05
ルスキニアは、しくしくと泣いていた。
ここは暗くて寒い。何より、誰もいない。
馬車は、数十分走って停まった。そして、馬車を乗っ取った男は、泣き叫ぶ少女を乱暴にここへ押しこんだのだ。
周囲はうず高く積まれた木箱に囲まれている。扉に鍵をかける音はしたが、別に縛られたりはしていない。幼い少女に何ができるかと思われているのだろう。
事実、彼女はただ涙を流しているだけだった。
「お父様……お父様ぁ……」
ぽたぽたと、雫が頬を伝い、膝の上に落ちる。
白い毛皮のケープを通しても、石造りの床からはしんしんと冷気が染みてくる。
「うぅ……。怖い……怖いよぅ、お父様……。フォルミード……」
もうすっかり陽が落ちてしまったのか、それとも窓がないのか、木箱の向こう側ですら真っ暗だ。
「……お母様……」
ぎゅぅ、と、両手で身体を抱くようにして小さくなる。
どれほどの時間を泣き続けていたか。
がちゃん、と近くで金属の音がして、ルスキニアは身を震わせた。
息を潜め、耳を澄ませたルスキニアに、かさこそ、という音が届く。
そういえば、こんな暗くて寒くて汚くて埃っぽいところ、どんな不快な生き物がいるか知れないのだ。
周囲をびっしりと鼠に囲まれる想像をして、少女は再び目に涙を浮かべた。
微かな音は、気のせいか近づいてきているようだ。
「こ……、こないで」
震える声で、小さく呟く。
「……ルスキニア?」
押し殺した囁きが、どこからか聞こえた。
まだ子供のような声だ。
「イフテカール!」
安堵に、声を上げる。
彼の姿がぼんやりと見えるようになったのは、本当に近くまで来てからだった。
「大丈夫? 怪我はない?」
心配そうな顔で尋ねる少年に、思わず抱きつく。
「……怖かった……!」
イフテカールは、おずおずと背に手を回し、そのまま数分間動かなかった。
やがて、ルスキニアの泣き声が途切れがちになったあたりで、囁く。
「ここから逃げなくちゃ。歩ける?」
黙って頷く。身を離すと、イフテカールはルスキニアが立ち上がるのに手を貸した。
手を繋ぎ、木箱の間を縫うように進むと、やがて壁に突き当たる。イフテカールは左右にきょろきょろと視線を向けると、しっかりした足取りで右に折れた。
しばらく壁に沿って歩くと、ぼんやりとした明るさが見えてくる。
壁の一番下に、小さな窓が開いていたのだ。そこからもぐりこんだのだろう、イフテカールの外套の胸が埃で黒くなってしまっている。
ルスキニアのドレスの裾が引っかかって少々手間取ったものの、二人はその建物からの脱出に成功した。
外には、幾つもの似たような建物が軒を連ねている。人の気配はなく、吹き抜ける風がただ、冷たい。
「ここ、どこ?」
心細い思いで、ルスキニアが呟いた。
「港の倉庫だよ。少し歩けば、波止場に着くと思う」
改めて手を繋ぎ、小さな足で歩き出す。
が、次の角を曲がったところで、ばったりと一人の男と顔を合わせた。
「……っ、お前……!」
驚いた声を上げた相手は、ルスキニアを攫った者か。イフテカールが、男と少女の間に立つ。偶然倉庫の壁に立てかけてあった、デッキブラシを掴んだ。
「そんなもんで、何ができる」
男が嘲るように言った瞬間、無言で、イフテカールはそれを振った。
デッキブラシの側面が、ほぼ水平に男の脛を直撃する。
「…………………………っ!」
打ちどころが悪かったか、悲鳴も上げられず、男は脚を抱えて蹲った。
「走って!」
ルスキニアの手を取り、強引にイフテカールが引く。
「ま……待て……」
一人取り残され、弱々しく呻く男は、しかし数分もすると何故かその少年少女のことなどどうでもよくなっていた。
息が苦しい。
心臓が破れてしまいそうだ。
お転婆だ、などと言われていたが、ルスキニアは野原を駆け回って遊んだことなどはない。当然、こんなに長時間走ったことなどなかった。
それでも手を引かれるまま、必死で足を動かしていた彼女だが、やがて足がもつれ、簡単に転んでしまう。
「きゃぁ!」
手が離れて、慌ててイフテカールは彼女に駆け寄った。
「大丈夫?」
「……だ、め……」
雪が凍りついた通路は、固く冷たい。打ちつけた身体が痛いが、身を起こすのも辛かった。
「少し休もうか。ちょっとでいいから、立って」
