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いつか、竜の舞う丘で。  作者: 水浅葱ゆきねこ
贄の章

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175/252

01

 その少年は、カタラクタの南方、ほぼフルトゥナとの国境近くの村に生まれた。

 両親は地主の下で小作に励む農民だった。ささやかな畑と幾頭かの牛や馬を飼い、何とか暮らしていくのが精々だった。

 その少年が生まれた頃は、酷い飢饉が続いていた。少年の上には三人の兄や姉がいて、彼らも両親と共に懸命に働いてはいたが、それでも食べていくことすら難しくなりつつあった。


 少年が親に売られたのは、大体五歳の頃だった。

 当時はよくあったことである。食い扶持を減らさなくては、家族全員が飢えて死んでしまうのだから。

 人買いは、愛想よく両親に話していた。

 曰く、漁師ならば食いはぐれることはない。陸の恵みが失われつつあっても、海や湖の恵みはそうそうなくならないのだ。湖の漁師ならば、朝に漁へ出て、午後には帰って来られる。楽なものだよ。

 少年は、駄々をこねることはなかった。生活が厳しいことはもうよく判っていたからだ。

 それに、食いはぐれることがない、というのは確かに魅力的だ。前の冬には、彼らは木の根まで掘り起こしてかじっていたのだ。

 幾ばくかの硬貨を受け取った両親は、代わる代わる少年を抱きしめた。兄や姉も、涙を浮かべて彼を抱きしめ、頭を撫でた。

 もう二度と会うことはないだろうから。

 人買いに手を引かれ、街道の傍に停めてあった馬車に乗せられる。

 荷台には、もう数人の子供がおとなしく座っていた。

 皆、口数は少ない。少年も、特に喋る気分ではなかったため、黙って荷台の隅に腰を下ろした。

 ごとごとと街道を進み、夜には人買いが手ずから食事を作ってくれた。

 少なくとも、腹いっぱいではないにしろ、何かを食べられる。

 それだけで、子供たちは不安を押し殺していた。


 数日、そのような日を過ごし、彼らは街に立ち寄った。

 小さな農地から出たこともなかった少年には、街の周囲に巡らせた石壁が、酷く威圧的に映った。

 尤も、中に入ることはなく、街に近い街道で、他の馬車に移動させられたのだが。

 彼を買った人買いは、すぐにまた他の子供を買うためにここを発つのだという。

 みな元気でやれよ、と言って、僅かに笑みを見せ、男はすぐに馬車に乗りこんだ。

 幾度かそうやって馬車を乗り換え、子供たちの顔ぶれも時折変わり、そして少年は湖近くの街へと運ばれた。

 街の中に入るのは初めてだ。子供たちは幌の後ろから顔を出し、目を輝かせて流れる街並みを見つめていた。

 後になって思えば、そこはさほど大きな街でもなかったが。

 彼らが降ろされたのは、仲買人のところであった。

 薄汚れた服を脱がされ、風呂に入れられる。皮が剥けるのではないかと思うほどごしごしと肌を擦られた。

 与えられた衣服は、先ほどのものと大して変わらない質素なものだ。ただ、汚れは落としてあり、嫌な臭いもしない。

 そして、そのまま広い部屋に連れて行かれた。

 煙草の煙と酒精の匂いの籠もる部屋へ。

 部屋に置かれた机には幾人もの男たちが座り、その手にジョッキを握っている。

 おどおどと姿を見せた子供たちに、厳しい視線を向けた。

「ちびばかりじゃねぇか」

「ある程度大きくなった子供は、労働力になるからあまり手放さないんだよ。もうずっと前からだ、判ってるだろう」

 ある男がむっつりと零した言葉に、仲買人らしい男が宥めるように返す。

「いねぇよりましだろ。安くなるんだろうな。ちびなんだから」

 横合いから、他の男が口を挟んだ。

「勘弁してくれよ」

 仲買人が眉を寄せて呟く。

 一人の男が、少年の腕を掴んだ。

「細いな」

「たっぷり食わせて貰ってるなら、こんなところには来る訳ねぇだろ」

「違いねぇ」

 げらげらと笑う男たちを、少年は静かに見返してた。

「度胸はありそうだな。お前、名前は」

 腕を掴んだままの男が尋ねてくる。

 少年は、短く一言だけ、告げた。


「イフテカール」



 イフテカールが買われたのは、湖の漁師を束ねる、組合のような組織だった。

 流石に身体が小さすぎて、すぐに漁に連れ出されることはなかった。彼の仕事は、彼自身が住まわされた宿舎の雑用と、漁船が戻ってきた後の荷運びや掃除などだ。

 家族でいた時にはまださほど仕事をしていなかった彼の手は、すぐにひびわれ、傷だらけになった。身体も小さく、作業に時間がかかるイフテカールは気の荒い漁師たちに、しょっちゅう怒鳴られ、叩かれ、蹴られていた。

