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いつか、竜の舞う丘で。  作者: 水浅葱ゆきねこ
贄の章

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03

「船倉? でも」

 船倉への入り口は、どちらかと言えば船尾側。現在、戦闘が繰り広げられている辺りだ。

「甲板にいる方が危ないよ! 前の時も、船倉にいたら、少なくとも巻きこまれずに済んだじゃないか」

 確かに、前に賊に襲われた時は、全てが終わってから捕らえられた。今回も、勝った方の思い通りになるのだろう。彼らはまだ幼い。それにこの数ヶ月の奴隷のような扱いに、もう自ら戦って勝とう、という気力も、力もなかった。

「うん……。判った」

 イフテカールが頷き、二人は船縁近くを通って船倉へと向かう。

 時折、斬りあう船員と賊が近くにいたが、タイミングを見計らっては傍を通り過ぎた。

 しかし、入り口までもう数メートル、というところで。

 一人の賊が、真正面に立ちはだかった。

 簡素な服には、血の染みがまだ濡れた光沢を放っている。そのぎらついた目は、真っ直ぐに少年たちを見ていた。

 身体が竦んで、動けない。

 男が、奇妙に湾曲した剣を振り上げる。

「いやだ、救けて……!」

 友が悲鳴を上げる。

 そして、ぐるりと身体を回転させた。

 イフテカールを、盾にするかのように。

 どん、と左肩に重いものが叩きつけられる。

「……え」

 吐息を漏らすと同時、喉から小さく声が発せられた。

 ぎこちなく後ろに目を向けると、怯えた友の顔が視界に入る。

 賊が、無造作に剣を引き抜いた。イフテカールの胸に足を当て、後ろへと押しやる。

 ふらり、と数歩背後によろめいた身体が、船縁にぶつかった。

 傷口は燃えるように、熱い。身体を濡らす液体が温かいのも、当然か。

 力の抜けた身体は、船縁を越え、湖へと落下する。

 友の姿は、既に見えなくなっていた。


 一瞬にして、身体が氷のように冷たくなる。

 先ほどまでの傷の痛みも、もうよく判らない。

 空気を求めて大きく口を開けたが、ごぼり、と音を立ててそこから泡が逃げ出すだけだった。

 長めの、ぼさぼさの栗色の髪は、もつれ、うねっては視界を遮っていく。

 足を繋ぐ鎖が、ただひたすら水底へと彼を誘う。

 既に意識ははっきりしない。周囲がどんどんと暗くなっていく。身体の感覚が消えていって、全てがぼんやりと曖昧なものに変わっていった。

 そして残るのは、絶望。

 友が、自分を利用した。

 自らの生命(いのち)惜しさに、自分を身代わりに差し出したのだ。

 父も、母も、姉兄も、管理していた漁師たちも、そして友も、全て自分を裏切り、見捨てていった。


 だれも、たすけては、くれない。


 ゆっくりと沈んでいった暗い水底に、赤い光が二つ、周囲を照らしていた。



『……珍しい。人の子が、このようなところまでくるとは』

 声は聞こえない。が、その言葉ははっきりと認識できた。

 ──たすけ、て。

 本能的に、そう求める。

 誰からも裏切られ、見捨てられて、こんなひとりぼっちで死んでいくのは、辛すぎる。

 だが、その声も、あっさりと彼を見捨てた。

『無理だ。そなたは竜王の子だろう。儂が手を出せるものではない』

 ──竜王なんて。

 漠然とした絶望が、憎悪が、嫌悪が、方向性を持った。

 ──竜王なんて、何もしてくれなかった。救けてくれなかった。あんなに痛かったのに! 苦しかったのに! 辛かったのに! 寂しかったのに!

