06
翌日の朝、何事もなかったように船は出港した。
その日の夕方、イフテカールは興奮したルシィに甲板に連れ出される。
「ほら、あれ!」
彼女が指差した先は、陸地。
基本的にこれからは岸に沿って進む、と聞いていたので、近くに陸が見えることは不思議ではない。だが、今や岸は見上げんばかりの絶壁となり、そしてその最も高いところに、巨大な建造物が聳えていた。
「あれは……?」
「王都よ! イグニシアの王様がいらっしゃる街、アエトス!」
湖に張り出した岬の先端に位置する街は、ぐるりと高い壁で囲まれ、巨大な面積を持っていた。水面に浮かぶ船からでも、その壁よりも高い建物は幾らか見え、さらに細い塔がどんよりと重い灰色の空を背に、黒々とこちらを威圧する。
しんしんと降りしきる雪の下、二人はそれを見上げていた。
「どうやって、街に入るの?」
首を傾げ、イフテカールが呟いた。
王都は、三方を湖に囲まれている。しかも岸辺はなく、周囲は切り立った絶壁だ。港のようなものはここからは見えない。
「王都には船での出入りはできませぬ」
背後から、細い声がかけられた。振り返ると、フォルミードが姿勢を正して立っている。
「どうして?」
今度尋ねたのは、ルシィだった。
「国王陛下のおわす地は、万全の防御を敷いておかねばなりません。アエトスは、護るに易い地です。陸地からしか入ることができず、それも北側のみ。ですのに港などを設けては、その長所を殺すことになってしまいます」
ふぅん、とルシィが呟く。本当に判っているかどうかは怪しい。
「あの、でも、王都なら人が沢山住んでいますよね。港もないのに、どうやって荷物を運び入れるのですか?」
イフテカールの質問に、フォルミードは少々驚いたようだった。
「馬で一日行った辺りに港を作っています。かさばるものや、急がないものは、そちらから陸揚げし、馬車で王都へ運びこむのです。小さなもの、急ぐものは、崖下に集積所を作ってあり、そこから崖の上まで運びます」
「あの崖を?」
目を丸くして、呟く。湖面から崖上までは、ざっと数十メートルはある。
「崖に滑車を設置して、大きな籠のようなものに乗せて引き上げるのですよ。馬を使えば、さほどの労力ではありません。通過するときに動いているところが見えるかもしれませんね」
ルシィが目を輝かせ、見たい、と騒ぐ。
イフテカールは、じっと、王都の姿へ視線を向けていた。
もしも世界を掌握するつもりであれば、やがてこの街を掌握しなくてはならないのだ。
少年は、幼い心に、その暗く寂しい都の姿を焼きつけた。
ヘミオノス男爵領には、翌日には到着した。
波止場につくよりも前に、既に何台もの馬車が待機している。最も大きく、豪奢なものに男爵一家が乗りこみ、それよりも簡素なものに使用人たちが乗りこむ。
イフテカールはフォルミードに促され、彼と同じ馬車に乗ろうとしていたが。
「イフティ! こっちよ!」
ルシィが目ざとく彼を見つけ、呼びつけた。
問うように老いた家令を見上げる。彼は、男爵へと視線を向けた。
彼らの主人は、困ったような顔で肩を竦める。なるほど、この一家で大きな権力を握っているのは、この幼い娘だ。
「失礼します」
礼儀正しく、イフテカールは馬車に乗りこんだ。早速嬉しげに、ルシィが喋りかけてくる。
男爵の居城は、港町ではなく、幾らか内陸に入った場所に建っている。そこへ着くまでに、彼らは更に数日を馬車で過ごした。
ヘミオノス男爵の館は、物心ついて以来、貧しい農家の子供、港町の漁師見習い、奴隷のような船の漕ぎ手、と立場を変えてきたイフテカールには想像もできないほど大きく、贅を尽くしたものだった。
彼は、ことあるごとにぽかん、と口を開けて周囲を見つめてしまう衝動を、懸命に押し殺していた。
イフテカールが冷静で動じずにいること、そこに龍神の目くらましが合わさって、ようやく、彼の出自に疑念が挟まれない状況を維持できるのだ。
現在、世界は貴族階級によって支配されている。その中へ潜りこもうとすると、どうしてもそれなりの身分が必要だ。
そして、それなりの品位も。
それを身に着けるには、ルシィの遊び相手、という仕事は、好都合だった。
彼女はそろそろ勉学を始める時期で、イフテカールもそれに侍ることになったからだ。
実のところ、それまで読み書きすらできなかった少年は、必死になって男爵令嬢の家庭教師の話に耳を傾けた。
そして一月ほどが経った。
この頃には、イフテカールはベラ・ラフマについて、多少知識が増えてきていた。