イフテカールの言葉に、恨めしそうな顔で見上げる。
「そのままじゃ雪が解けて、服が汚れちゃうよ」
「もう汚れてるもの……」
しかし、濡れてしまうのはまた他の不快さだ。渋々、少女は身体を起こした。
手近な倉庫の入り口に続く石段を登り、奥まった扉の前に座る。ここなら雪は積もっていないし、真正面にでも来ない限りは、通路からも見えない。
それでも、空気や石段から、冷気は身体に染みこんでくる。
手をぎゅっと握り合わせて、身を縮める。
ふと隣を見ると、イフテカールは手袋を嵌めていなかった。まだ店から受け取っていなかった状態で、自分を追いかけてくれたのだろう。
少年は顔を上げ、周囲の様子を伺っているようだ。淑女にあるまじき不躾さだが、ルスキニアは、その、真っ赤になっている指先に視線を落とす。銀色の指輪が、僅かな光を反射していた。
「……その指輪、なに?」
小さく、尋ねる。
きょとんとして視線を向けてきたイフテカールは、ふと表情を和らげた。そして片手を上げ、指輪の意匠が見えるようにする。
見慣れない竜の姿だった。翼を持っているとすると風竜王だが、それは鳥の翼だ。このような、蝙蝠に似た翼ではない。細かい造形が、大きく口を開いた顔を形作っている。なんとなく恐ろしささえ感じて、ルスキニアは身を縮めた。
「大切な方から、頂いたんだ」
細い指が、そっと、その表面を撫でる。
「そう」
ちり、と胸の奥が僅かに痛んで、ルスキニアは素っ気なく呟いた。
そんなことにも気づかないように、イフテカールはさて、と口にする。
「そろそろ動ける? 暗くなっちゃう前に戻った方がいい」
「……歩けない」
拗ねたように、少しそっぽを向いて、答える。
「判った。じゃあ、もう少し休もうか」
が、呆気なく少年は浮かせかけた腰を再び下ろした。
苛立って、その袖をぐい、と引く。驚いたのか、目が少し大きくなった顔が近づいた。
「負ぶっていって」
少女の命令に、苦笑する。
「判りましたよ、お嬢様」
「ルシィよ。そう呼んでいいわ。イフティ」
得意げに変な呼ばれ方をされて、また、イフテカールは笑った。
男爵は、苛々と波止場を歩き回っていた。
港の警備兵に話をつけ、この街の郷司に連絡を取らせている。他領地の者とはいえ、男爵令嬢が攫われたのだ、手を貸すことを渋る訳がない。
だが、返答はまだこない。さほど時間が経っていないからだが、この間にも、娘が一体どうなっていることか。
傍には、フォルミードとコルデラが沈痛な表情で控えていた。船長も、そわそわと街から続く街路を見やっている。
それに最初に気づいたのは、甲板から周囲を眺めていた船員だった。
横手の倉庫の間から現れ、酷くよろめきながら、こちらへ近づいてくる、人影。
波止場を行きかう男たちにしては小さいが、男爵令嬢にしてはやや大きなその姿。
目を凝らして、その様子を伺っていた男が、やがて大きく声を上げた。
「あっちだ! 帰ってきたぞ!」
その言葉に、声が届く範囲の者たちがざわめく。
男爵が、思わず走り出した。
「お父様!」
安堵した声が響く。
そして、ルスキニアは急かすように自分を背負う少年の頭を何度か叩いた。
はいはい、と呟き、イフテカールは走りだそうとする。
が、ここまででかなりの体力を使っている。この年齢の少女は、正直、同じような年齢の少年よりも体格がいいものだ。結果、彼はほんの数歩進んだところで、足を滑らせた。
「うわ……!」
しかし、そのときにはもう近くまで来ていた男爵が、慌ててその身体を支える。
「ルシィ!」
「お父様!」
親子は、少年の金髪の上で感動の再会を果たしていた。
「無事かね? 怪我はないか?」
「ああ、怖かったわ、お父様!」
微妙にかみ合わない会話を繰り広げる二人は、追いついてきた使用人たちに囲まれている。
「お嬢様よくぞご無事で!」
「こんなに汚れてしまわれて、お可哀想に」
「さあ、ここは冷える。早く中へお入り」
イフテカールの背中から娘を抱き上げると、男爵は踵を返した。少女を気遣いながら、皆がそれに倣う。
その場には、ぽつん、とイフテカールが一人、残された。
ただ、遠ざかる背中を見つめる。
『善良で、優しい、か』
他の誰にも聞こえない声が、静かにイフテカールに告げた。
「ええ。よく、判ります。あんなものなんです」
