09
震える息を、大きく吐き出す。
ぐしゃぐしゃになった顔を、乱暴に袖で拭った。
ずっと掴んでいた死者の手を、そっと彼の胸へと置く。反対側の手も取って、簡単に重ね合わせた。
「……テナークスは、俺を、ただの子供を、レヴァンダル大公子を、お飾りの指揮官を、そうは扱わなかった」
「ええ」
静かに、ペルルが頷く気配がする。
「二人で、野営地を抜け出してから帰った時、実は結構怒られたんだ」
「でしょうね」
まだ吐息は震え、そして声は掠れている。
強張る唇が、笑みの形に動いたことを、祈る。
「いつだって真っ直ぐで、自分を曲げなくて、でも自分の誤りをちゃんと認めて、頭を下げてくる。俺は、ただの、何も知らない子供でしかないのに」
そうだ。何も知らない。
誰かが自分の意思の元に生命をかけるということの重さを、何も。
オーリが、叛乱を起こすことで民が死ぬ、ということを、どれほど厭うて反対していたのか、その気持ちが今は少しだけ沁みた。
「俺の行動を見て、俺を認めてくれた人だった」
当時、一番近くにいたエスタでさえ、しなかったことだった。
「ええ。私も、知っています」
彼女にも、何かあったのだろうか。この男との、深い思い出が。
そうであればいい、と願う。
寄り添ってくれるペルルの温かさが、嬉しい。
だが、アルマはそっとその手に触れ、自らの腕から外した。
「俺、もう行くよ」
ペルルの頬にも、涙の跡がある。だけど、彼女は穏やかに笑んだ。
「はい」
もう一度、テナークスを見下ろした。乱れて額にかかっていた前髪を、軽く撫でつけておく。
そして顔を上げて、周囲を見回す。サピエンティア辺境伯は、少し前に櫓へと戻っていった。誰かが、戦況を把握しなくてはならない。責めるつもりなど、微塵もなかった。
周囲にあった人だかりは減り、忙しげに兵士が動き回るようになっている。その向こう側に、レグルスの姿があった。誰かが城砦へ知らせたのだろうか。呆然として、こちらを見つめている。
彼なら、テナークスの遺骸を悪いようにはしないだろう。
軋む膝で、無理矢理立ち上がる。
当然のようにペルルも立ち、そして改めてその手を腕に添えた。
北門へと向かう二人の前に、憮然とした顔で、グランが佇んでいた。その傍らにはプリムラの姿もある。
「……止めるなよ」
低く、呟く。小さく溜め息をつき、片方の眉を上げて火竜王の高位の巫子は口を開いた。
「止めるに決まっているだろう」
そして、手袋を嵌めた手を差し出す。掌を上に向けて。
「ペルル。こちらへ」
「……え」
きょとん、として、ペルルが小首を傾げた。
「戦場の只中へ、貴女を進ませることは許可しかねる」
生真面目な顔で、グランが告げた。ふわりと笑みを浮かべて、ペルルはあっさりとアルマから手を離す。
「宜しくお願いします。グラン様」
明らかに低い位置にある手に、その白い掌を乗せた。
なんとなく釈然としないアルマに、プリムラが手を突き出した。
「顔を拭け。酷いものだ」
グランがぶっきらぼうに命じる。
呆れたことに、少女の手に乗せられた手巾はしっとりと濡れている。
確かに自分は結構な時間泣いてしまっていたが、この幼い巫子はその間にどれだけのことを済ませてしまっているのだ。
「……ああ」
拗ねたように呟いて受け取ると、乱暴に顔を拭った。グランは満足そうにそれを見上げてくる。
「よし」
そして、門へ向かって足を向けた。彼に追い越されないように、アルマも大股で進む。
一言も促さないままに、目前で門が音を立てて開いた。
吹きつける風が、血臭を乗せてくる。
想像もしなかった目の前の惨状に、思わず足を止めた。
数メートル先で、オーリが矢を放っている。
そのことを想像しなかった訳ではない。矢筒ではなく、足元に置かれた箱から矢を補充しているのが少々意外ではあるが。
実は手持ちだけでは早々に矢が尽きそうになって、城砦の兵に命じて一箱運ばせたのだ。
王国軍の兵士は、今は城壁をやや遠巻きにしており、オーリの弓もそれを牽制する程度の動きしかしていなかった。
そして、その先十数メートルに立つ、金髪の男。
彼の周囲には、無残な死体が散乱していた。
