12
淡い光が、その場を照らしている。
その青白い、冷たい光は蝋燭の炎ではない。
地下の部屋の中、適度な距離を取って置かれた二台の硝子の箱の中に満たされた液体から発しているのだ。
その内部には、それぞれ一体ずつ人間の身体が沈められていた。
二人は瓜二つの外見をしていた。まだ子供だ。銀に近い金髪に、殆ど外に出ないのか、酷く白い肌。瞳は固く閉じられている。違いがあるとすると、一方が肋が浮いて見えるほど痩せているが、もう一方はそうでもないことか。
痩せている少年が、人から生まれ、今まで生きてきたグラナティス。そしてもう一方の少年が、魔術で生まれ、短期間でここまで培養させた、健康なグラナティスの肉体だ。
ある意味、棺にも見える硝子の箱の周囲で、数名の人間が忙しく立ち働いていた。
単純作業に手が要るために、巫子を借りたのだ。イフテカールとアルマは箱の傍、少年の頭の近くに立っている。
「そろそろよかろう」
アルマが低く呟く。
頷いて、イフテカールは両手をそれぞれの箱に満たされた液体へと沈めた。少年たちの手をしっかりと握る。
〈魔王〉が、恐ろしげな声で呪文を唱え始める。
だが、彼の役割は魔力の増幅だ。実際に術を構築するのは龍神ベラ・ラフマで、それを解き放つのがイフテカールである。
周囲の巫子たちが、心配そうに注視してくる。
グランの精神と魂を、死に瀕している肉体から、新たな肉体へと移し変える。
イフテカールが施しているのは、そんな術である。
幼いとはいえ、人間一人の情報は膨大だ。それをあますところなく掬い上げ、改めて植えつける、というのは、想像した以上に複雑な作業だった。
もしも失敗すれば、グランの心は失われ、肉体はやがて機能を止めるだろう。
上手くいく、と、龍神と〈魔王〉に請合われているとはいえ、イフテカールは次第に額に脂汗を滲ませつつあった。
一体何時間が経過したことか。
グランの、元々の肉体が収められた硝子の箱から、徐々に光が失われていく。
そして、もう一方の箱では、きらきらと煌く粒子が水中を飛び回るように動いている。
感心したように、アルマは片方の眉を上げた。
やがて、片方の箱から完全に光が消えたところで、アルマが呪文を終わらせる。
ゆっくりとイフテカールは手を離した。
周囲の巫子たちが、ざわめきながら近づいてくる。
指示は既に出している。彼らはその通り、新たな巫子の肉体を恐る恐る水中から引き上げ、毛布でくるみ、隣の部屋の寝台へと運び始めている。
何食わぬ顔で、アルマは床に跪いたままの青年に近づいた。
「大丈夫か?」
力なく頷く。既に指先の感覚がない。すっかり血の気が引いた顔で、それでもイフテカールは相手を見上げた。
「彼が目を覚ますまで、どれぐらいかかりそうですか」
「単純に意識が戻るだけなら、夜明けまでには。新しい肉体に馴染むまでは、一ヶ月はかかろうな」
「ならば充分だ」
小さく呟いて、震える膝で立ち上がる。
「こちらの身体は、手筈通りだな?」
「ええ。お願いします」
頷いて、アルマはかつてグランだった身体を無造作に毛布に包み、小脇に抱えた。
アルマが荷を運びこんだのは、王宮内の火竜王宮だ。
暗い礼拝堂の奥、冷たい石の床に横たえる。
そして、殊更何も言うことなく、彼はその場を去った。
〈魔王〉は、龍神と同じ世界の出身だ。何を問い質すこともない。
幼い巫子の肉体を、冷たい夜気に晒けだす。
念のために、脈に触れた。少年の心臓は、規則正しく鼓動を刻んでいる。
「……お待たせ致しました。我がきみ」
掠れた声で囁く。
火竜王の高位の巫子の身体を挟んで真正面、手を延ばせば届く位置に、彼の仕える龍神がいる。
『うむ』
短く、ベラ・ラフマが応える。
両の掌を、巫子の胸に置く。意識を集中すると、その間からこぽり、と赤く温かな液体が零れ出た。
幼いグラナティス。
ずっと、周囲を気遣ってばかりだった。
自分の境遇を呪ったこともあるだろうに。
イフテカールに対しても、常に感謝し、慕い、笑顔を向けてきた。
