14
イフテカールは、今度は龍神の祭壇の間に直接転移した。
隠し扉から、主の身体をそっと取り出す。
「お待たせ致しました、我がきみ」
この時ばかりは、青年の口調も優しげだ。
これから行うことに、温和さなどは欠片もないのに。
龍神をそっと祭壇の上に置く。低めのそれは、イフテカールが跪いて作業をしやすいように作らせたものだ。そして、主の目の前に、半透明の立方体を置いた。
「生きた心臓であれば、もっとよかったのですが」
残念そうに、イフテカールが呟く。
『そればかりはどうしようもあるまい。むしろ、風竜王とその巫子が死に絶えた、という方が喜ばしい』
ベラ・ラフマが告げる。
高位の巫子の生き血は、うまくいけばこの先も定期的に手に入るだろう。そちらで、龍神の封印を解いていけばいい。
頷いて、使徒は心臓の器を手に取った。無造作に捻ると、ぱきん、と乾いた音が響くと共に、その立方体が中心で割れる。
左右に開くと、内部の心臓はそのまま取り出すことができた。
それを握りこんだ左手を龍神の頭上へと動かし、右手で心臓の表面をすっとなぞる。
瞬間、二つに割れた心臓が、そこに閉じこめられていた夥しい血液をぶち撒けた。
『……これは』
龍神が、訝しげな声を上げる。
上手くいけば、鎖の一本も切れるか、と思っていたのに、ひびすら入らないことにイフテカールも動揺していた。
『これは、ただの巫子の血だな。イフテカールよ』
その言葉と、その呼び名に、ぞくりと背筋が冷える。
龍神の意思には、普段ならばある、僅かな柔らかさが全く感じられなかった。
「そんな……! 私は、確かに高位の巫子の心臓を、とアルマに」
狼狽して口走るが、そこでぴたりと言葉を止める。
「アルマナセル……」
『どちらにせよ、確認せなんだはそなたの失態。疾く、奴を呼び出すがいい』
冷たい石の床に跪いたまま、深く頭を下げる。
脂汗と動悸は、治まる気配はなかった。
しかも、アルマはしばらくの間こちらの呼びかけに応じなかった。
「何の用だ」
のそり、と礼拝堂に姿を見せて、〈魔王〉は短く尋ねる。
「どこへ行っていた? いや、それはいい。お前が獲ってきた心臓。あれは、高位の巫子のものじゃなかったぞ!」
半ば激昂して、イフテカールが問い詰めた。
「何を言っている?」
訝しげに、アルマが返す。
「だから、違う人間の心臓を送って寄越したんだ。あれは、殆ど役に立たなかった!」
大きく手を振って、祭壇を示す。龍神の像にかけられた血液はもう殆どがその身に吸収され、消えてしまっている。が、周囲に溢れた分はそうもいかないために、祭壇の上は未だ血みどろだ。
「だがしかし、わしが殺したのは、高位の巫子、と名乗ったものだったぞ」
「本物なら、額に宝石があった筈だ。それは?」
「つけていた」
イフテカールは罵声を上げて、床を蹴りつけた。
酷く巧妙に、影武者を立てられていたのだろう。絶対的に民を護る立場である竜王とその高位の巫子が、そのような死の危険性がある役割を他者に強制するなどとは考えつかなかったのだ。
その辺りの認識はなかなか捨てがたいのか、彼は後年、ある青年に、巫子に対して幻想を持ちすぎだ、と諭されることになる。
ともあれ、失態には変わりがない。イフテカールは必死に思考を巡らせた。
「高位の巫子を殺せなかったならば、契約は条件が満たされない。ならば、お前の責任において、改めて奴の息の根を止めて来い、アルマ」
「高位の巫子の心臓を持ってくる、のが契約ではない。フルトゥナを滅ぼし、竜王と高位の巫子を殺すことが契約だ。それは、もう、お前の寄越した呪いが発動して果たされているだろう。もしそうでなくても、わしをあそこから連れ出したのはお前だ、イフテカール」
冷静に、〈魔王〉は反論した。彼ら、地獄から来たりしものたちは、契約を遵守する。龍神がそれに異を唱えない以上、その理論は正しいのだろう。
だがそれは、全ての責はイフテカールにある、ということだ。小さく悪態を漏らす。
『まあよい。悪辣なる竜王とその巫子が上手であっただけのこと。さほど実害がある訳でもなし、それで済ませておこう。だが、イフテカール。二度はないぞ』
「……は」
寛容な龍神の言葉に、床に跪き、項垂れる。
二度はない。
それは、言われるまでもなく、イフテカールが心に刻みこんだ誓約だった。
その後、幾度となくイフテカールはフルトゥナへの侵入を試みている。
だが、その地を覆い尽くした呪いは酷く変質しており、イフテカールですら受け入れようとしない。
結局、彼が風竜王とその高位の巫子の存在を明確に認識するのは、三百年は後のこととなった。
フルトゥナ戦役にて、一応の勝利を得てから三ヶ月ほど後。
〈魔王〉アルマナセルと、イグニシア王女レヴァンダの婚姻が結ばれた。
フルトゥナとの戦いにおける、イーレクス王子に次ぐ英雄が婿ということもあり、祝祭は盛大に開かれた。