下手をすると、人のかたちすら残らぬほどに殴殺された兵士たちの屍が。
流石にグランも眉を寄せ、ペルルが悲鳴を飲みこむように息を吸った。
門が開き、そして閉まった音が聞こえていたのだろう。無造作に手にした戦槌を肩に乗せ、クセロが振り返った。
「おぅ。待ちかねてたぜ、旦……」
が、そこで同行者の存在に目を止めて、口を半開きにしたまま言葉を止める。
すぐにややばつが悪そうな顔になって、僅かに視線を逸らせた。
「何でこんなところに大将と姫さんまで連れてきてんだよ」
「見られてまずいのなら、僕が来る前にちゃんと始末をしておけ」
そういう問題なのか、と思える苦言をグランが発した。
「大丈夫か?」
真っ直ぐに前を見据えたまま、オーリが尋ねる。
「ああ」
短く、アルマは答えた。
門からあまり離れずに、グランとペルル、プリムラは足を止めた。アルマは、その数歩先に立つ。
すっ、と、全く気負いもなく、グランは口を開く。
「我が火竜王カリドゥスの御名とその燃え盛る誇りにかけて、高位の巫子グラナティスが告げる。イグニシアの民、火竜王の民よ。いと尊き竜王の嘆きが憤りへと変わらぬよう、最善の道を選ぶがいい。我が竜王は、少々気難しい」
脅し、とも取れる宣告が戦場へ轟くと同時、圧迫感がアルマの背を押した。背後を振り向くと、ユーディキウム砦を半ば覆いそうなほどに巨大な炎の塊が、彼らの頭上に浮かび上がっていた。
……違う。あれは。
じわり、と冷汗が滲む。
蛇のように、細く長い身体は風竜王に似ている。だが、その身体に生えていた翼や羽毛などは見当たらない。その代わりなのか、胴から、その体長に比べれば遥かに短い手足が生えていた。鉤爪は、見るからに太く、鋭い。体表は一面が鱗で覆われていて、その一枚一枚が青白く、または真紅に煌き、揺らめいて、それが高温の塊であることが判る。
あれが、火竜王カリドゥス。
「三百年ぶりの顕現、感謝する。我が竜王」
小さく、満足げにグランが呟いていた。
数秒間しん、とした戦場が、恐怖と畏れによるどよめきに占拠される。
そこへ、ペルルの涼やかな声が響き渡った。
「我が水竜王フリーギドゥムの御名と深く澄み渡りしその誇りにかけて、高位の巫女ペルルが申し渡します。この国は、この世界は我らが民とその竜王たちのものである。地獄よりの使者、邪悪なる龍神ベラ・ラフマに付き従う者たちよ、我が竜王の怒りの前にうち震え、平伏すがいい」
そして、空を振り仰いだままのアルマの視界に、もう一柱の竜王が顕現する。
こちらも、基本的な形状と大きさは火竜王と酷似している。地竜王以外の三竜王は、似たような身体であるようだ。
違いといえば、羽根も腕もないことか。つるりとしたシルエットは、ある種の魚のようでもある。耳のあるあたりに、半透明の鰓のようなものが広がっている。
全身を覆う鱗の色は薄い水色から藍色、碧まで移り変わりながら煌いていた。まるで、水面に光が踊っているかのように。そしてその身体の周囲には、幾つもの銀色の珠が浮かんでいた。
水竜王、フリーギドゥム。
二柱の竜王は、アルマに敵意を抱いていない。それでも、その圧迫感は少々重い。
「うっわ。何この露払い扱い」
小さく、オーリがぼやいた。
「僕に一言もなく、勝手に出て行くからだろう。それに、僕は別に、竜王の顕現を止めていた訳じゃない」
澄ました顔で、グランが答える。オーリがあからさまに渋い顔になった。
「じゃあまあ派手にやろうか。……ニネミア!」
ただ、名前だけを轟かせる。その存在を、世界が知っていて当然だと言うように。
その声に呼応して、一瞬で風竜王ニネミアがその場に顕現した。
以前、風竜王宮の本宮であるアーラ宮にてその姿を目にした時は、神殿内部だったせいか、風竜王はさほどの大きさではなかった。
しかし今回、風竜王はその淡い色の羽根の差し渡しが、ユーディキウム砦の幅を優に超える巨大さで顕現している。
鮮やかなエメラルドのような瞳が、怒りに燃えて前方を見据えていた。
「風竜王ニネミアとその高位の巫子の三百年の恨みを受けるべき者たちが、ここに集結したことは実に喜ばしい。我らが歓待を是非に楽しんでいって貰いたいものだ」
