13
静かに、足を進める。
ただの人間であったことなど、もう数百年も前のことだ。身体が上手く動くかどうか。
だが、こちらは二人。向こうは一人きりで、しかも龍神の像を持っている。実際のところ、かなり重い。あれを奪われないようにと思えば、動きは自然と制限される。
ところが、大公はひらりと片手を振った。
「逸るな。私は、別に、お前たちと戦いたい訳ではない」
「お前に理由がなくても、こちらにはある」
ただそう告げる。足は止めない。
「戦う相手は他にいる、と言っているのだよ」
意味ありげに大公が笑う。
その態度に、苛立ちが募った時に。
礼拝堂の、長辺側の外壁が、轟音を立てて崩れ落ちた。
壁の外の僅かな灯りに、その穴の向こう側に立つ男の金髪が微かに光る。
瞬間、その身体の後ろから、立て続けに矢が放たれた。
素早く向き直ったエスタがそれを叩き切る。
そのうち一本は逃したが、イフテカールは身を屈め、難なくそれを避けた。
「……何故、こんなところに」
低い視点から敵を睨み据え、龍神の使徒は呟いた。
大きく開いた穴から、用心深く、次々に人影が入ってくる。
一際小さいそれが請願を呟き、次の瞬間、礼拝堂の天井近くに直径五十センチほどの火球が発生した。
イフテカールとエスタが息を飲む。
その赤々とした光に照らされた侵入者たちは、内部を一瞥し、それぞれ何とも言えない表情を浮かべている。
「久しぶりだな、倅」
つい先日会ったばかりだとでも言うように、軽く大公が口を開く。
「……やっぱり親父か……」
一方で、疲れたようにアルマが肩を落とした。
あからさまにグランは顔をしかめている。
「それを手に入れたら、早々に逃げるか隠れるかしろと言っておいただろう。どうして今でもここにいる?」
大公は僅かに首を傾げる。
「私も、たまには最後まで成り行きを見届けたいのですよ、グラン」
「どうしてお前の一家は、いつも僕の言うことを聞かないんだ?」
胸の前で腕を組み、ほとほと呆れた様子で、幼い巫子が呟く。
大公とその息子が、揃って心外だという表情で彼に視線を注いでいた。
「何故、貴方がたがここにいるのですか! それに、どうやって、御力を使うことができている!?」
堪りかねて、イフテカールが問いただした。
薄く、グランは笑みを浮かべる。
「いつまでもアルマが半人前だと思うな。こいつは、こう見えて学習が早いんだ」
「微妙な褒め方をしないでくれ」
憮然として、アルマが呟く。
「あと、僕がこの場で御力を使えることに、一体何の疑問があるんだ? その男が打ち消すことができるのは、〈地獄〉に由来する力のみだというのに」
それに思い至らなかったことに、歯噛みする。
竜王の御力も、龍神の御力も、そして〈魔王〉の魔力も、現世に出現する現象は、一見、同じように見える。だが、その出自は全く違うものなのに。
しかし、そうすると、この場は酷く不利になる。
今や、相手には五人の戦力が加わり、しかもその内四名は竜王の御力を振るうことができる。
そして、大公の手には、相変わらずあれが握られたままだ。
窮地に陥ると、大抵はあっさりと引き上げ、その後巻き返しを図ってきたイフテカールではあったが、今、この状態でそれができないことぐらいは判っている。
小さく唇を噛む。
敵に前後を挟まれて、どうやって勝機を見出せばいいのか。
静かに、エスタは巫子たちへ向かって剣を構えたままでいる。
焦る青年と、半ば悠然とそれを見つめる巫子たちに、思わぬ事態が持ち上がるのはこの直後のことだ。
「一体何をやっているの!?」
細く開いていた礼拝堂の扉を開き、更なる闖入者が現れたのだ。
ステラ王女は、憔悴していた。
父であるイグニシア王の容態が回復しないのだ。
我儘で奔放で残酷な王女である彼女だが、父親を慕う気持ちはそれとは矛盾しない。
王室づきの医師を叱咤し、病床に厄介な問題を持ちこもうとする貴族たちを退け、努めて明るく父と会話を交わす。
今までならば、王は数日で少なくとも床から起き上がることはできた。
だが、今回はもう一ヶ月以上にもなる。
どれほど意思が強いと言っても、ステラはまだ十八歳の少女である。しかも、特に政治的に鍛え上げられた訳ではない。言ってみればただ気の強さだけでここまでの振る舞いを続けているだけだ。
流石に、焦燥が神経を蝕む期間が増えていく。
「……イフテカールがいてくれれば……」
知らず、彼女は小さく呟いた。
が、次の瞬間、そんな自分を疑問に思う。
確かにイフテカールは気心の知れた相手だ。彼女の嗜虐性を眉一つ動かさずに受け入れ、それを滞りなく進めるための手際は、他者は到底及ばない。そう、良く言っても彼は共犯者である。
こんな時に、心細さを埋めるための相手ではなかった、筈だ。
……そもそも、彼は一体この王宮でどんな立場にいたのだ?
