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いつか、竜の舞う丘で。  作者: 水浅葱ゆきねこ
贄の章

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176/252

02

 彼と、友が連れて行かれたのは、一(そう)の船だ。

 着ていた粗末な衣類は脱がされ、下帯一本にさせられる。そのまま甲板の上を進み、両脇に作られた漕ぎ座にまずはイフテカールが座らされた。

 この船の漕ぎ座では、二人で一本の(かい)を使うらしい。隣にいた男が、じろりと視線を向けてくる。全身が陽に焼け、髭は伸び放題で、垢じみてもつれた髪が獣のようだ。イフテカールはその姿に縮み上がった。

「ガキか」

 失望したように呟き、男は前を見つめた。それきり、口を開かない。

 おどおどと、イフテカールは更に身体を小さくした。

 イフテカールを連れてきた船員が、無造作に手にしていた鎖を広げ、両端の鉄の輪を少年の足首へと嵌める。

「え?」

 驚いた顔で相手を見上げるが、船員は友を連れてさっさと船の後方へと歩いていった。

 友の、こちらを振り返る、怯えさえ滲んだ表情が、胸に残る。

 唇を噛んで、座りなおす。じゃら、と重く鳴る鎖の意味が全く判らない。目を凝らすと、足環には二つの数字が刻印されていた。

 前に座る男の背には、幾筋もの蚯蚓(みみず)腫れのような傷跡が腫れ上がっていた。周囲に目をやると、他の漕ぎ手たちにも多かれ少なかれその傷はついている。

 風は吹いているのに、周囲には酷い悪臭が漂い、気分が悪くなる。

 こんな場所も、こんな人間たちに囲まれるのも、初めてだ。不安を必死に堪えていると、やがて大きく命令が響き、錨が音を立てて引き上げられた。

 漕ぎ手たちが慣れた動きで、櫂を動かし始める。慌てて、イフテカールも櫂に手を添えた。

 この船は、漁船よりも大きい。漕ぎ座が船倉よりも上であるせいもあり、喫水線からの距離は遥かに長い。自然、櫂を扱うにも力が必要で、それで漕ぎ座は二人組みになっていたのだ。

 隣の男は無言のまま櫂を動かし、イフテカールは懸命にそれに合わせた。

 船倉とは違い、遮るもののない太陽は、じりじりと肌を刺す。濃い栗色の髪はすぐに熱を孕み、少年の意識を揺らせる。何度も目の前が暗くなりかけて、頭を振ってそれを堪えた。

