08
ヘミオノス男爵の居城、当主の書斎で、男爵とその弟、彼らの養い子はぐったりとした風情で顔を合わせていた。
「全く、二人とも乙女心というものが判っていないね」
いや、一人だけは何やら涼しい顔をしているが。
ケイリスは、ちらり、とイフテカールに視線を向けた。暗に、お前はもう少し上手く立ち回れると思っていた、と言いたげだ。
それには一切取り合わず、イフテカールは暗い顔を崩さない。
ルシィは、父親から新たな縁談を持ちかけられて、みるみるうちに顔色を変えたのだ。
どこで覚えたのか判らないような、父親には理解できない種類のものを含めて罵倒され、そしてその日以来、三人は男爵令嬢に口もきいてもらえない有様だ。
「私が見た限り、あの子はイフテカールを好いていたのだと思っていたが……」
額に汗を滲ませ、苦悩に満ちた声で男爵が呟く。
ここまで太鼓判を押しておいて、娘に拒絶されたとあっては、善良な男爵にとってはいたたまれないところなのだろう。
「やはり、大それた望みだったのです。お気に病まないでください、旦那様。ケイリス様も、今までお情けをありがとうございました」
深々と、イフテカールが頭を下げる。
「莫迦なことを言うな、イフテカール。あの子は少し拗ねているだけだよ」
呆れた顔で、ケイリスが告げる。
「だが、こんな大事なことで」
理解できない、というように、男爵が返す。
「大事なことだからだよ。彼女にとっては、一生に一度の、愛する人からの求婚だ。それを父親から言い渡されるなんて、どれだけ辛いと思うんだね?」
男爵とイフテカールは、途方に暮れて顔を見合わせた。
「どうしたらいいのでしょう、ケイリス様」
少年の情けない声に、養父は実に楽しげに笑みを浮かべる。
「お前もまだまだ世慣れていないね。一刻も早く、彼女の愛を請うのだよ。お前が自ら」
「おちびちゃんも結婚かぁ」
一人の青年が、感慨深く言った。
「もうおちびちゃん、なんて呼べなくなるよ。先を越されてしまったからね」
「いえ、まだ二年はありますから」
「考え直すなら今のうちだぞ。結婚は人生の墓場だって言うじゃないか」
ケイリスの館で、イフテカールはサロンの仲間たちに囲まれていた。名目上は、彼の婚約を祝うための席なのだが、実際のところ、いい肴になっている。
「しかし、色々大変だったんだな」
「あら、でも、それはイフテカールが悪かったわ。花束も贈り物も愛の言葉すらなしに、結婚しようだなんて」
一人の少女が、知った風に言う。
「それで? どうやって、彼女に結婚を承諾して貰ったんだ?」
興味津々に訊いてくるのは、曖昧に笑って濁す。
正直、人に話すことでもない。
「これから忙しくなるんだろう? 寂しくなるな。たまには、こっちに顔を出しなよ」
「大丈夫だろう。ケイリス様の養子になるんだから、前より顔はあわせやすくなる」
若者たちは、口々に勝手なことを言いながら、それでも最年少の仲間を祝福していたのだ。
二年後、幸いこれ以上の障害はなく、イフテカールは結婚した。
若いながら、彼の働きは岳父にとって満足できるものだったらしい。
まだ幼さの見える夫婦は、男爵の治める藩都の片隅に館を設けて新居とした。
夫の仕事が忙しいこと、なかなか子供が授からないことが悩みの種ではあったが、彼らは仲睦まじく暮らしていた。
年に数度は、ケイリスの元へ顔を出していたイフテカールだったが、それも二十五の頃にぱたりと止まった。
ケイリスが死亡したためである。
彼の養子とはいえ、婚姻によって男爵家に入った身であるので、郷司の任は他の者に与えられた。
イフテカールは、養父の遺産をいくらか手に入れたのみである。
当然、ケイリスの主催していたサロンはなし崩しに終了となった。
年が経つにつれ、それを構成する人間も変わっていっていたのだが。
彼らの間では、イフテカールとケイリスが最後に顔を合わせた時に、酷く険悪な雰囲気になっていた、という話が出ていた。
