09
街の外には、氏族たちが野営していた。
幾つかに別れた集団は、礼儀正しく互いに距離を置いている。
こちらの姿を認め、数名が馬に乗って進み出てきていた。
オーリが先頭に出る。
「風竜王の高位の巫子、オリヴィニスだ。此度は、不躾な要請にお応え頂き、感謝する」
族長たちは値踏みするように、オーリと、背後の戦士たちを見た。
「千ほどの氏族を引き連れていたと聞いたが。戻ったのはこれだけか」
「……私の、力不足によるものです」
オーリが静かに告げる。
アルクスが声を上げかけたが、前にいてこちらが見えない筈の巫子に振り返られて、口を噤んだ。
その瞳が、あまりに暗かったから。
「状況が少々変わりました。今は、民を草原に逃がすことが何より優先されます。皆様方には、彼らを護って頂きたい」
ざわ、と対峙する族長たちがざわめく。
「血も繋がらぬ、定住者などを草原に連れ出す筋合いはない」
「ならば、我が国は滅亡するでしょう」
オーリが言い切るが、族長たちの表情は渋いままだ。
再び、青年が振り返る。
「アルクス。後の説明を頼む。……彼は、ずっと私と一緒にいた者です。状況は、私と同じぐらい、よく知っている」
アルクスと族長たちが頷く。
「申し訳ないが、竜王宮に顔を出してきます。できるだけ、早く戻ってくる」
「気にするな。こっちも、絶対に長くかかる」
皮肉げにアルクスが返してきた。
竜王宮からも、こちらが近づいてきていたのはとっくに知れていたのだろう。街の正門のところで、風竜王宮親衛隊が列を作って待ち構えていた。
「儀礼はいい。先を急ぐ」
言い置いて、一歩たりと止まらずにオーリは街路を進む。
街には、まだ人影が多い。
「民の避難はどうなっている?」
隣に追いついた総隊長に尋ねる。
「さほど進んではおりません。皆、財産が惜しいようですな」
期待していた訳ではないが、それでもやはり失望はする。
「まさか、竜王宮に匿ったりはしていないだろうな」
「毎日礼拝から帰ろうとしない民を追い払うのが大変ですよ」
真面目な顔で答える総隊長に、少しばかり苦笑する。
「そうだ。誰か竜王宮へ先行させてくれ。会議を……」
「秘書官が既に準備しています。彼は本当に抜かりないですからね」
懐かしさと共に僅かに気が重くなって、とりあえずオーリは沈黙した。
会議の間の扉の前で立っていたノーティオは、僅かに眉を寄せていたが、しかし何も言わず、オーリが通れるように扉を開く。
中には、長老たちが揃っていた。
オーリは今回、馬を下りてまっすぐここへ向かっている。土埃を頭から被り、革鎧を身につけ、そう、馬の臭いを纏わせたままで。
今は非常時だ。それを、老人たちによく判らせる必要がある。
彼の、芝居がかった振る舞いで周囲を巻きこむ手法は、この頃には既に確立されていた。
「少し休め、オーリ」
数時間後、会議室から足早に出てきた高位の巫子に、ノーティオが忠告する。
「時間がない。氏族たちの様子を見てこないと」
手近な窓に近づいて飛び降りかねないオーリの手首を、乱暴に掴む。
「アルクスという者から、連絡が来ている。あちらは心配要らない、と。それより、お前、負傷したんだって?」
露骨に不機嫌な秘書官から、視線を逸らせる。
「……大したことじゃない。もう治した」
「へえ?」
意味ありげに、眉を寄せて聞き返された。
ぐい、と腕を引くと、相手の手はあっさりと離れる。竜王宮から殆ど出たことがないノーティオは、あまり力が強くない。
だが、諦めは悪い。彼は次いで、オーリのマントを素早く握りこんだ。
「ティオ」
「お前から目を離したら、またイグニシアとの最前線に一人で戻るから気をつけろ、とも言われてる」
「……あいつ……」
小声で毒づく。
不機嫌なまま、しかし真摯な瞳で、ノーティオが告げた。
「オーリ。お前にしか背負えない重荷があることは判っている。だが、そうではないものまで一人で背負いこむな。お前がそうするのならば、どうして俺たち他の巫子や親衛隊は、こうして竜王にお仕えしているんだ?」