 腹の底が熱くなる、感情。

 それは、死に瀕した恨みとなって、ここに具現化しようとしている。

 だが、どのみちまだ幼い子供のものだ。恨みが世界を侵す規模は、大したものにはならない。

 ただ、ゆらり、と手ではない手を、延ばす。

 黒い、奇妙な形の岩。意思を持つような、赤い二つの光。

 ──たすけて。たすけてくれるなら、何でもする。何だって。

『まさか、竜王への帰属を棄てることができると?』

 ──できるよ。

 それは、自分でも思わなかったほどにきっぱりとした決断だった。

 延ばした手が、岩に触れる。ごつごつとして、冷たくて、先の尖った。

『……よかろう。ならば、儂の眷属となれ。儂はそなたを決して裏切らぬ。そなたを決して見捨てぬ。そなたが、儂を裏切らぬ限りは、吾子(あがこ)よ』

 岩の、尖った部分が、ぽろりと取れた。思わず、それを握り締める。

『そなたに幸運を』

 そして、そこでイフテカールの意識は完全に消えた。




 ぎいぎいと揺れる世界に、ぼんやりと目が開く。

 そこは酷く温かく、柔らかい場所で、彼は両手足を延ばして横になっていた。

 まずい。こんなところを見つかったら、また怒られる。

 その危機感が生じると同時に、一瞬で覚醒し、がば、と身を起こす。

 そして、その場の異様さに、動きを止めた。

 第一に、そこは室内だった。温かく柔らかな感覚は寝台の中にいたためで、今まで感じたことのないそれにまず戸惑う。

 室内自体も、見たことのないものだった。壁はしみがつき、がさついた板のままではなく、薄くアイボリーがかった色の、花の絵の描かれた紙が一面に張られている。彼の胸の高さ辺りから下はまた柄が変わっていた。床にも、色鮮やかな絨毯が敷かれている。寝台の他に、枕元には小さな卓が置かれていて、その艶やかな飴色は本当に木でできているのか、不審に思えるほどだ。