 大人たちは手加減をしてはいたのだろうが、それでも少年には辛い日々だ。

 それでも歯を食いしばり、イフテカールは耐えた。

 まだ幼い彼は、他にどうすることもできなかったから。


 飢えることは、確かにまずなかった。主な食事は魚で、内陸出身のイフテカールには物珍しかったが、すぐに慣れた。

 それでも、飢饉の噂は流れてくる。

 穀物や野菜が値上がりし、牛や豚の肉が手に入らなくなり、衣類までも新調できなくなる。イフテカールは、何歳も年上の漁師のお下がりを着ていたが、サイズが全く合わず、袖や裾を捲り上げ、あちこちを結んでいた。

 今年の冬に、農村でどれほどの餓死者がでるだろうか。

 そんな声が、怯えと共に囁かれた。

 イフテカールはただ、家族の無事を竜王に祈った。



 そして、十歳になった春、彼は初めて船に乗せられた。

 ぎしぎしと軋む甲板の下、大人の男ならば身を屈めなくては入れない船倉に座り、(かい)を漕ぐ。

 灯りはない。港を出たのは、早朝とも言えない夜明け前で、櫂を船の外に突き出している穴からぼんやりとした光が滲んでいるだけだ。

 この時代、船に帆はついているものの、それを活かすための技術はまださほど発達していない。何より風がない時の為に、漕ぎ手の存在は必要だった。

 船の清掃もやっているし、港町に住んで、生臭い空気にも慣れた。

 だが、この、空気の淀んだ船倉では酷く臭いが籠もる。船に染みついた魚の腐った臭いに、船を漕ぐ男たちの体臭が混じり、イフテカールは何度か眩暈で倒れそうになった。

 漁場に着き、甲板に出た時にふらついていたのは、別に船酔いをしたからではない。

 船べりにもたれ、熟練の漁師が数人、網を湖面に投げるのを見守る。

 見事に大きく広がった網は、夜明けの光にきらきらと煌きながら湖に沈んだ。

 それを引き上げるのは、乗員全員の仕事だ。イフテカールも網を手にし、水と魚と水草で重みを増したそれを懸命に引き上げた。春先の湖はまだ酷く冷たく、すぐに指先の感覚がなくなっていく。