数度瞬いて、年下の友人を見詰める。
ほんの数年前まで自らも抱いていた気持ちを、既に忘れかけていた。小さく溜め息を落す。
「……判った。明日の朝までは休もう。ただ、何かあったら、絶対に私に知らせてくれ」
「言われるまでもないさ」
そして、ようやく用心深い秘書官はその手から巫子を解放した。
街の住人をグループ分けし、氏族たちの庇護を受けるために割り振るのに、二日かかった。
その間、オーリは辛抱強く、不満を漏らす氏族たちを説得していた。
四日目には、ぞくぞくと民が街から離れていく。
オーリは鐘楼に出て、東の様子を伺いながら、民の移動を見守っている。
小さく溜め息をついたのを、聞き咎められた。
「心配なのか?」
弓を手にして、リームスが軽く声をかけてきた。
「お前たちがだよ」
胸壁に背をもたせかけ、親衛隊員に向き直る。
竜王宮に仕える、かなりの人数の巫子や親衛隊員、そして氏族たちが、この地に残ることを志願していた。
「正直、誰がいても足手纏いだ。君たちがもしも王国軍との戦いで生命を落せば、風竜王が嘆かれる。その時、私はそんな感情を背負ってる場合じゃない可能性が高い。勝利を願うなら、私から重荷を取り除いてくれ」
しかし、オーリが酷くざっくばらんにそう言い渡して、ある程度の人数は怒りながらこの地を脱出したのだが。
それでも居残る者たちは、いた。
リームスやノーティオ、そして勿論アルクスもその中に入っている。
「あの程度で気分を害していたら、お前の元では働けないさ」
「違いない」
鐘楼の入口で、アルクスが笑う。
アーラ宮に残ることを主張した氏族たちは街や竜王宮内に入り、護るために配置についている。
「ここは、思ったよりも護りに向いたつくりになっているな」
ぐるり、と周囲を見下ろしてアルクスが呟く。
「元々は、ここはある氏族の砦だったんだ」
軽くオーリが告げると、二人ともが意外そうに視線を向けてきた。
「もう、何百年も前だ。今ほど内部が掘られてもいなかったし、礼拝堂のような空間も作られていなかった。当時は難攻不落の砦として有名だったらしい。それがやがて竜王宮に差し出されて、本宮になったと言われている。古い歌に、幾つか歌われていたよ」
へえ、と呟きながら、リームスは鐘楼の屋根を見上げた。
「難攻不落、か。縁起がいいな」
「人間の軍隊相手ならな」
肩を竦め、オーリは釘を刺した。
東の空に一際大きな黒煙が上がったのは、その翌日のことだった。
嫌になるほど晴れた日に、悪魔はやってきた。
続々と、黒々とした軍隊が街道を進んでくる。
街の十数キロ手前で陣形を組み、そのまま近づいてきたのだ。
酷く威圧的ではある。だが、ここアーラ宮で、高位の巫子が在る状態で、只人の軍隊など、さほどの脅威ではない。
ただ、その先頭に立つ、黒衣の〈魔王〉のみが、絶望を運んでくる。
陽光の降り注ぐ中、街の正門の前で〈魔王〉アルマナセルは馬を止めた。
「ここが、風竜王とやらのねぐらか?」
その声は、ざっと数キロは離れたアーラ宮にまで轟き渡る。
竜王宮の正門の上、胸壁に立ってオーリは真っ直ぐにアルマを見下ろしていた。正式な聖服を身に纏っており、その純白と額のエメラルドとが、眩しく光を反射させている。背に負った矢筒と、手にした弓だけが、ややその姿には似合わない。
背後にはノーティオとアルクスが控えていた。リームスは親衛隊の一員だ。総隊長に命じられた場所で配置についている筈だった。
「我が竜王の名とその誇りにかけて」
小さく呟く。主に、自らを鼓舞するために。
そして、もう少し大きく声を張り上げた。
「寄る辺なき哀れな〈魔王〉、アルマナセルよ。私が、風竜王の人の世での代理人、高位の巫子オリヴィニスだ。この地はお前を歓迎はしない。疾く、その身が産まれたところ、暗く、臭く、惨めな地獄へと舞い戻るがいい」
オリヴィニスの声は、さほど大きくは聞こえない。だが、それは街の外の王国軍の最も後ろにいる兵士にまで届いた。
アルマが鼻で笑う。