龍神は彼の生きるこの世界とは違う場所からやってきたこと。
とある竜王と激烈な戦いを繰り広げ、結果、竜王を酷く消耗させ、眠りにつかせることはできたが、こちらも存在をある程度封じられてしまったこと。
龍神の力は、世界に対して殆ど影響をなくしてしまっていること。
だが、ごく近くにいるものには、直接働きかけることができる。湖の底深く沈んだ、イフテカールのように。
そして、彼に自らの力を指輪の形で分け与えたことで、イフテカールの周囲にも力を及ばせることができるようになった。
それでも。封じられる前に比べれば、それは微々たる力でしか、ないこと。
彼を解放し、再び世界に君臨させるための手駒として、イフテカールは生命を繋ぐことができたのだ。
しかし、彼らは少しばかり困った事態に直面していた。
現在、イフテカールは男爵家に仕える身である。立ち居振る舞いは、家令やそれに準じる使用人に倣えばいい。
だが、そのうちにそうはいかなくなる。目的を果たすためには、彼は、いずれ貴族そのものに成り代わらなくてはならない。
しかし、今現在、この館にいる貴族はヘミオノス男爵と、その令嬢。男爵の態度を真似るには、イフテカールは若すぎるし、令嬢の礼儀作法はそもそも参考になどならない。
しかも、当然ではあるが、こと人間の文化などに関しては、龍神にはさっぱり知識がなかった。
急ぐ必要はない、とは言われているが、イフテカールの気持ちは急く。
こうして生き延び、以前よりも豊かな暮らしができているのは、ひとえに龍神と巡り合えたからだ。
龍神の望みを叶えたい。何より、役に立たないと思われて切り捨てられたくはない。
そして、彼に与えられた幸運は、やがて再び運命を動かすことになる。
「そうだ、イフティ。来週、ケイリスおじさまが来てくださるのよ」
ある日の晩餐で、突然ルシィがそう告げた。
「ケイリス様?」
聞いたことのない名前に、首を傾げる。
「私の弟だよ。領内の郷司として働いていてくれてね。時々、顔を見せにくるのだ。気のいい男だから、あまり心配はしなくていい」
にこやかに、男爵がそう補足した。
はい、と、物分りよくイフテカールが頷く。
再び、自分の人生が大きく動くことなど、予測もせずに。
ケイリスは、三十になったばかり、という年齢にしては、若作りだった。
短い黒髪は、丁寧にカールをつけていることが一目で見てとれる。口ひげを蓄えていたが、それも一本一本手入れしているような印象を受けた。着ている服は全体的に細身で、身体の線を強調しがちだ。洒落たスカーフを襟元にあしらい、ふわりと膨らませて小さな宝石のついたピンで留めている。指輪は細い金のものと、ピンと同じ、赤い宝石のついたものを嵌めていた。
「おじさま!」
ルシィが歓声を上げて、飛びつく。
「やあこれはこれは小さなお姫様」
驚いたことに、それほど気をかけている衣服や髪が乱れることなど全く気にした様子もなく、ケイリスは笑みを浮かべてルシィを抱き上げた。
「少し見ない間に、またお転婆になったんじゃないかね?」
「いやだおじさま、そんなことおっしゃらないで」
つん、とルシィが顔を背ける。が、二人の唇には笑みが残っていて、これが親愛の証なのだということが知れた。
「久しぶりだな、ケイリス」
男爵が片手を延ばす。器用にルシィを左手だけで支え、ケイリスはその手を握った。
「兄さんがフルトゥナにずっと滞在しているからじゃないか」
「すまない、商談があったんだ。それに、あちらは冬でもかなり暖かいぞ。お前も一緒に来ればよかったのに」
「あんな文明のない土地はごめんだね。雪深い我がヘミオノスを離れるつもりはないよ」
苦笑して、男爵は弟をソファへと誘った。ケイリスは身を翻しかけて、壁際に立つイフテカールに視線を止める。
驚いたような顔で、彼は立ち止まった。
物怖じせずに、イフテカールはそれを見つめ返していた。
「ケイリス?」
訝しげな男爵の声に、はっと我に返る。その視線を追って、男爵は、ああ、と呟いた。
「紹介しよう。彼はイフテカール。フルトゥナから帰る途中で、ちょっとした経緯で我が家にくることになったんだ。イフテカール、挨拶を」
主の言葉に、少年は深く頭を下げた。
「初めてお目にかかります、ケイリス様」
「ああ。よろしく、イフテカール」
その日の話題は、男爵の商売、フルトゥナ滞在中の出来事、そして特に多かったのは、イフテカールにまつわる諸々であった。