 が、とうとう、ふらり、と上体が傾いだところで、どん、と後ろから背中を蹴られた。はっとして、意識を取り戻す。

 この仕打ちに流石に苛立って、背後を振り向いた。

 しかし、獣のような顔に、ぎらりと光る目で見据えられて、怯む。

「倒れるな。周りにとばっちりがくる」

 聞こえるかどうか、という囁きに、眉を寄せた。

「何を……」

「前を向け。仕事以外には何もするな」

 そう言って、後ろの男は再び膝でイフテカールの背を押した。その強さに、渋々、前へと向き直る。

 数十分後、甲板から鋭い音と、悲鳴が上がった。

「しっかり漕げ!」

 反射的に振り返る。あの、まだ高い声は、まさか。

 船員が、鞭を振り回していた。びしり、と肉を打つ音は、また大きな悲鳴を伴う。

 友の名を叫びかけ、腰を浮かしかけたところを、強引に隣から腕を引かれる。

「動くな!」

「だって」

 反論しかけ、その、獣のような視線に睨み据えられて、言葉が出なくなる。

「お前らは新入りで、目をつけられてる。遅かれ早かれ、ああなるんだ。せめて周りを巻き込むな!」

 低く、怒りさえこもった声で告げられる。

 周囲の男たちは、無言で、しかし明らかに同意するような空気を纏っている。

 鞭は、友の周辺の漕ぎ手にも向かったようで、呻き声が更に増えた。

 再び強く手を引かれて、力なく漕ぎ座に座り直す。

 その後も甲板を歩く船員の視線に怯えながら、彼は夜までひたすら櫂を漕いだ。



 夜になると、昼間の熱気が嘘のように気温が下がり、イフテカールは身体を震わせた。

 食事は、かび臭いパンが一つ。寝床はなく、漕ぎ座で身を縮めて休息を取る。

 頭上には、ただ満天の星空が覆い被さってきている。

 それはひたすら、世界に対する畏怖を呼び起こさせた。

 ……どうして、こんなことに。

 父を、母を、兄弟を、漁師の顔役たちの名を、救いを求めるように口の中で呼ぶ。

 そして、民に加護を与えてくれるという、竜王の名を。

 だがそれに(いら)えは返らず、小さく漏れた啜り泣きは、周囲からの低い怒声に、すぐに消えた。



「ごめんなさい!」

 幼い声が、空に高く響く。

 イフテカールは、翌日には小さな失態でここぞとばかりに鞭打たれた。理由さえ、もう覚えていない程度のものだ。

 だが、あの鞭が鋭く空気を切る音、打たれた後の焼けつくような熱は、これほどの時が経っても、未だ忘れることはない。

 子供の柔らかな背の皮は呆気なく破れ、血が溢れ出す。丸めた身体は、格好の獲物だ。

「や、あ、ごめ、な、うぁああ、やだ、たすけて、たすけ」

 少年は無様に泣き叫び、隠れるように、足元の窪みに小さく蹲る。それを狙う鞭は、自然、周囲の男たちの身体をも掠めていく。

 迷惑そうに、隣の男がさりげなく船縁に身を寄せた。

「ごめんなさ、ゆるして、おねがいだから、もう、やめ、やぁあ」

 鞭が振るわれる度、ささくれた甲板に爪を立てる。棘が刺さる痛みなど、些細なものだ。

 イフテカールは、もう何も考えられない。

 ただ、背中に振り下ろされる暴虐から逃れることだけしか。

 幼い声を張り上げ、闇雲に謝り、卑しく慈悲を請う。

 その態度に満足したか、しばらくしてようやくその責め苦は止まった。

「ほら、怠けるな。さっさと漕げ!」

 罵声を浴びせられても、全く身動きが取れない。上体を起こそうと身体に力を入れると、背の傷が引きつり、痛みが増幅して全身に響くのだ。

 隣の男が元の位置に座りなおし、無造作に爪先でただ呻くだけの少年の身体を突いた。

 嗚咽を漏らしながら、がくがくと震える身体を何とか起こす。力なく、手を(かい)に寄せた。

 隣の男は、イフテカールが殆ど手に力を入れられないことには何も言わなかった。形だけでも漕いでいれば、これ以上目をつけられない。今はそれだけで満足しているのだろう。

 友の声は、一度も聞こえなかった。


 背に貼りついた激痛は肌を腫らし、膿み(ただ)れ、その後何日も彼を苛んだ。更に、塞がる前にまた傷を増やしていく。

 きっとそこは、周囲の男たちの背中のように、ぼこぼことした傷痕が残っていくのだろう。

 その男たちは、イフテカールが鞭打たれている間、ひたすら身を縮め、視線を逸らせていた。運悪くとばっちりを食ったりすると、その後何日も、彼に向かって罵声を浴びせたり、食事を横取りするようになる。