声の響きに笑みさえ含ませて、オーリが言い放つ。
戦場に立つ兵士たちの塊が、ざわざわと、後方へと動き始めた気がする。
十数秒、沈黙が満ちた。
「……え? まさか、期待されてる訳じゃねぇよな?」
信じがたい、という表情で、クセロは背後を振り返った。
残念なことに、それを肯定する者はその場にはいなかったのだが。
基本的に、竜王の高位の巫子とは、ごく自然に人の上に立つものたちである。
仲間たちから一斉に視線を向けられて、クセロは肩を落とし、前方に向き直った。
「あーもー、しゃあねぇなぁ。豪気に行くか、おやっさん!」
『応!』
びりびりと地鳴りのような声が響くと同時、西の森、王国軍の伏兵が隠れていた森の只中に、体高が五十メートルはある地竜王が顕現した。
その高さは、アーラ砦にも届こう、というほどだ。この、平原と森の大地で、比肩できるものなどはない。
ごつごつとした、淡い灰色の体躯は四本の太い脚で大地を踏みしめていた。長い尻尾には薄く尖った黒曜石が並び、身体のそこここから生えている巨大な水晶の結晶が太陽の光を虹色に煌かせている。二本の角の生えた額の下には、黄金色の瞳が世界を睥睨していた。
『一万年ぶりじゃの、龍神の餓鬼が。その手下どもしかおらぬとはいえ、殲滅すれば少しは奴も怯えることじゃろうて』
上空ではなく、すぐ間近に竜王を見、その声を耳にして、王国軍の兵士たちは肝を潰した。少なくとも、ほぼその真下にいた伏兵たちは、大声を上げて逃げ惑っている。
「……あの森の中に、うちの親衛隊たちもいるんだけど……」
「おやっさんはあれで結構気を使う質なんだ。大丈夫だろ。多分」
心配そうなオーリの言葉に、気軽にクセロが請け負った。あまり安心できない。
「さあ、行け。アルマ」
静かに、グランが促した。
「お前は、〈魔王〉アルマナセルの血を引く者だ。遠く地の底から来たりて、人よりも遥かに人を愛し、人の作り出した美を愛し、芸術を愛し、友を、妻を、敵を、獣を、草木を、この世界をまるごと深く愛した〈魔王〉の正当な末裔だ。お前が、お前だけが、あれを滅することができる」
その声に背を押され、アルマは前へ踏み出した。すらり、と腰に佩いた剣を、かつて〈竜王殺し〉と呼ばれた剣を引き抜く。
「『俗悪で卑小で尊大で醜悪だった、我らが』?」
追い抜いたオーリが、背後で囁くのが耳に入る。
「……お前は本当によく覚えているな。……あれは、我らが『人間とは違って』、だ。〈魔王〉の周囲には、残念ながらあまり上等な魂を持ったものはいなかった。僕を含めて」
「つまり、わざとエスタを煽った訳だ。それはまあ、確かに性格がいいとは言えないね」
苦々しげなグランの返答に、風竜王の高位の巫子は、何故か楽しげに呟く。
クセロが、巨大な戦鎚を持ったまま、脇に退いた。
その数メートル先へ進み、血の海の手前で足を止める。そして、敵軍の更に奥を見据えた。
周辺の、全ての木々を振るわせる声を張り上げる。
「今日、ここが貴様の墓場となる、龍神の使徒、イフテカール!」
返答は、轟音と閃光だった。
テナークスの生命を奪ったものと、同じ。
しかし、風竜王は迅速だった。ぐるん、と尻尾を一振りすると、その雷光を捕獲したのだ。
一瞬で、その脅威は姿を消した。
頭上で行われた、人知を超える行動に唖然とする。
しかし即座に、今度は巨大な炎の球が出現する。
立て続けの現象に、兵士たちは既に敵も味方もなく逃げ惑っている。時折、そこここで命令が怒鳴られているが、聞く者は少なかった。
音もなく、火竜王が動いた。
無造作にその炎に近づくと、その顎を大きく開き、一息に呑みこんだのだ。
炎の球は、火竜王の頭よりは大きかったが、まあ身体の大小など、竜王には気にすることでもないのだろう。
と、彼らの足元に、広大な影がかかる。
突出した火竜王をめがけ、鋭い氷の塊が落下してきた。その重量と落下速度とが、竜王の身体を貫くべく、凄まじい威力を保障する。
が、その瞬間、水竜王の周囲に浮いていた銀色の珠が、氷の楔に纏わりついた。ぱしゃん、と軽い音がして、それらは更なる珠へと変化する。
『つまらんのぅ。所詮は人の子か』
低い声を、地竜王が響かせた。