連日連夜の宴が続き、そろそろどこかへ逃げ出そうかと思い始めたある日、イフテカールは彼の訪問を受けた。
「アルマ?」
ここ二ヶ月ほど、婚礼の準備で忙しいと殆ど顔を合わせていなかった〈魔王〉が、無表情で立っている。
「どうしたんです、イグニシアの現時点での最重要人物が、こんなところにくるなんて」
「嫌味か?」
「違いますよ。すみません、ちょっと頭が働かなくて」
軽く首を振りながら、とりあえず来客を居間へ通す。不吉な軋みを発しながら、アルマは椅子に腰掛けた。
「その、な。わしとレヴァンダは、こうして結婚できた訳だ。この件に関しては、そなたたちのおかげであると思っている。恩に着る」
いきなり改まって頭を下げられて、更に面食らう。
「ええと……。悪酔いでもしているのですか?」
「いや」
だが、顔を上げたアルマは、断固とした表情を向けてきた。
「この婚姻によって、そなたたちとの間の契約は果たされ、その報酬を手に入れたという形になる」
「そうですね」
「よって、わしは今後、グランと契約を結ぶことになった」
「……え?」
言葉が上手く理解できなくて、小さく声を漏らす。
「この世界で上手くやっていくには、表立った後ろ盾が必要だろう、ということだ。レヴァンダは王家の一員だが、婚姻によって降嫁し、レヴァンダル大公夫人となる。影響力は減少するだろうし、わしの存在はどうしても他の者たちに不安を与えるようだ。火竜王宮が責任を持ってわしを扱う、という状態にすれば、人々も安心するだろうと」
できる限りの速度で、思考を巡らせる。
確かに、イフテカールは公的にはあまり影響力はない立場だ。もしもアルマが排斥されそうになった場合、表立って動ける訳でもない。
火竜王宮は、その点、権威が確立されている。それがついているのならば、大公家に対して無闇な言動をする者は、その前にまず我が身を顧みるだろう。
この時点で、イフテカールと火竜王宮はさほど悪い関係でもない。勿論、竜王には恨みを持っているが、しかし先代からずっと懐柔もしてきている。まして、今はグランが高位の巫子だ。
問題はないだろう、とイフテカールは判断した。
侮っていた、のだ。彼らを。
「そうですね。その方がよいかもしれません。詳しいことが判れば、教えて頂けますか?」
「勿論だ」
頷いて、アルマは立ち上がった。
「もう行くのですか?」
「予定を無理やり空けて、ここへ来たのだ。あと何日、こんなことが続くんだ?」
婚姻を迎えて、勿論嬉しくはあるのだろうが、しかし流石にうんざりした表情で、アルマはぼやいた。
「しばらくの我慢ですよ、アルマ。幸福をお祈りしています」
「ありがとう。イフテカール」
小さく微笑んで、二人は手を握りあった。
その後の数年は、多忙だった。
勝利したとは言え、イグニシアの損害は甚大だったのだ。
西部の前線では、呪いに巻きこまれての死者は殆どいない。国境近くでの戦闘ばかりであり、そこまで呪いが迫る前に離脱できたからだ。
とは言え、逃げ出してきたフルトゥナの民との秩序も何もない戦いで、少なからず犠牲者は出ている。
国境地帯では、未だ、難民と化した者たちと地元の民との軋轢が続いていた。
それはカタラクタの国境地帯でも同様で、二つの国家は、フルトゥナの民を国内に定住させないことを決め、その対処を断固として行っている。
そして、アーラ宮へ侵攻していた軍は、半分ほどしか生還できていなかった。
風竜王の高位の巫子の警告に、すぐに応じた隊は、湖まで馬で三日の距離を走り通し、かつ何とか船を見つけ、沖へ出られた者のみが生存できたのだ。
上官の命令が出ず、それに反抗もできずに戦場で待機していた兵士たちは、呪いから逃げ切れなかったものと思われる。
結果、王国内の働き手の人口は激減した。
飢饉に近い状況が何年も続き、イグニシア王国の国力も低迷する。
この期間にカタラクタから攻めこまれなかったのは、イフテカールが抑えていたから、ということもある。
しかし、それ以上に、〈魔王〉アルマナセルの存在が大きかったのだ。
世界に散乱したフルトゥナの民は、やがて流浪の民、ロマとなり、歌や踊りを贖って生きていくようになっていた。
彼らの口から、フルトゥナ侵攻における〈魔王〉の凄まじさが、徐々に広まっていっていた。
一方、風竜王の高位の巫子を手に入れられなかったイフテカールは、当然水竜王の高位の巫女へ次の狙いを定めつつあった。
しかし、国民を、そして多くの貴族たちをこの戦役で失った王家は、ややイフテカールに対して冷淡だ。
ほとぼりが冷めるまで、数世代は待つべきかもしれない。
それらの要因が相まって、この頃、彼の行動はかなり抑制されていた。
フルトゥナ侵攻より、三年後。アルマとレヴァンダの間に、一人の男子が誕生した。