 友も、もうイフテカールの味方はできない。イフテカールがそうであるように。

 傷は、ただ身体に残るばかりではなかった。



 じゃらじゃらと鎖を鳴らしながら、裸足で甲板の上を歩く。

 イフテカールの乗った船は、所謂海賊船ではないようだった。船員たちは荒っぽく、残忍だが、他の船に乗りこんで略奪し、火を放ったりしたことがない。

 専ら人気のない入り江で、島で、沖合いで、荷物の受け渡しをする。

 絶対に人目につきたくないらしい。港に近寄ることは一度もなかった。

 決してまともな商売をしている訳ではない。彼は後々推測して、おそらくは密輸船であったのだろう、と見当をつけた。

 この日も、船倉から木箱を運び出し、甲板へ上げ、また岸へと降ろす作業に、イフテカールたちは汗を流していた。

 船倉から甲板までの間は、通路も階段も狭い。そこは、一メートル程度の間隔で人を置き、木箱を次々に手渡す要領で運ぶ。

 しかし、甲板から岸までは、それぞれ一人の人間が運んでいく。

 イフテカールは、この時、その最後の過程、最も体力を使う作業に割り当てられた。

 そういったところ、彼は要領が悪い。

 大きな木箱は、少年の視界を塞ぐ。前を見るために身体を半ば斜めにして、よろよろと甲板を歩いていると、その視界の隅に一人の男の姿が見えた。

 身を屈め、船首の方へ向かって歩いていく。

 男の背中の傷には、見覚えがあった。おそらく、普段イフテカールの前に座っている男だ。

 彼が向かう方向に、漕ぎ手の仕事はない。不審に思って視線を向けたままにしておくと。

 突然、船縁を乗り越え、男は岸へと飛び降りた。

 イフテカールが息を飲む。

 船の下方、岸の方が突然騒がしくなる。慌てて木箱を床に置き、イフテカールは船縁へと駆け寄った。

 男は、岸に立つ船長や船員たち、取引相手とは少しばかり離れた場所に降り立ったらしい。そのまま、内陸へ向かって走り出している。

 だが、全力で走るには、両足を繋ぐ鎖は短すぎ、彼は時折転びそうになっている。

 鋭い命令が響き、次いで風を切る音が幾つも耳に入った。

 醜い傷痕だらけの背中に、何本もの矢が突き立つ。

 砂埃を巻き上げて、身体が倒れ伏す。

 それでもまだ、この場から離れようと、男は腕の力だけで大地の上を(にじ)った。

 船員が二人ほど、小走りに彼へと近づく。

 そして無造作に短剣を抜き、的確に振り下ろした。

 悲鳴は、すぐに止まった。取引相手の前で、あまり楽しむ訳にもいかなかったのだろう。

 イフテカールは蒼白になってそれを見つめている。

 船縁や岸には、漕ぎ手が何人も立ち竦んでその光景を凝視していた。

「ほら、とっとと運べ! お前らも変な気を起こすんじゃねぇぞ!」

 甲板にいた船員が怒声を上げる。

 イフテカールのすぐ横に立っていた男が、少年の肩を掴み、促した。

「……莫迦な奴だ」

 男は小さく呟く。だが、その手には酷く力が入っていて、イフテカールは何も言えなかった。


 イフテカールがその船に乗っていた間、このようなことは数回あった。

 が、誰も逃げ延びることなどできずに、実に手際よく殺されてしまっている。

 湖に飛びこむ者さえいたが、その場合は船員の手すら必要ない。単純に鎖の重さで沈んでいくだけだ。

 ただ我が身を嘆き、ひたすら竜王に救済を祈っていた少年は、自分を取り巻く状況に、少しずつその心を乾かせていく。

 湖に冬が訪れる頃には、彼は何の感情も宿さない瞳で、櫂を握っていた。



 南方とはいえ、流石に冬はそれなりに寒い。しかも、湖の上だ。

 漕ぎ手たちは、お情け程度の襤褸(ぼろ)を与えられ、それに包まって船を漕いでいた。

 白い息が、目の前を漂っていく。ほぼ骨に皮を纏っただけのように細い指は酷くかじかみ、水飛沫がかからないことだけを切に祈っている。

