04
その後まもなく、最初に会った女性が、食事である、と呼びにきた。
彼女は、おそらくは男爵家の使用人であるのだろう。このように綺麗な女性が、とも思うが、貴族であることに必要なのはただ、血筋なのだ。
それよりも、使用人が染み一つない衣服を身に着けていることが驚きだった。
案内されたのは、船の中だというのに、大きく窓を取った部屋だった。広い食卓の奥に男爵が、その隣にルスキニアが座り、笑みを浮かべてこちらを見ている。
卓の上には磨き上げられたグラスや銀食器が並べられていて、イフテカールはあからさまに怯んだ。
案内の女性が、ルスキニアの正面の椅子の傍で待っている。おずおずと、イフテカールはそこに腰掛けた。
すぐに、三人の前に温かなスープが運ばれる。
その湯気の立つ料理を、信じられない気持ちで見つめた。
温かい食事など、何ヶ月ぶりだろう。
思わず、イフテカールはスプーンを握りこみ、そのスープを掻きこむように口にした。何より、彼は飢えていたことを思い出したのだ。そうなると、もう止まらない。
瞬く間に、その一皿を平らげ、イフテカールは満足そうな吐息を漏らした。
『……落ち着け、吾子』
僅かに呆れたような声が、指輪から発せられる。
はっとして、周囲へ視線を走らせた。
男爵とその令嬢が、驚いたような表情でこちらを見つめている。
今のイフテカールの食べ方は、下町ですら行儀が悪い、と窘められるようなものだ。
彼らが上流階級であるなら、尚更。
ざっ、と、顔から血の気が引く。
彼らに取り入れ、という、龍神の命令は呆気なく失敗した。
この場をどう取り繕うか思いつきもせずに、俯く。
「よほどお腹が空いていたのだな。食事は逃げはせんよ。すぐに、次のものを持ってこさせよう」
だが、穏やかな声に、驚いて顔を上げた。
二人の貴族たちは、にこやかな笑みを浮かべている。
「え……」
『心配せずとも、そなたを傷つけさせはせぬ。身体も、心も、経歴も、だ。そなたの立ち居振る舞いは、他者に必ず好意的に受け止められるように術をかけてある』
呆然とするイフテカールに、龍神は囁きかけた。
『だが、それに慢心するな。この術は、ただの猶予だ。先ほど、学べ、と申しつけた筈だ、吾子よ。幾度も失態を繰り返す手駒に、儂はいつまでも優しくはない』
苦い唾を飲みこむ。小声ではい、と呟いて、スープの皿が下げられるのを見つめていた。
ぼふ、と寝台に身体を沈める。
……疲れた。
あまりにも、色々なことがありすぎた。
元々、イフテカールは兄弟の中で一番最後に産まれた。だが、そのような立場の者として、要領よく生きる術を身に着ける年齢になるまで、家族の元にはいなかった。
とはいえ、働き出してからは、言われたことだけやっていては怒鳴られる。他の者たちの仕事っぷりを見よう見真似で進めていって、ようやく認められるものだった。
ただ、今はそれが四六時中である、ということで、気を休める時間がない。
それでも。
つい数時間前に摂った食事を、思い返す。
最初のスープを貪った時は、あまりに余裕がなくて判らなかった。
だが、落ち着いて次の皿を口にして、驚愕した。この世界にある食物は、あんなにも豊かな味がするものだったのだ。
産まれてからこのかた、食べるものに不自由してばかりだった。腹を満たせれば、それで充分と思っていた。
美味というものが、こんなにも快いものだなんて、思わなかった。
そして、滑らかな、いいにおいのする服に袖を通し、温かな布団に包まって眠ることができる。
誰からも怒鳴りつけられず、殴られず、鞭打たれず、切り殺されずに。
丁寧に、やさしく扱われた。
本当に、夢のような一日だった。
うまくやれば、このような日々がずっと続くのだ。
迷い、揺れるイフテカールの心は、しかし、本当はもうどうするのか決まっていた。
あっという間に、二日という猶予は過ぎる。
その日の朝、部屋の窓から外を見て目を丸くしたイフテカールは、その足で甲板へ出た。
暗い雲が垂れこめた空から、ひらひらと白い粉のようなものが降り注いでくる。それは、既に甲板のバケツや綱の上を白く染めていた。
「……凄い」
ぽかんとして立ち尽くしていた彼に、一人の船員がぶつかってくる。
「うわ……!」
「あ、申し訳ない、坊ちゃん。お怪我は?」
甲板に尻餅をついた状態で、イフテカールは目をぱちくりさせた。
彼の知っている船員は、大抵が荒くれ者だ。挨拶が怒声や罵声でできている。