あんなもの、なのだ。
家族というものは。
じっと立ち竦むイフテカールを甲板からやきもきして見つめていた船員が、数分後に迎えにやってきて、それでようやく彼は船に乗りこんだ。
イフテカールが男爵に呼び出されたのは、その後二時間は経ってからであった。
部屋に通された時に窓際に立っていた男は、どこか所在無さげに見える。
「参りました」
「ああ、イフテカール。さあ、掛けたまえ」
僅かに視線を逸らし、男爵が椅子を進める。黙って、少年はそれに従った。
その向かい側に座った相手は、やや言い出しにくそうな顔をしていたが、じきに真っ直ぐにイフテカールを見つめた。
「先ほどはすまなかった。娘を救い出してくれたというのに、礼の一つも言わずに。今更だが、感謝と、謝罪を受けて貰いたい」
そう言って、男は顔を伏せる。
「そのようなこと。お嬢様が大切なのは、よく判っています。……家族なんですから」
僅かに切なげな口調に、ヘミオノス男爵は顔を上げた。
この少年の家族に関しては、まだ誰も知るものはいない。言葉を捜して、男爵は明るい声を出した。
「いや、しかし大活躍だったそうだね。ルシィが話してくれたよ。見張りの目をかいくぐり、鍵のかかった城塞に閉じこめられたあの子をベランダ伝いに侵入して救い出し、襲ってくる暴漢を次々と叩きのめしたと」
「……まさかそれを信じてる訳ではないですよね?」
流石に盛りすぎだ。そもそも、城塞がこの近辺にあったのか。
イフテカールの言葉に、父親は苦笑した。
「娘の言葉を疑うことなどせんよ。……まあ、多少、大袈裟であるのだろうとは思うが」
「鍵の閉め忘れた窓から倉庫に入っただけです。見張りだって、見つかったのは一人だけで。運が、よかったんです」
小さく首を振って、イフテカールは言い訳した。
「それでもだ。大の大人が動けなかったところを、君がただ一人馬車を追ってくれた」
「あんな速さで走る馬車は、目立ちます。何度か人に尋ねたら、すぐに場所は判りました。僕でなくても……」
「イフテカール」
男爵が、強く名前を呼ぶ。
「それでも、君が娘を見つけてくれた。救い出してくれた。ここまで、連れ帰ってくれた。私にとっては、ただ一人の家族だ。妻に加えて、あの娘まで失っていたらと思うと……」
「奥方様……?」
イフテカールの言葉に、はっと我に返る。
「ああ、いや。数年前に、病で亡くなったのだよ。気にしないでくれ」
軽く手を振って告げる言葉に、頷く。
「それでだな。君は、やはりまだ、故郷へは帰らないつもりなのか?」
話を変えられたが、どのみち、猶予は数日しか貰っていない。
「はい」
イフテカールは躊躇いもせずに答えた。
故郷は未だ飢饉が続いている。自分が戻ったところで、食い扶持が増えてしまうだけだ。再び売られてしまうことだって、ありうる。
五年前よりは高値で売れるだろうか、と自嘲気味に考える。
そして何より、イフテカールは一度死んだのだ。そして、その生命を救われた。
その相手になんでもする、と縋って。
「男爵さま」
イフテカールは声を上げた。
ここが、正念場だ。
「図々しい、と思われるでしょうが、どうぞお願いします。僕を、男爵さまのところで働かせては貰えないでしょうか」
そう一息に言って、頭を下げた。
「顔を上げたまえ、イフテカール」
男爵の声は、是とも非ともつかない。唇を引き結び、覚悟を決めて、少年は身体を起こした。
「君が故郷へ帰らない、と決めているのなら、こちらからお願いしようと思っていたのだよ。実はルシィが君のことを酷く気に入っていてね。あの娘の遊び相手になってはくれないか」
その言葉に、ゆっくりとイフテカールの頬が緩む。
「勿論、数年のうちに遊び相手、という役割は終わってしまうだろうから、その先のことは考えておくといい。やはり故郷に帰りたいというのならそうすればいいのだし」
「僕を冬の湖から救い上げてくださったのは、お嬢様と男爵さまです。一生、お仕え致します」
しかし、きっぱりと言い切ったイフテカールに、困ったような、少しばかり嬉しいような表情が浮かぶ。
「ならば、お前に仕事を教えてやらなくてはいけないね」
その呟きが意味するのは、おそらく、ただの下働きの仕事、という意味ではない。
掴んだのだ。
幸運を。