 そう、今日は雨が降っていないのは幸運だ。

 ぎいぎいと櫂の軋む音が、ずっと耳に残る。

 冬は、さほど監視は厳しくない。甲板に出れば寒いし、鞭打って衣服が破れ過ぎれば、また新しいものを与えなくてはならないからだ。

 それだからと言って怠ければ、殴られ、蹴られ、食事を抜かれる目にあうため、漕ぎ手たちは黙々と仕事をこなしていた。

 船長から、停止の合図が出る。櫂を止め、錨が下ろされた。

 今日は湖上で取引があるのだろう。漕ぎ手たちはいつものようにぞろぞろと船倉へ向かい、積荷を甲板へと運ぶ作業に移る。

 この寒さの中、全身に汗をかき、荷運びをしていると、遠くから一艘の船が近づいてきた。

 船員たちがほっとした顔で、それを見つめている。

 帆柱の上で周囲を警戒していた船員が、声を上げた。

「違う! あれは、客じゃねぇ!」

 一瞬の沈黙の後、甲板上に怒声が響く。

「全員配置につけ! 逃げるぞ!」

 大勢の人間が、一斉に駆け出す。その只中でおろおろとしていたイフテカールが、罵声と共に乱暴に漕ぎ座へ押しやられた。

 漕ぎ手たちは、定位置ではなく、手近な場所に、とりあえず二人で座っては櫂を手にしている。

 するすると上げられた帆が、風を孕む。

 船が動き出してからも、船倉にいた漕ぎ手たちがイフテカールたちの横を慌てて走っていた。

「何があったの?」

 小声で、隣の男に訊く。

「聞こえただろう。客じゃない船が、こっちに向かってる。全く無関係な船なのか、どこかの国の取締りなのか、それとも賊か」

 素っ気なく、男は答えた。

「それだと、どうなるの?」

「追いつかれれば、大体戦いになるな。おとなしく捕まる莫迦はいない。取締りだったら、俺たちは解放される可能性はあるが、賊だった場合、また売り飛ばされるだろう。まあ、戦いで死ななければだが」

「戦いって、僕たち、ナイフも何も持ってないのに」

 息が詰まりそうな気持ちで、イフテカールが呟いた。

「巻きこまれないように逃げ回るしかないだろう。まあ、船に追いつかれないことが一番だ」

 解放されたくない訳ではない。だが、彼らは既に、希望を持つことを忘れている。

 不安に押し潰されそうになりながら、懸命に櫂を漕ぐ。

 焦る漕ぎ手たちは、動きが合っていない。船は頻繁に揺れ、背後の後甲板から、積み上げた荷物が崩れる音が聞こえた。

 どれほど漕いだだろうか。突然、がくん、と何かにぶつかったかのような衝撃が船を襲った。

「引っ掛け鉤だ! 外せ!」

 船員がばたばたと走っていく。

 追ってくる船から、鉤が投げられたのだ。それは船縁に食いこみ、船に据えつけられた巻き上げ機を回すことによって、追っ手はじりじりと近づいてくる。

「綱を切れ!」

 斧を叩きつける音が響く。綱だけでなく、木が割れる音もしていた。

 しかし、それは間に合わない。やがて、冬の空に高い歓声が響いた。

 背後の船から、数人の男たちがこちらの船へ飛び乗ってきたのだ。

「殺せ!」

 船長の命令が響く。

 船員たちが剣を抜き、迎え討つ中、漕ぎ手たちは櫂を放り出し、その場から逃げ出した。

 戦いから遠く、船首の方向へ向かう途中、イフテカールは突然手を掴まれる。

「イフテカール!」

 悲鳴を上げかけたところに、懐かしい声が聞こえた。

 泣き出しそうな、安堵したような顔は、友のものだ。陽に焼け、痩せ細り、目が落ち窪んでいるせいで大きく見えているが、確かに。

「ど、どうしよう」

 イフテカールも安堵して、少し涙が浮かんでくる。

「船倉に逃げよう」

 が、友は、きっぱりとそう提案した。



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