少しばかり落ち着いた頃を見計らって、イフテカールは祝いのため彼らの屋敷へと立ち寄った。
両親に似た黒髪のその赤子には、角がない。
「角がない、ということは、魔術は……?」
好奇心に駆られて尋ねてみる。僅かに難しい顔をして、アルマは口を開いた。
「使えぬようだ。まあ、そのようなこともあるかとは思っておった。健康でいてくれれば、充分だ」
その言葉が、少しばかり、重い。
「……レヴァンダ様のご容態は……?」
室内には、彼らの他には誰もいない。しかし、少々憚るように、イフテカールは小声で問いかける。
アルマは、更に表情を暗くした。
「持ち直してはいる。おそらく、無理をさせなければ、死の危険はもうないだろう、とは言われた。だが、この調子では次の子供は無理だろう、とも」
「そうですか……」
イフテカールは結局子供を持たなかった。彼らの気持ちを全部は理解できないだろう。
「構わんよ。この息子と、レヴァンダがいてくれれば、それで充分だ」
〈魔王〉は、断固とした表情でそう明言したのだ。
そして、更に七年。
火竜王の高位の巫子、グラナティスが不調に陥った。
連絡を受けて、すぐさまイフテカールは火竜王宮に駆けつける。
その場には王妃やイーレクス王子、レヴァンダにアルマも揃っていた。
寝台に横たえられているのは、未だあの日より一歳も歳を取っていない姿の、グランだ。
イフテカールが術を施してから、もう十年以上経っているというのに。
無言で近づくと、青年はグランの手を取り上げた。僅かに抗う様子もあったが、既に長く続く苦痛の末に体力が消耗している少年に、それは成しえない。
指先から手首までは、包帯が巻かれていた。が、その表面は内部からじくじくと滲み出た液体が染みてきてしまっている。
こんなにも悪化したのなら、自覚症状が出てから少なくとも数ヶ月は経っている筈だ。
「……何故、ここまで放っておいたのですか」
一同を眺め渡して、尋ねる。
ほぼ全員が、後ろめたそうに視線を逸らせた。
「わしが止めた」
静かに答えたのは、アルマだ。
「貴方が? 貴方こそが、これを放っておいたらどうなるか、一番よく判っているべきではないですか」
眉を寄せ、問い詰める。
だが、男の表情は変わらない。
「グランが望んでいた。こんな手段で生き延びたくはない、と」
王妃が低く嗚咽を漏らした。
「彼は、まだ子供だ。……見た目通りではないにしろ、それでもまだ子供だ。自らの生命を自らで決断するには、早すぎる」
「彼は十九だぞ。そろそろ大人として扱われる年齢だ。大体、高位の巫子として、公的な地位についてから何年経っていると思っている。それぐらいの責任感と決断力はある筈だ」
だが、アルマの声音は平坦だ。その主張には、熱意はあまりない。
今、彼が契約を結んでいるのは、高位の巫子だ。その意向には逆らえないというところか。
「……あに、うえ」
か細い声が漏れた。
全員の視線が一点に集まる。
「どうした、グラン」
眉を寄せ、いかにも心配そうな顔で、イーレクスは枕元に跪いた。もう三十を越え、妻を迎え、子供もいるというのに、彼にとってグランはまだ弱い、小さな弟なのだ。
「たす、け……、もう、こん、な」
搾り出した声が、悲鳴を飲みこんだように途切れる。苦痛に歪む顔を見て、イーレクスは苛立ちをこめて傍らに立つ〈魔王〉を振り仰いだ。
「グランを死なせるものか……! そうだろう、レヴァンダ!」
同意を得ようと、妹を振り返る。
儚げな風情を増したレヴァンダは、何も言わず、俯いた。
弟の死を、決して望んではいないのだろう。だが、弟と夫の意思に反する言葉は発せられないようだ。
そこで、断固とした表情で、王妃が口を開いた。
「グランを救っておくれ。イフテカール。アルマナセル殿、そなたも人の親となったのだ、子を亡くそうとする親の気持ちを、思い描くことぐらいはできるであろう」
彼女は殆ど初めて、その顔を真っ直ぐに〈魔王〉アルマナセルへと向けて、そう告げる。
その言葉に、大公夫妻が怯んだ。
「仰せの通りに」
うやうやしく、イフテカールが一礼する。そして、彼はアルマに視線を向けた。
「契約は終わっていますし、貴方の協力が得られないことは、仕方がありません。ですが、グラナティス様の生命に関しては、私と王家の間の契約です。それは、確実に履行されなくてはならない」
契約について、それがどれほど厳格に行わなくてはならないか、〈魔王〉はよく知っている筈だ。苦々しげな顔で、見返してくる。
数秒、反論がないことを確認するために待ってから、イフテカールは再び口を開いた。
「準備に、一日はかかります。それまで、彼には苦痛に耐えて貰わなくては」
「そんな……!」
「早くお知らせ頂いていれば、もっと楽な時期に対処できたのですよ」
抗議の声に、冷たく返す。
そして、彼は足早に部屋を出た。