ほんの僅かな時間、顔を見せるたびに、酷く嬉しそうに。
指が皮膚を抉り、筋肉の間に食いこむ。
びくり、と小さな踵が石畳を蹴りつけた。
家族と民のために、ずっと祈っていた。
彼にとっては、イフテカールも民のうちだった筈だ。
温かい身体。
張り巡らされた神経。
幼い巫子が苦痛を感知することは、もうないとはいえ。
この、幼く、稚い肉体が、彼の手の内にある。
青年の肩が、僅かに震える。
「……く……」
その唇を、きつく引き絞る。
ぎゅう、と、その幼い身体の根幹である器官を握り締める。
そして、それに繋がる太い管を、一息に引き千切った。
「くはははははははは、はははっ!」
吹き出る熱い血を浴びて、抑えきれぬ悦楽に身を任せ、イフテカールは腹の底から、哄笑した。
イフテカールが火竜王宮の本宮に戻ったのは、夜明けの少し前だった。
「時間がかかったな」
部屋の外で出迎えたアルマが、ぶっきらぼうに告げる。
「いろいろ後始末とかが大変だったのですよ。こんなところで、何を?」
僅かに訝しげに、そう問いかける。別段更に問い詰めてくることはなく、アルマは肩を竦めた。
「グランには、家族がついている。わしはお邪魔だそうだ」
憮然として発せられた答えに、眉を寄せた。そのまま前を通り過ぎ、ノックもせずに扉を押し開く。
中に集っていた人々が、ぎょっとした顔を向けてきた。
「遅くなりました。グラナティス様のご様子はいかがでしょうか」
「あ……ああ。まだ目を覚まさない」
戸惑ったような、不安そうな顔つきで、イーレクスが答える。
その隣には心配そうなレヴァンダが。そして彼らと寝台を挟んで反対側に王妃が座っていた。
彼女はイフテカールの後ろについてのっそりと姿を見せた〈魔王〉に、小さく息を飲んだ。顔色がさっと青褪める。
ちらり、とイフテカールはアルマを振り向く。
「心配は要らん。呼吸も脈も安定しておる。まして、まだ、火竜王とやらが現れてはおらんのだろう」
「火竜王が顕現されるのは、高位の巫子が息を引き取った時だ。そうそうそんなことになって堪るか」
むっつりとイーレクスが返す。
そうだ。火竜王は、今夜は顕現していない。
先ほど、イフテカールが元高位の巫子の肉体を蹂躙した時でさえ。
巫子の魂も精神も新しい肉体に移動し、そちらが生き続けている以上、巫子の生命は途絶えていないと見なされているのだろう。
記憶が呼び覚まされかけて、高揚を抑える為に拳を握り締める。
薄く、気取られない程度に笑みを浮かべた。
「夜明けは近い。彼が目覚めるのを待ちましょう。大丈夫ですよ、〈魔王〉アルマナセルが彼の生命を保障しているのです」
とりなすようなイフテカールの言葉に、渋々王家の者たちは頷いた。
〈魔王〉が告げた通り、高位の巫子グラナティスは夜明けを迎えた辺りに意識を取り戻した。
身体が滞りなく動くかどうか、一通り試してみる。別段支障はないようだ。
内心、安堵の息をつく。
後は医師に肉体の状況を診断して貰わなくてはならない。それにはおそらく数日はかかるだろう。
その辺りは専門家に一任して、イフテカールとアルマは早々に王宮へと引き上げた。
「これで、一つ解決だな」
馬車の柔らかな座席を軋ませて、アルマが呟く。
「ええ。契約の条件は、まだ残っています。しかも、こちらは、酷く手強い」
低く、イフテカールは呟いた。
「構わん。障害が高ければ、手に入れた喜びも大きいものだ」
にやりと笑んで、〈魔王〉がそう嘯く。
「期待しましょう」
素っ気なく、龍神の使徒はそう返した。
それから数ヶ月に渡り、イフテカールは王や諸侯と顔を突き合わせて会議を重ねることになった。
グランは至極健康体である、と太鼓判を押され、少しずつ屋外へ出ることもできるようになっている。尤も、高位の巫子という地位を得ている今、歳相応の子供のように遊びまわるということもできないが。
それを少しばかり不憫がっているイーレクスは、グランのことが心配いらない、と告げられた数日後、今までの非礼をアルマに詫びたらしい。