 身に着けている衣服は、一体どんな織物なのか、柔らかく、滑らかで、色鮮やかだ。

 何故、自分はこんなところにいるのだろう。

 そろり、と広大な寝台を横切り、床に足をつける。素足が沈むほどに長い毛足の絨毯に、また驚愕した。

 足音を殺す必要もないが、ゆっくりと彼は手近な扉へと近づいた。

 が、曇りひとつないドアノブに手が触れる前に、それは開く。

 びくり、と一歩退いた彼の前に立つのは、一人の妙齢の女性だ。

 整った顔立ちの彼女は、手を胸の下で重ね合わせ、軽く会釈した。

「あ、あの」

「お加減はいかがですか?」

 丁重に声をかけられて、次の言葉が出てこない。

 彼の姿を一瞥して、彼女は部屋の片隅にあった椅子に座るように、と促した。無言でその通りにすると、後ろからついてきて足元に跪く。

 息を飲み、硬直した足を手に取り、丁寧に室内履きを履かされた。

 そして、別の扉を開き、小部屋から薄い羽織ものを取り出して、彼に着せ掛ける。

 彼は、この頃には意図的に言葉を発せず、されるがままになっていた。当惑したように振舞うと、周囲の大人は大抵激怒したからだ。

「旦那様にお知らせして参ります。少々お待ちくださいませ」

 そして一礼すると、彼女はまた音も立てずに扉から退出した。

 これは、一体どういう状況なのか。

 考えを巡らせるには、おそらく時間がなさすぎる。彼は、そっと椅子から立ち上がった。

 先刻(さっき)、小部屋を開いた時に、その扉の内側に大きな鏡が設えてあるのが見えたのだ。

 更に、室内履きを履くときに見た、自分の足。

 傷一つなく、爪がきちんと整えられて、肌の色さえ以前よりも白く見えた。

 その上、足の裏を触れられた時の弾力。それは、裸足で数ヶ月甲板の上で過ごした、とは思えないものだ。

 静かに、扉を開く。

 そこに映し出された姿に、少年は声を詰まらせた。


 まず、目を引いたのは、髪の毛だった。

 彼の髪は凡庸な栗色で、短いうちからくるくるとよくはねていた。

 だが、今彼の顔を縁取っているのは、細く、しなやかでまっすぐな金髪だ。この数ヶ月伸び放題でもつれ、絡まり、汚れていた形跡は全くない。

 そして、瞳の色も、以前よりも明るい青になっている。

 頬は、前に触ったときはざらつき、骨の形がすぐにわかるほどだったのに、今はふわりとした柔らかさがあり、品のよい曲線を描いている。

 ひび割れ、傷だらけだった指は、まるで生まれてこの方労働などしたことがないような白さだ。

 羽織っていた服を滑り落とし、シャツのボタンを急いで外す。露になった背を鏡に映し出した。

 そこには、鞭打たれた傷など、一片もない。

 まして、肩から胸まで切り裂かれた傷跡など。

「……どうして……?」

 呆然として、立ち竦む。

『……幸運を』

 小さな低い声が聞こえた気がして、振り返った。


「目が覚めたのですって!?」

 瞬間、勢いよく扉を開き、飛びこんできた幼い少女と視線がぶつかる。

 嬉しげな笑顔が、次の瞬間、凍りついた。


「……きゃあああああああああ!」

 半裸のイフテカールを目にして、少女は絹を引き裂くような悲鳴を上げた。





「はっはっはっはっは」

 イフテカールの前の椅子に座った紳士は、大きく口を開けて笑っていた。

 でっぷりとした、体格のいい四十代ほどの男である。濃紺を基調とした服は品がよく、その体型だけではない、裕福さを伺わせていた。

 おそらくは貴族か、商人か。

「いやいや、ルスキニアが失礼をしてしまって、すまないね。いつまでもお転婆でいるから、お客様にはしたないところを見せてしまうのだ。ほら、謝りなさい」

 彼は隣に座っている少女にそう促した。彼女は、まだ俯いたままこちらを見ようとしない。

 イフテカールと同じか、少し年下という年齢か。淡い金髪が、ふわふわと流れ落ちてその表情を隠している。レースやフリルが満載されたドレスは白とピンクの細かい花柄で、酷く可愛らしい。

 二人ともが、イフテカールとは全く縁のない人間であった。

 少女が恥ずかしがっていることは察せられたため、自分もやや俯き加減でいることにする。それならば、考えている間の表情を隠すことはできる。

「身体の具合はどうだね?」

「あ、はい、何とも」

 本当はとてつもない変化を経験していたが、紳士の言うのはそういうことではあるまい。意を決して、視線を前へ向ける。

「……あの。僕は、どうしてここにいるんですか?」


 ふむ、と呟いて、紳士は腕を組んだ。

「挨拶が遅れたね。私はヘミオノス男爵。ここは、私の所有する船だ。この冬、商談を兼ねてフルトゥナのペルロに滞在していて、今は自宅へと帰る途中だった。昨日の午後、君が木材に捕まって湖に浮いているのを、ルスキニアが見つけたのだよ」

