下衆が』

 上空から、重々しい声が降り注ぐ。

 びくり、とクセロが身を震わせた。

 この男は身を護る術に長けている。それだけに、脅威というものに敏感だ。

『ふん。異界より招かれもせずにやって来た余所者が、懲りもせずにまあ偉そうな口を叩くものだ。また身動きひとつ取れぬようにしてくれようかの』

 侮蔑に満ちた返答を地竜王が返す。

 龍神の意識を、自分へと惹きつけるように。

「……おやっさん」

 傍らに立つ自らの竜王を見上げ、クセロは小さく呟いた。

『臆すでない、我らが子らよ。ぬしらには、竜王と民とがついておるのだ』

 ぶる、と金髪の巫子は身を震わせる。

「誰も臆しちゃいねぇよ。こんなことでビビってたんじゃ、旦那に合わせる顔がねぇ」

 だん、と片足を一歩前に踏み出す。土埃が、その足元を霞ませた。



 踵を返し、横たわるアルマの元へと向かう。龍神と契約する以前と同様に、あの火竜王の高位の巫子の意のままであれば動く身体が、腹立たしい。

 アルマの胸に取り縋るペルルは、もう泣き叫んではいなかった。ただ、静かに身体を震わせている。

 その隣に座り、片手を姫巫子の背に置いている幼い少女は、こちらを警戒するように見つめていた。

 彼女に対して小さく頷いて、そして口を開く。

「壁を」

 瞬間、僅かに耳の奥に圧迫感が生じる。彼らを囲むように、透明な防御壁を張ったのだ。

 エスタは少年の傍らに膝をつく。捩れた四肢を、一つ一つ丁寧に真っ直ぐに戻した。ペルルがいる、左腕は無理だったが。

 アルマは、驚愕したような表情で凍りついていた。目をひっかかないように気をつけながら、その瞼を閉じさせる。

 じわり、と冷たさが指先に沁みた。

 こんな形で、終わってしまうなんて。

「……旦那様にどうお話しすればいいのですか……」

 小さく呟く。

 ほんの数十分前、胸に芽生えた希望は、更なる苦悩に押し潰されつつあった。

 僅か数十メートル離れた場所で繰り広げられているであろう戦いは、しかし、この小さな防御壁の中の世界には全く関係ないことだった。



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