二人きりで書斎に籠もって話し合っていたが、時折、ケイリスの怒声が響いていた、とも。
「お前は一体何者なのだ!」
そう、何度も問いただすように。
しかし、ケイリスが亡くなったのはそれから二週間ほど後のことであり、当時イフテカールは館に滞在していなかった。しかも趣味の狩猟の最中に落馬した、という死因であったために、その養子が疑われることは一切なかった。
男爵一家は、深い悲しみに沈んでいたが、それも、徐々に薄れていく。
イフテカールとルシィが四十二になった年に、ヘミオノス男爵が亡くなった。
商談のために訪れた先で病にかかり、何とか帰郷したものの、数ヶ月床についた末のことであった。
失意と悲しみの中、葬儀の準備が進む。
当日には、王都から国王の代理人が来ることもあり、娘婿であるイフテカールは多忙を極めていた。
傷心のルシィは、娘時代を過ごした館にて父親の傍にいる筈だった。
しかし、深夜に近い時間に戻ったイフテカールを、意外なことにルシィは待っていた。
「先に休んでいてよかったのだよ。疲れているだろう」
労いの言葉をかける夫を、しかし妻は固い表情で見つめるだけだ。
「こちらに来て貰えるかしら、イフティ」
片手に蝋燭を点した燭台を手に、踵を返す。
彼女が進んでいった先は、男爵の書斎だった。一方の壁に近づいて、蝋燭を掲げる。
そこには、若い夫妻の肖像画がかけられていた。彼らの結婚を機に描かれたものだ。
「それがどうかしたのか?」
イフテカールが、素知らぬ顔で尋ねる。
「貴方、この頃と全く変わらないのね」
「君だって全く変わらないよ。ずっと美しい」
「お世辞はよして。結婚してから、もう二十六年よ。十六の頃と同じだなんて誰が思うものですか」
「それを言うなら、私だって十六の頃から変わらない訳がないだろう」
苦笑して告げる。だが、ルシィは苛立ったように口を開く。
「ええ、流石にそこまではね。でも、二十代の頃からは? 貴方、皺の一つも顔にできていて?」
「老けて見えにくいのは、きっと体質だよ」
宥めるように、イフテカールが答える。未だ、二十代半ばほどの青年の容姿で。
「それだけじゃないわ。貴方、知ってる? 貴方の身体には、傷跡の一つもないのよ。四十年も生きていて、全く怪我をしない人なんているの? 私にだって、少しはあるわ。それに」
そこまで言い募って、ルシィは躊躇った。
「それに?」
「……ほくろだって、ないのよ」
「それは私には判らないな」
イフテカールの口調は変わらない。
まるで、相手が駄々をこねる子供であるかのように扱っている。
つい、自分がおかしいのかと思いかけて、ルシィは頭を振った。
「そもそも、不審に思うべきだったのよ。貴方、あの時、どうして湖に浮いていたの?」
「言っただろう。賊に船が襲われて」
「襲われたらしい船は、ずっと遠かった。周囲には誰もいなかった。貴方だけが、どうしてあそこにいたの? ……貴方、あそこで何をしていたの?」
「死にかけていたんだ」
真面目な表情で、ただ一言告げる。
その言葉の重みに、ルシィが怯んだ。
「……君と、お義父様には感謝している。本当だ。あのまま死ぬか、死ぬよりも酷い人生を送るところだったのを、救ってくれた。私が、君たちに感謝しなかった日は、今まで一日たりともない」
「……イフティ」
迷ったように、ルシィが俯く。
「疲れているんだよ、ルシィ。私もそうだ。お義父様を心底尊敬していたし、悲しくて辛くて仕方がない。しかもこれからどうしていいのか、未だによく判らない。だから、こんな時に、二人で力を合わせられないなんてことはやめないか」
ルシィの瞳が、揺れる。
そして、長く溜め息をついた。
「……ごめんなさい。一人になりたいの」
「勿論だ。私は、今夜は自分の部屋に行く。ゆっくりと休むといい」