不意に、違う方向からの不安が過ぎる。
ここ数年、彼はステラの愛人同様に目されていた。
では、それ以前は?
ずっと、幼い頃から王宮にいたような記憶もある。その頃は彼は何をしていたのだ?
そして、その頃の彼が、今と寸分違わない容姿であるのは、どういうことだ?
馬鹿馬鹿しい。溜め息をついて、思考を振り払う。
貴族であれば、見た目が若々しい男など結構いるものだ。それに、幼い頃の記憶が確固たるものである、とも思えない。色々と入り混じってしまっているのが当たり前なのだから。
頭を振って、立ち上がった。
今夜も眠れる気がしないまま時間は過ぎ、もうすぐ夜明けを迎えようとしている。
彼女は、今までの人生で信心深かったことなどあまりない。
だが、かなり心が弱っていたステラは、ほんの思いつきで竜王宮へ祈りに行こう、と考えた。
しかし今から王都の竜王宮へ行くのは難しい。門も開いていないし、そもそも火竜王宮と王家とは仲が悪いのだ。
無論、ごり押しはできるが、今のステラはそこまでするほどの気力がなかった。
確か、王宮内にも竜王宮の建物があった筈だ。
老朽化から、随分昔に閉鎖されてはいるが、竜王宮には違いない。中に入れなくても、その傍で祈れば、竜王には届くのではないだろうか。
そう楽観的に考えて、彼女は一人、自室を出て行った。
誰とも顔を合わせたくなくて、一人きりで。
そんなことをここしばらく繰り返してきたステラが、この夜、この場に居合わせたのは酷く不運なことであった。
イフテカールが、カタラクタの戦場だけではなく、王宮にもっと目を配っていれば、防げた事態かもしれない。
「……ステラ」
アルマが、呆然として名前を呼ぶ。
「イフテカール! 貴方、今までどこをふらふらしていたの? それに、アルマ、貴方も何ヶ月も前にいなくなって、いきなり戻ってきてるとか、一体何を考えているのよ! どうせ、この大穴も貴方がやったんでしょう!?」
「いやそれは俺じゃなくてさ」
焦燥と不安が、八つ当たりとなって彼らに向けられる。反射的に、アルマは素でそれに返していた。
元々、ステラにはアルマやグランがカタラクタで叛乱を起こしている、という情報は渡っていない。彼女が知っているのは、彼らが初冬の頃に王都から姿を消したことだけだ。
「……うわ」
呆然としていたオーリが、小さく呟いた。耳聡く、ステラはそれに気づく。
「ノウマード……」
その妖艶さを滲ませる唇に、名前を乗せる。以前、吟遊詩人として王女と関わった青年は、僅かに天井を見上げた。
「……まあなんだ。幸運を祈ってやるよ」
アルマが囁く。
「その思いやりを、もう少し具体的な行動で示して欲しいね」
オーリが小さく毒づいた。
「そう。彼を連れ帰ってきたのね。それに関してはよくやったわ、イフテカール。でも」
「控えなさい、ステラ」
ねっとりと、絡め取るような声を、高圧的にイフテカールが諌める。
ステラはぴたりと口を噤んだ。
「ここは危険だ。部屋へお帰りなさい」
「嫌よ」
イフテカールが命じるのを、しかしきっぱりと拒絶する。
困ったように、細い金髪を揺らし、青年は竜王の巫子たちへ視線を向けた。
「私としては、彼女を巻きこみたくないのですが、貴方がたは?」
「それは、こちらも同様だ。その跳ねっ返りには、できれば無事でいて貰いたい」
むっつりと、グランが返す。
「一つ提案なのですが。彼女の身柄は、レヴァンダル大公へ任せる、ということで如何でしょう」
指を一本立て、イフテカールは提案した。グランが眉を寄せる。
「何を企んでいる?」
「余計な邪魔をされたくないのですよ。貴方がたの、王女を傷つけたくない、という意思を信頼します。我らにとっても、彼女は大事な存在だ。もしもこの私の言葉が嘘だったとしても、あの像が大公の手にある以上、そうそう二人に無茶な真似もできません。我々と貴方がた、どちらか勝った方が、王女の祝福と石像を得ることができるのです」
「前者は特に必要ないな」
あっさりと幼い巫子は告げた。
彼は、まだ疑り深い表情を崩していない。
「ステラがここを通れるよう、我々は奥の方へと移動しましょう。貴方がたも、そこから動かずにいて頂きたい」
イフテカールたちは、階段の正面にいる。ステラが近くを通るときに何かされては、という懸念を、先回りして潰してくる。
何か、裏がある。
その思いを払拭はできないが、しかし、それが何なのかが判らない。
巫子たちが反対することを見越しての策謀かもしれないのだ。
ちらり、と大公の様子を伺う。男は片手を石像に置いたまま、小さく肩を竦めて見せた。
やがて、明らかに渋々と、グランはその提案を了承した。
警戒をしつつ、イフテカールとエスタがゆっくりと後退する。
彼らは今、アルマと同様に魔術を使用できない筈だ。十数メートル離れてしまえば、ステラや大公に対する脅威ではない。
「ではステラ。上へ」