船員は急いでイフテカールに手を貸して起き上がらせ、すっかり濡れてしまったズボンから雪を払い落とした。
「こんなところでどうなさったんです?」
「ごめんなさい。雪を、見てたんです。初めてだったから」
身を竦めて答えるイフテカールに、船員は彼に可能な限り和やかに笑った。
「坊ちゃんは、イグニシアの生まれじゃないんで?」
「うん。カタラクタの、ずっと南の方」
カタラクタでも北方や、そうでなくても山の近くなどでは雪は降ると聞いたことはあるが。
「はー、そりゃあったかいんでしょうなぁ。イグニシアじゃ、あと三ヶ月は雪が降りっぱなしですぜ」
「三ヶ月?」
驚いて繰り返す。それにまた笑って、船員は立ち上がった。甲板についていた膝が、びっしょりと濡れてしまっている。
「お風邪を引かないように、早くお部屋に戻った方がいいですよ。じゃ」
だが、そんなことに文句も言わず、船員はまた立ち去った。
その後色々と考えていて、イフテカールはルスキニアとハウスメイドが探しに来るまで、そこでぼんやりと立っていた。
「街に、お買い物に行きたいの、お父様」
朝食の席で、ルスキニアがそう訴えかけた。
まだ湖の上だが、午後にはヤカスの街に到着する、と聞いた。その街で、ということなのだろう。
ヘミオノス男爵は、難しい顔でそれを見返している。
「ペルロでも、沢山買ったではないかね」
「それとは違うわ。イフテカールのものよ。着替えが、使用人の子供のものしかないなんて、可哀想。それに、これからイグニシアに入るのですもの。コートや手袋、帽子、それにブーツは絶対必要よ。今朝だって、シャツとズボンだけで甲板にいたんだもの」
「え?」
マナーを身につけようと、二人を観察しつつ食事をしていたイフテカールは、実際のところ会話を気にしていなかった。が、名指しで話題に乗せられて、流石に顔を上げる。
「お嬢様、そんなことをしていただく訳には」
「イフテカールは黙ってて。あなたを見つけたのは私なのだから、私がちゃんとしてあげなきゃいけないのよ」
が、少女はぴしゃりとその反論を却下する。
「ねぇ、お父様。この先彼がどうするにしても、まさか着ていた服のままで放り出すなんて、ヘミオノス男爵家の名にかけて、そんなことなさらないでしょう?」
「いやまあそれはそうだが」
「おねがい」
ルスキニアが、長いまつげの下から父親を見つめる。
……女の子って、みんながこんな生き物なんだろうか。
少しばかり呆然として、イフテカールはその様子を眺めていた。
男爵が咳払いして、厳格な顔を取り繕う。
「まあ、フォルミードと一緒に行くのなら、よかろう。じいやの言うことをよく聞くのだよ」
「じいやなんて嫌よ。コルデラがいいわ。フォルミードに服のことで意見なんて聞けないじゃない」
ぷぅ、と頬を膨らませて、ルスキニアは反論した。
男爵が苦笑しながら、こちらに視線を向ける。イフテカールは曖昧に笑んだ。
「判った判った。二人と一緒にいきなさい。あまり遅くならないようにね」
「ありがとう、お父様! 大好き!」
嬉しげな声をあげて、少女は父親に飛びついた。
フォルミードは、初めてみる相手だった。髪の白い老人で、僅かに背が丸くなりかけている。
コルデラは、イフテカールの世話をしてくれているハウスメイドのことだった。一筋の後れ毛もなく、髪を結い上げている。
真っ白の毛皮のケープを纏ったルスキニアを含め、程度の差こそあれ、三人ともがきっちりと防寒に対処した服を着ている。
船室から出る前に、薄い毛布を肩にかけられた。
「すぐに、馬車が参りますでな。ご辛抱ください」
フォルミードが掠れた声で告げる。
数分で船員が呼びに来て、彼らは渡し板を降りて波止場に降り立った。
振り返れば、イフテカールが救われた船は、優美な小ぶりの帆船だった。漕ぎ座は船倉にあるようで、船腹に数少ない穴が開いている。
なんとなく、イフテカールはほっとした。
この寒さの中、彼らは外で働かなくてもよいのだ。
「イフテカール!」
既に馬車に乗りこんでいたルスキニアが、声をかけてくる。すぐに、少年はそれに従った。
がらがらと音を立てて、二頭立ての馬車が街を進む。
「本当なら、仕立て屋を呼ぶべきなのに」
ルスキニアが、つまらなそうに呟く。
「明日には領地へ向けて出航致します。仕立て上りを待っている暇はございませんよ」
フォルミードが穏やかに返した。
「判ってるわよ! それでも、ちゃんとしたお店に行ってくれるんでしょ?」
「勿論ですとも」