というのも、ルシィが目を輝かせて彼のことを話し続けていたためであるが。
「それはそれは。イフテカールは、まるでルシィの騎士殿のようだな」
瞳に笑みをちらつかせ、茶化すようにケイリスが言う。
「からかわないで、おじさま」
小さく膨れる少女から、男は視線を壁際に立つ少年に向けた。
「違うのかね、イフテカール?」
「……お嬢様は、話を大きくされがちですので」
困ったような表情を作り、イフテカールが小さく答える。
大げさに眉を上げ、ケイリスはじっとイフテカールを見つめた。
翌日の午後、イフテカールは男爵に呼び出される。
部屋に入ると、そこには男爵と楽しげなケイリス、そして初めて見る二人の男がいた。
「ああ、よく来たね」
ケイリスが両手を広げて出迎えた。
「なあ、ケイリス。お前の道楽は知っているが、示しというものが」
僅かに渋面を作り、男爵は弟に苦言を呈する。
「それは、兄さんの立場だからだろう。私が気まぐれで使用人に何かを与えるなんて、よくあることだよ」
「ここまで金を使ったことはない」
「私の金だよ。文句がある者は、私に言ってくればいい」
状況がよく飲みこめなくて、無言で立ち尽くす。
男爵が溜め息をつき、諦めたように片手を振った。それを受けて、笑みを浮かべるとケイリスは声を上げる。
「さあ、こっちへおいで、イフテカール。その服はまあ悪くはないが、いま一つお前の魅力を引き出せていないね」
「あの、ケイリス様?」
戸惑って声を上げる。
「大丈夫。彼らは、ヘミオノスきっての仕立て屋だ。きちんと、お前に似合う服を仕立ててくれるだろう。それが終わったら理髪師も呼んでいるからね」
全く意味が判らず、視線をヘミオノス男爵へ向ける。
「つきあってやってくれ。こいつは、自分を飾り立てるのと同じぐらい、他人を飾り立てるのが好きなんだ」
疲れたように苦笑して、男爵はそう命じた。
「私でも相手は選ぶよ。この素晴らしい金髪をここまでばさばさにしておくなんて、冒涜だ」
ケイリスは、そっとイフテカールの髪を一房、手に取った。
服が仕立て上がるには、十日ほどかかる、とのことで、後々この騒ぎを知ったルシィは少し不満げだった。
が、彼女も整えられた金髪には満足しているようだ。
「とりあえず見られるようにはなっただろう?」
控えめに、ケイリスが誇る。
「ずっといいわ、おじさま」
「これから何ヶ月かかけて、少しずつ伸ばしていくのもいいかもしれないね。手をかける幅が広がる」
「あの、長くするのはちょっと」
それまで、辛抱強く二人の言動を受け入れていたイフテカールが、初めて異議を唱える。
「嫌いなのかい?」
はい、と小さく頷く。
あの、奴隷のようだった数ヶ月間で、髪は肩近くまで伸びていた。もつれ、固まった髪が首筋に触れる感覚を思い返すと、ぞっとする。
「だけど……」
ルシィが言葉を継ぎかける。
「そうだね。短い方が似合うだろう」
だが、ケイリスがさらりとそう決めて、少し不服そうではあったが、少女もそれに倣う。
イフテカールの、感謝を籠めた視線に、男は小さく笑いかけた。
ケイリスは半月ほど滞在し、そして帰宅した。
明るく、気の利いた彼の存在が消えて、男爵家は少しばかり寂しくなったようだ。
「おじさま、次はいつ来られるのかしら」
つまらなそうに、ルシィが呟く。
「夏までには一度来るだろう。いつもそうだからな」
男爵が、穏やかに娘を宥めた。
しかし、彼らの予想は外れた。
二ヶ月と経たず、ケイリスは再び現れたのだ。
「何かあったのか?」
驚きを隠さずに、男爵は弟に尋ねる。
「ただの気まぐれだよ。子供たちは、この時期、すぐに大きくなってしまうものだしね」
ケイリスはまたも勢いよく抱きついてきたルシィに、頬を寄せる。きゃあ、とルシィはくすぐったそうに笑った。
「お前は抱きつきにきてくれないのかね?」
面白そうに、イフテカールに尋ねる。
困った顔で、少年はその場から動かなかった。
「いい生地が手に入ってね。ルシィにドレスを仕立ててあげようと思ったんだ」
そう言って、ケイリスは何枚もの鮮やかな絹、ヴェルベットのリボン、おびただしいレースなどを荷物から出して広げた。
ルシィは目を輝かせている。
「ケイリス、気持ちは嬉しいが……」
「私のたった一人の姪だ。遠慮は無用だよ、兄さん」
明るく、兄の言葉を笑い飛ばす。
ちらり、と洒落男はイフテカールへと目をやった。
そして人目がないところで、こっそりとケイリスはイフテカールへ小さな贈り物を渡すのだった。