 甲板でびちびちと跳ねる魚を取りこぼさないように集め、箱に入れる。数度、そんなことを繰り返した後、再び彼らは船倉へ入り、今度は港へ戻るために櫂を手にした。


 港に着いたのは、まだ昼には遠い時間である。

 市場へ運ぶ馬車に魚を積みこんで、ようやく一息つく。

 そこそこの成果だったからか、おつかれさん、と珍しく上機嫌で漁師たちが声をかけていった。

 このまま宿舎で寝台に倒れこんでしまいたかったが、彼には数々の雑用が残っている。まだ、一人前の漁師ではないからだ。

 それらを片づけてから、イフテカールはそれこそ泥のように眠った。



 時化(しけ)の日には、漁に出られない。イフテカールは、小屋の一つで魚網の繕いをしていた。

 一緒に作業をしているのは、同時期に買われた、同じぐらいの年齢の子供だ。

 親は樵と猟師をしている、と言っていた。やはり食い詰めて、ここへ売られたのだ。

「なあ、知ってるか、イフテカール?」

 楽しそうに、彼は声をかけてきた。

 当時の数少ない友は、もう名前も思い出せない。

「何だ?」

 無造作にイフテカールは返した。

 普段なら、こんな雑談をしていたらどやされるのだが、今日は一日雨模様だ。漁師たちは、酒場で飲んだくれている。子供たちはのんびりと仕事を進めていた。

「スクリロスの方で、海賊が出たんだってよ」

 僅かに声を潜め、友はそう告げた。

「……湖に?」

「揚げ足をとるなよ」

 頬を膨らませて言い返してくる。イフテカールは小さく笑った。

「どうせ、イグニシアの奴らなんだろ。海にいる海賊はあそこが本場だしな。湖に出たって、おかしくない」

 横から、少し年上の少年が口を挟む。

 海賊、などという存在は、彼らにとっては御伽噺のようなものだった。イグニシアという国はあまりに遠い。

 スクリロスは、彼らの住む街から一つ北側の藩だが、それですら彼らは訪れたことのない土地なのだから。

 港で耳に挟んだ様々な噂話を披露しあいながら、彼らは手を動かし続けた。



 それから三ヶ月ほどが経ち、そんな話も忘れかけていた頃のことである。

 早朝に、いつもの漁場に向かっていた船は、突然櫂を漕がせるのを止めた。

「どうした?」

 後ろで漕いでいた男が、大きく声を上げる。

「漁場に、船が泊まってる」

 甲板から船倉を覗きこんだ形で、一人の男が返してきた。

「先客か?」

「そうじゃない。なんだか、上等な船だな。貴族か商人のものだろう」

 夜間に湖を渡るのは危険だ。航行中でも、船は夜には錨を下ろして停泊する。

 ここから、彼らが出発してきた港までは数時間、というところだ。停泊するには中途半端な場所ではある。

 が、まあありえないことではない。

「で、どうするんだよ」

「どのみち、ここに他の船がいるんじゃ、漁はできないからな。別の漁場に向かうか……」

 後半、声が遠ざかる。

「何だよ」

 苛々と、男は問い詰めた。また櫂を漕がなくてはならないのが、不満なのだ。

 僅かでも休みが取れて、イフテカールなどは嬉しかったが。湖水に流されないようにだけ、櫂を押さえている。

「いや、北から船が」

 不審そうな声が、前よりも微かに聞こえてくる。

 それから数分、何の言葉も返ってこない。漕ぎ手の男は一つ舌打ちして、他の男たちの隙間を身を屈めて通り抜けた。そのまま甲板へとあがっていく。

 やがて驚いたような怒鳴り声と共に、横合いから船に大きな衝撃が加わった。


 甲板の上を、どたどたと走り回る音が響く。

 怒声には、やがて悲鳴が混じる。

 それらはどう考えても、元々甲板にいた漁師たちの数よりも、多い。

 罵声を上げ、漕ぎ手の男たちが次々に船倉から出て行く。

 目を見開き、動けなくなっていたイフテカールの手を、誰かが引いた。

「こっち!」

 暗がりを見透かせば、それは友の手だ。

「隅っこで隠れてたら、見つからないよ」

 固まったままのイフテカールを強引に引き寄せる。

「見つかる、って、一体なにが」

 混乱して、少年は呟く。

「海賊なんじゃないかな」

 至近距離になって、闇の中でも表情ぐらいは読み取れる。友は、真剣な顔でそう言った。

「海賊?」

「だから、見つからないように隠れてなくちゃ。静かに」

 それきり、二人は身を縮め、息を潜めていた。

 甲板での騒ぎは、さほど長くは続かなかった。三十分もしないうちに叫び声は上がらなくなり、足音は静かなものに変わる。

 やがて、誰かが荒々しく船倉へ降りてきた。

「おい。まだいるんだろう。出て来い」

 聞き覚えのない声だ。二人は、更に身を寄せ合った。

「殺しゃしねぇよ。おとなしく出てくればな。だが、この船はもうじき沈めるから、そうしたらこのまま死ぬぞ」

 そこで、少年たちは顔を見合わせた。港町で暮らして数年、泳げるようにはなっている。

 だが、岸から船で数時間も離れたところで、しかも沈んでいく船倉の中から逃れ出て生き延びることができるとは思えない。

「……判った。今出る」

 どうしようもなくて、彼らはそう答えた。


 甲板には、見知らぬ男たちが十人ほどいた。全員が、剣や斧などを身につけている。

 漁船の横に横づけされた船からは渡し板がかけられている。

 そして、漁師たちは甲板の後ろの方に一塊に座らされていた。手首を縛られ、侵入者を睨みつけている者や、力なく俯いている者など、様々だ。

 彼らは、乗りこんできた者たちに抵抗したのだろう、魚網や銛、鉈や短剣などが、あちこちに散乱していた。

「海賊……」

 友が、小さく呟いた。

「武器を出せ」

 面倒くさそうな顔で、侵入者の一人が命令した。

 二人は、小さなナイフをベルトから外す。

「そっちに行って座ってろ」

 顎で、漁師たちを示す。とぼとぼと甲板の上を歩き、隅に小さくなって座った。

「俺達をどうする気だ!」

 憎々しげに、一人の漁師が吠える。

「船長が戻ってから決める。まあ、昨今はどこも人手不足だからな。大方どこかに売っ払うんだろうよ」

 漁師たちの顔が、絶望に染まる。

 イフテカールは、一度売られたことがある。今後の予測がついて、彼はむしろほっとした。

 その後小一時間ほどして、離れたところに停泊していた瀟洒(しょうしゃ)な船から、一隻の小舟がこちらへ戻ってきた。数人の水夫と、やや上等の衣服を着た男が、隣の船に上がってくる。

「どうでした、船長!」

 大声で、海賊の一人が尋ねた。

「上々だ。そっちの首尾は?」

「全員捕まえてまさぁ」

 威張るように報告する海賊に、船長は頷く。

「何人かそっちに残して、後についてこさせろ。商品から目を離すなよ」


 そうして、イフテカールは再び売られることとなった。




 漁師の元で働いているときには、彼を買うために支払われた金が、いわば借金のように課せられていた。

 だが、衣食住にさほど不自由はしなかったし、給金も小金程度ではあるが与えられていた。仕事さえ終わらせていれば、街へ出ることだってできたのだ。

 漁師たちは厳しく、理不尽な仕打ちにも感じられたが、それは全て少年たちが仕事を覚えるための行動だった。昔、彼らと同じように買われた子供が、成長して自分の船を持った、ということさえあったと聞く。

 イフテカールらの将来は、決して暗くはなかった。この日までは。


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