「……はい」
イフテカールの声に対し、従順に、ステラが足を踏み出した。
その様子を注意深く見守っていると、背後から袖を引かれる。
振り向いた先で、ペルルがこちらを見上げてきていた。だが、視線が合うと僅かに俯く。
「あの、方は……?」
「ああ、ステラ? イグニシアの王女だ」
王女様、と呟いて、ペルルは目の前を進むステラに顔を向けた。
「お綺麗な方ですね」
「あー。うん。そうかな」
曖昧に濁す。
ステラの艶やかな黒髪は、明け方のせいかまだ結い上げられておらず、背中に長く波打っている。肌はそれこそ透き通るように白い。堂々とした姿勢は確かに高貴な血筋のものだろう。豪奢な、毛皮のついたケープを纏い、かつん、と靴の音を響かせながら階段を上がっていく。それらには染みの一つもみられない。
ほんの一時間前には、自分たちは戦場で血と泥に塗れていたのに。
ステラの佇まいを見ると、どうにも自分がここにいることが場違いに思えてしまう。
「あの……、王女様が、貴方の許嫁だったりしたことが、あるのですか?」
「は?」
突拍子もないことを尋ねられて、漏れた言葉はそれだけだった。
ペルルは更に俯いて、小さくつけ加える。
「だって、凄く親しいような口調でしたから」
三ヶ月以上も会ってなくて、再会したらいきなり怒鳴りつけられるというのは親しい間柄なのだろうか。
人間関係というものがまだよく飲みこめていないアルマは、少しばかり疑問に思う。
「生まれた時からの知り合いでは、ある。だけど、親しくは、ない。絶対に」
そこはしっかり否定しておきたくて、断言する。その言葉の強さに、ペルルは疑問を持ったようだった。
「そうなのですか?」
が、アルマの言葉を疑う、というよりは、予想と違って戸惑っている、というようだ。
「どちらかというと、怖くて近づきたくない相手だよ。……親しい、って言うなら、オーリの方がよっぽど親しい」
「ここでその話を再燃させるのはやめてくれないか」
姑息にも、クセロの身体を盾にするようにその後ろに移動していたオーリが、アルマを睨みつけながら囁く。
そこで、この旅が始まった当初に聞かされた、オーリとステラの間の話を思い出したのか、ペルルは納得したように顔を明るくする。
ほっとしたところで、ステラは二階へと辿り着いていた。どうやらオーリの声は聞こえていなかったか、その名前を『ノウマード』と関連づけなかったか、どちらかのようだ。
「やあ、ステラ。しばらく見ない間に、また美しくなったものだ」
「ご無沙汰しております。おじさま」
驚嘆したような笑みを浮かべると、礼儀正しく片手を差し延べ、レヴァンダル大公は王女を出迎えた。その二人のいる場所だけが、まるで社交界の一角のような状況になっている。
ステラが無事に大公の傍に立つと、他の者たちの関心は自然と互いへと移った。
ぱん、とイフテカールがひとつ手を叩く。
「さて、それでは一度仕切り直しましょうか」
「そんな手間をかける必要はない」
憮然として、グランが断言した。
今、竜王宮側は優位に立っている。戦場では足枷だった兵士たち、一般の民もここにはいない。
絶対的な力の差で押し潰す、という手段が取れるのだ。
「まあそうおっしゃらず。戦争でさえ、事前に協議の時間は取れるではないですか」
「それは昨日のうちに済んでいる」
グランの言葉は、全く妥協を寄せつけない。
「私の要求は、あの石像をこちらへ渡していただくことだけです」
何か口にしかけた巫子たちを、軽く片手を見せて制する。
「もう少しお聞きください。そうして頂ければ、私は一切の示威行為から手を引きましょう。勿論、カタラクタに駐留している軍隊は引き上げさせますし、できる限り休戦協定を穏やかなものにさせますよ」
ペルルが、僅かに身体を強張らせた。
故郷であるカタラクタ王国の安寧は、水竜王の姫巫女の強い願いだ。
「永遠に、か?」
抜け目なく、グランが尋ねる。イフテカールは小さく肩を竦めた。
「最低でも、百年。それだけあれば、貴方がたや、その愛する者たちは皆この世界に存在はしないでしょう」
「それを、竜王の巫子の前で言うのか? そうでなくても、百年の寿命など、僕とオーリには当て嵌まらないな。話にならん」
片手を振って、幼い巫子は拒絶した。
「では、今度はこちらの要求だ。その、龍神ベラ・ラフマを、この世界から消滅させる。永遠に」
一瞬で、イフテカールの顔が強張る。
「おとなしくそれを受け入れれば、お前たち下僕の生命だけは救けてやってもいいぞ」
残忍な笑みを浮かべるグランに、長く、龍神の使徒は息を吐いた。
「なるほど。判りました」
言葉だけは殊勝な返事に、しかしグランは表情を変えない。
「話にならない、とはこういうことなんですね。では、決裂の手段を決めましょうか」
「……お前たち実は気が合うんじゃないか?」
アルマが、急に疲労を感じて呟いた。