にこにこと微笑みながら、老いた家令はルスキニアに答えている。
この愛らしい少女は、本当に皆から好かれている。
イフテカールは僅かな胸の痛みを感じて、毛布の中に口元をうずめた。
男爵令嬢ご一行に連れられてその店に入り、イフテカールは息を飲んだ。
黒のお仕着せを身につけた十数人の男女が、ずらりと並んでいたのだ。
「お待ちしておりました」
一際威厳のある男が、深々と頭を下げる。
「この子よ。よろしくね」
ルスキニアが、まだほんの子供だというのに、鷹揚に男に声をかける。フォルミードに肩を押され、おずおずとイフテカールは前に出た。
男がじろじろと少年の身体を品定めする。
「承りました。ご案内いたします」
そのまま、廊下を先に立って歩いていく。イフテカールとフォルミード、ルスキニアとコルデラが違う部屋に通されそうになった。
「同じ部屋にいるわ」
ルスキニアが抗議するが、男はきちんと彼女に向き直って答えた。
「レディが紳士の着替えをご覧になるものではありませんよ」
瞬間、少女の頬に赤みがさす。そう言えば初対面の時、半裸だったところを見られたな、と呑気にイフテカールは考えた。
「……判ったわよ。でも、着終わったらちゃんと見せにきなさいよ!」
「勿論です。では」
軽く一礼して、男はさっさとイフテカールを部屋の中へと押しこんだ。
「……女の子って、みんなああなの?」
小さく呟く。
「女性というものは、大体が着せ替え遊びに没頭するものですよ。お幾つになられても」
丁重に男が応じてきて、イフテカールは溜め息をついた。
その後は、それこそとっ替えひっ替え、服を着替えてはお披露目をさせられた。
ルスキニアとコルデラとは、飽きもせずに感想を述べては楽しげに笑っている。
彼女たちの前にはお茶とお菓子が出されていたが、イフテカールは当然それを見ているだけだった。
少しばかり空腹を抱えながら、ようやくルスキニアの眼鏡に適う服を選び終えた時には、もう夕暮れが近くなっていた。
溜め息は白さを加えて、街路に流れていく。
馬車は店の前に停まり、ルスキニアだけが中で座っている。買いこんだ荷物を積むために、フォルミードとコルデラは外で待っていた。なんとなく、彼らを差し置いて自分だけ馬車に乗る気分にならなくて、イフテカールもその近くで立つ。
外套だけは先に着せて貰っていたので、寒くはなかった。毛皮は使われていないが、淡いグレイの、目が詰まった生地でできている。
衣類が入った箱を幾つも重ねて、店員が姿を見せた。その場の全員、御者の注意までそちらに向かった時に。
「うわっ!?」
がつん、という鈍い音の後に悲鳴が上がり、どさり、と重いものが落下する音がした。
慌てて振り返ると、馬車が街路を走りだすところだった。御者が、帽子を路上に落とし、頭を押さえながら倒れている。
「……お嬢様!」
コルデラの悲鳴が響く。
『幸運を』
イフテカールは、ぐっと拳を握った。
「男爵さまに知らせてください!」
そう言い放つと、少年は雪と氷に覆われた石畳を走り出した。
「……あなたのしたことですか?」
勿論、全力で走り去る馬車に追いつくことなどできない。みるみるうちに遠くなるその後ろを、人ごみに紛れながらイフテカールは走った。
『そうだ。あの男は、善良で気が優しい。娘を失えば、実の子供のようにお前の面倒をみることだろう』
龍神は、さらりとそう返してくる。
イフテカールは適当な場所で足を止めた。そして、小さく溜め息をつく。
「駄目です」
『駄目、だと?』
僅かに、龍神は苛立ったようだった。
「そうです。ルスキニアは、女の子ですよ。娘を失くした親が、代わりに男を育てて慰めにするもんですか」
『……そういうものか? 子供は子供ではないか』
「そういうものです」
今まで、龍神のとてつもない力を畏怖し、怯えてさえいたイフテカールだが、しかし、こんな簡単な人の心さえも判らないという状況に、僅かに呆れた。
だがそれは、龍神は子供を、人間を、手駒を、幾らでも替えが効く存在だ、と認識しているということである。イフテカールがそれに気づくのは、まだ先のことだ。
『ならばどうするべきかな。折角やってみたが、その辺りで停めさせるか』
そして、失敗するとあっさりと放り出す。その辺り、この先イフテカールも同じ志向になっていくのだが。
「いえ。彼らが、善良で気が優しい、ということは確かです。折角、あなたが作ってくれた機会だ。……全力で、恩を売りましょう」