少々頑固なところはあるが、この第一王子は真っ直ぐな正義感を持ち、そして物事に慎重だ。将来、いい王になるだろう。
勿論、イフテカールが操るのに都合がいい王に。
だが、それはまだまだ先の話だ。
鷹揚にイーレクスの詫びを受け入れたアルマは、昼間の大半をレヴァンダと過ごしていた。
この世界のことをまるで知らない彼を、王女は面白く思っているようだ。
基本的に、イフテカールはそれを放っておいた。
〈魔王〉には定期的に餌が必要だ。
都合の悪い情報が彼に入らないように、多少根回しはしたが。
時折、アルマはイフテカールに会いに来ては、レヴァンダの素晴らしさを滔々と話していく。
他には、アルマが人の作り出す芸術にいたく感心していたのが、彼には少々意外だった。
イフテカールは、昔、一通り芸術に対する観念を身につけはしたが、しかし心を動かされることは殆どなかったからだ。
彼は人間で、アルマナセルは〈魔王〉だというのに。
その皮肉な嗜好に、内心苦笑する。
先代の高位の巫女の遺体は結局見つからず、吉日を待ってグランは正式に新たなる高位の巫子に任ぜられた。
是非に、と請われ、仕方なくイフテカールとアルマはその戴冠式に同席することになった。
傷一つなかったグランの額には、赤々と光るルビーが嵌めこまれている。
それを戴いた際に流れたであろう血が、少しばかり勿体ないな、とちらりと考えた。
厳粛に儀式は進み、巫子による宣言を行った瞬間に、火竜王宮内にその主が顕現する。
適度に驚いてみせた演技は、おそらく誰にも見破られなかっただろう。
一見穏やかに、日々は過ぎていった。
ある日、アルマはレヴァンダとの逢瀬のさなか、王に呼び出されることになった。
明らかに不機嫌な顔で、会議の部屋に現れる。
だが、不満を口にする前に、イフテカールは王と諸侯の面前で、口を開いた。
「〈魔王〉アルマナセル。進軍が決定した。契約に依りて、汝の速やかな行動を望む」
少し驚いたような顔をした後に、〈魔王〉は凄まじい笑いを浮かべる。
「ならば、これが最後の契約だな」
「ああ。フルトゥナへの侵攻だ」
イフテカールは、静かに、その白い指を地図の上、南方の草原地帯へと滑らせた。
宣戦布告と同時、国境を接する西へと王国軍を向かわせる。
この軍の統率者はイーレクス。既に二十歳を越え、若き王子は戦場に立つ充分な条件を満たしていた。
お飾りである、ということも含め。
しかし、実際のところ、その数ヶ月も前に、もう一軍が東へと向かっていたのだ。
この数百年の間、イフテカールはイグニシアの実権を握るためだけに汲々としていた訳ではない。カタラクタの王家や貴族たちに、かなりの圧力をかけられる程度の工作は進めていた。
いつの日か、フルトゥナに攻めこみ、風竜王を滅し、その高位の巫子を手に入れるために。
その努力は実を結び、カタラクタはイグニシア王国軍が国内を進軍することを黙認している。
出立は、夏の終わり。冬に差し掛かる頃に、クレプスクルム山脈を越えなくてはならない。
ここで、どれほど犠牲を抑えることができるかが、一つ目の課題だ。
時期はずらせない。正気の人間ならば、こんな計画は実行しない、という思いこみが、勝機を一つ増やすのだ。
そのために、こちらには〈魔王〉アルマナセルを配しているのだから。
最終的な犠牲に関しては、イフテカールは全く頓着していないが。
何故、標的をカタラクタではなくフルトゥナにしたか、理由は幾つかある。
カタラクタはイグニシアと似たような貴族社会であったこと。それに対し、フルトゥナは王家や貴族は殆どお飾りで、草原の民の勢力が強い。それらも、系統だっている訳ではなく、部族間の関係は酷く複雑だ。
入りこむ為の手段は、貴族社会の方がイフテカールは熟知していた。
それを堕落させる為の手段も。
だが。それでも、ひょっとして幾らかは、生まれ故郷へ攻め入りたくなかったのだろうか、と、イフテカールは時折感傷的に考えた。
専ら、手持ち無沙汰な時などに。