物分りよく、イフテカールが返す。のろのろと、ルシィは扉へと歩いていった。
廊下に出ようとして、躊躇う。
「これから、二人で力を合わせなくてはならないのなら、私に全てを話してくれないかしら」
「いずれね。今は無理だ。葬儀が終わらないと」
「ええ、そうね。いずれ」
そして、彼女は姿を消した。
その晩、ヘミオノス男爵の館が焼け落ちた。
台所辺りから出た火が、あっという間に館全体に回ったのだ。
深夜ということもあり、生存者は皆無だった。
男爵の葬儀を目前にして、娘夫妻が滞在していた筈だが、彼らと判別できるような遺体は見つからなかった。炎の勢いが強く、着衣では身分を判別できなかったせいだ。
この立て続けの不幸に、人々はひそやかに何かの呪いを噂したが、それはまもなく消えた。
男爵一家の、善良な人柄が、それを増長させなかったのだ。
がたがたと、夜の闇の中を馬車が進む。
青年は一人、ぼんやりと窓から外を眺めていた。
『……あれでよかったのか』
彼にしか聞こえない声が届く。
「潮時でしょう。そろそろ、不審に思われる頃合でした」
青年の目の下には、くっきりと隈ができている。はらりと落ちてきた金髪を払うほどの気力もない。
『じきに爵位を継ぐこともできたというのに』
「一長一短です。爵位に縛られていたら、身軽に動けないことが多い。財力さえあれば、爵位がなくとも人は耳を傾けるものです」
既に、金目のものは大体持ち出していた。男爵家のものと、ケイリスから継いだものと。
『まあ、そなたの判断を尊重しよう。これからどうするのだ?』
「遠い土地へ行きましょう。誼を繋ぐことを、これからも止めてはいけません。いずれこの国に隙間なく網を張り巡らせて、そして王都を掌握します」
『よかろう、吾子よ。そなたに全て任せる』
「お任せください、我がきみ」
満足げに答えて、そしてイフテカールは瞳を閉じた。
人生を共に歩んできた女性の姿が、彼の瞼の裏に浮かぶ。
愛していた。心から。
ただ、イフテカールにとってその愛の形が、既にいびつに歪んでしまっていただけで。
馬車は、車輪の音を響かせながら、遥か遠い地へと向かっていた。
イフテカールが次に落ち着いたのは、北西の地、グラーティアだった。
彼は今までとは打って変わって、龍神の使徒として精力的に動き出す。
まるで、今までの人生は全て予行演習だった、とでも言うように。
身を縛る枷が、完全に外れてしまったかのように。
手馴れたようにその土地の権力者に近づき、甘言を弄し、魅入らせる。
やがてイフテカールの持つ奇妙な力を目当てに、人が、金が、権力が集まるようになった。
彼は、土地を移動しながら、様々な人々を篭絡していく。
「叔父が死ねば、土地も爵位も金も俺のものなんだ」
勘当され、食い詰めた貴族の子弟が、唯一気にかけてくれた身内へのどす黒い思いを吐露する。
「永遠の若さと美しさを手に入れられると聞いたのだけど」
緊張した面持ちで現れたある貴族の夫人は、手に入れたその美貌を元にありとあらゆる悪徳を積んだ。
「スピューラ鉱山の権利が欲しい。奴が譲渡の書類に署名さえすれば」
首尾よく望みのものを手に入れた男は、イフテカールの死まで毎年二割の利益を供与するという契約に同意した。
「この子を救けてくれ……! 私の、ただ一つの希望だ!」
ひょんなことから知り合ったパン職人は、土砂降りの日に泥の中に跪いてそう懇願した。
彼らはイフテカールの野望の援けになるような力はなかったため、終生、恩人の傍で美味なる食事を作り続けた。
『順調か、吾子よ』
「勿論ですとも、我がきみ」
イグニシア王国の貴族社会の堕落には、少なからずこの龍神の使徒が関わっていたことは間違いない。
水を得た魚のように、イフテカールは楽しげに王都へと近づいていく。
そして、王都の頂点に立つ男を支配下に置いたのは、彼が生まれてからもう百数十年は経った頃のことだった。