 ぽん、と背を片手で押され、少女はようやく僅かに顔を上げて、はにかむように笑った。

「ありがとうございます」

 救けてくれたのか。だが、それだけでは、今の自分の状況は説明できない。

「こちらこそ尋ねてもいいかな。何故、あのような所に?」

「……船が、賊に襲われたので」

 短く、相手の反応を伺いながらそう告げる。まあ、と小さくルスキニアが呟き、男爵も驚いたように目を見開いていた。

「そう言えば、昨日、東の水平線の辺りで、煙が上がっていたな」

 小声でそう独りごちられて、口を引き結ぶ。船に火がかけられたというのならば、もう乗員は殆ど生き延びてはいないだろう。

「甲板から海に落ちてしまって、あとはよく覚えていなくて……」

 俯いたイフテカールを元気づけるように、男爵は片手を肩に置いた。大きな手は、温かい。節ばった指ではあるが、傷などはなく、太い指輪が幾つも嵌められていた。

「ご両親は、その船に?」

「あ、いいえ、郷里に」

 何の気なしに答えたが、ぐっ、と強く肩を掴まれる。

「それは幸いだ! 早く、ご両親に連絡をとって差し上げないと!」

 顔を明るくしてそう言ってくる彼が善良で、好意からの言葉だとは判っているが。

 慌てて、イフテカールは首を振った。

「いいえ! あの、僕はもう五年も前に、家から離れたので。連絡をしても、迷惑が……」

 男爵とルスキニアとが顔を見合わせる。当惑する彼らに、更に身を縮める。

「ご迷惑をおかけしてしまいますが、近くの港で下ろして貰えますか。それまで、下働きでも何でもしますから」

「下働きなんて、そんな」

 思いもしなかった言葉を聞いた、と言う風に、ルスキニアが声を上げる。

「君の着ていた服も、指輪も、それなりに上質のものだった。事情があるのだろうが、話しては貰えないのかね」

 イフテカールは、黙って俯いた。実際、どうなっているのか判らないのは自分もである。

 数分間待って、ヘミオノス男爵は口を開いた。

「次のイグニシアの港には、明後日には着く。それまでゆっくり身体を休めなさい。ここで働く必要はない。着いてからのことは、また相談しよう」

「……ありがとうございます」

 不満そうなルスキニアを促し、男爵が立ち上がる。

「あの、僕の服、と、指輪って……?」

「ああ、衣装室と、机の引き出しにしまってあるよ。酷く濡れてしまっていたので、乾かしておいた」

 それでは後で、と言い残して、親子は部屋を辞していった。


 すぐに、衣装室の扉を開ける。

 中には滑らかな肌触りのシャツとズボンとが畳まれていた。どう考えても、自分が船から湖に落ちるまで着ていた襤褸(ぼろ)ではない。

 唇を引き結んで、ゆっくりと扉を閉める。

 指輪というものには更に心当たりがない。

 意を決して、イフテカールは机に歩み寄った。

 優美な引き出しの中には、柔らかな布の上に一つの指輪が置かれている。

 銀色の、どちらかといえば無骨な印象の指輪だ。蝙蝠のような翼を持った、奇妙な竜の意匠が彫り上げられている。

 そっと、イフテカールはそれを手に取った。

『落ち着いたか、吾子(あがこ)よ』

 突然声が聞こえて、慌てて周囲を見渡す。だが、誰の姿もない。

『儂だ。まさか、忘れた訳もないだろうな』

 その声が凄みを増して、思わずイフテカールは身を縮めた。

「ひょっとして、あの時の……」

 死にかけて、湖に沈んでいった彼に話しかけてきた、何か。

『そなたを救ってやると言った筈だ』

 声が、僅かに柔らかくなった。

「あ、ありがとうございます。でも、どうしてこんなことに……?」

 おそらく、この声の主が、彼をこんなにも変化させたのだ。想像もつかないほど、凄まじい力を持っている。間違っても相手の機嫌を損ねないよう、イフテカールは必死に考えを巡らせた。

『そなた、なんでもする、と申したであろう。儂には、手駒が必要だ。儂を解放するための、手駒が』

「解放……?」

『おいおい話してやろう。時間は幾らでもある。そのために、そなたには幸運を授けた。そなたは世界を掌握し、儂を解放する使命を果たせ』

「世界、だなんて、そんな」

 無理難題、というか、どうやっていいのか考えもつかない。

 焦りと恐怖が心を締めつけて、足ががくがくと震えてきた。

『時間はあると言っておる。何も今すぐなどとは望んでおらん。そなたはまだ幼い。今は学べ。学んで、階位の上層へと入りこめ。儂は、自身で世界を掌握はできぬ。が、そなたを掌握することぐらいは容易い。同様に、そなたも他者を掌握せよ。弱き心に忍び入り、虜にせよ。誘惑する蛇のように。世界を掌握するとは、畢竟(ひっきょう)、人を掌握することと大差ない』

 手が震えているのを察したのか、声は僅かに励ますような響きを帯びた。

『この指輪を決して手放すな。儂の力を籠めてある。そなたの危機を防ぐであろう。吾子(あがこ)よ。だが、同じ失敗を繰り返すでないぞ。儂の力は、無限ではない。全てが果たされたときには、そなたには大いなる報酬を約束しよう』

 震える息を吸いこんで、ゆっくりと吐きだした。

「……あなたの、名前は?」

『龍神ベラ・ラフマだ。吾子(あがこ)よ』




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