「大きく出るではないか、人の子が。だが、契約を果たせぬ以上、わしが地獄へ戻ることなどないのだよ。果たせるに決まっているが、な。そうなればわしは王女レヴァンダを手に入れ、この地に君臨することになる」
ざわり、と人々がざわめく。
フルトゥナの民だけではなく、王国軍もだ。
「国を一つ滅ぼし、民を虐殺し、竜王をも抹殺しなくては手に入れられない王女とは、酷く血塗られたものだな。それほどの価値が、その娘にあるとでも?」
オーリが嘲る。
「あるとも」
しかし、アルマは即答した。
「わしはこちらに来て、初めて愛を知った。焦がれる想いを知った。喜びを知った。美を知った。友を得た。それは、わしの力だ。わしを後押しする、力だ。地獄に戻っては失われる。わしは帰らんよ、高位の巫子。ただ、そなたらを殺し尽くせばいいだけの話なのだからな」
不敵に笑み、すらり、と腰に佩いた剣を引き抜く。
だが、オーリも引きはしない。
「間違うな、〈魔王〉アルマナセル。お前が得たと思っている力は、その愛は、未だお前の手には入っていない。お前は未だ、孤独でうら寂しいだけの存在だ。対し、風竜王は既に私を全て手に入れておられる。肉体も、魂も、全て。お前ごときが、我が竜王に太刀打ちできるとでも思うのか!」
高らかに言い放った言葉に、痛いところを衝かれたか、ぐぅ、とアルマが呻く。
「我が想いがそなたらに劣るなどと、傲慢にもほどがあるな、高位の巫子よ」
絞り出すような声に、しかしオーリは手を緩めない。
「傲慢などと、お前のような卑俗な者が語るか。我が竜王はこの世界を統べ、回帰し、庇護し賜う存在だ。その民への愛の深さは、お前などに計り知れるものではない!」
しん、と静寂がその場を包む。
「……今のお前をディアクリシス様たちがご覧になったら、さぞお喜びになるだろうな……」
ノーティオが小さく呟くが、しかしその言葉とは裏腹に視線は酷く冷たい。
オーリが短く咳払いをした。
「まあ、ともかく、お前には民も竜王も滅ぼさせはしない。今一度言う。おとなしく、冥府へと戻るがいい」
「これで、交渉とやらは決裂だな」
低い笑い声を響かせて、アルマは剣を天へと向けた。
次の瞬間、空に、直径五メートルはある炎の塊が出現した。
人々が、息を飲む。
「灼き堕とせ」
存分にその威容を見せつけた後、〈魔王〉がそう命じる。
炎の塊が、街壁に襲いかかった。
オーリは表情一つ変えない。
炎が空中で広がり、波のように街壁に、街に襲いかかろうとする寸前に。
弾き飛ばされたかのように、炎は逆流した。
〈魔王〉と、その背後に展開するイグニシア王国軍めがけて。
ほんの数秒で、炎の大部分が掻き消える。
それは、〈魔王〉アルマナセルには火傷一つ負わせていなかった。しかし巻きこまれた王国軍は、幅百メートルほどに渡って一切の痕跡も残さず消滅していた。
周囲の草原に火が点き始めて、残りの兵士たちが逃げ惑う。
今まで〈魔王〉が絶対的に振るってきた力が跳ね返されたことによる、恐怖もあるのだろう。士官ですら、命令を発していない。
オーリが、手にした弓に矢を番え、引き絞る。
直線距離でも、彼とアルマの間には数キロの距離がある。常識的に考えれば、矢などが届くはずがない。
「我が竜王の名と、その誇りにかけて」
凛とした声が、響く。
放たれた矢は、大きく弧を描いて〈魔王〉へと迫る。
それが通常の矢であれば、彼に近づけもしなかった筈だ。
だがそれは、アルマが講じた防御すらあっさりと通過し、驚愕する彼の肩を貫いた。
「う、が、ああああああああ!」
瞬間、風竜王の[祝福]が、この世の者ではない〈魔王〉の体内を蹂躙する。
「お前ごときの力、我が竜王には通用せぬと知れ」
オーリは静かに言い渡す。
アルマが、無事な方の手で矢を掴み、力任せに引き抜いた。
「……なるほど。少しはやりがいがあるという訳か。風竜王よ」
傷を負い、異質な存在に侵されていてなお、〈魔王〉は笑みを浮かべてアーラ宮を見上げる。
「射て!」
間髪を容れないオーリの言葉に応え、街壁の上部に身を潜めていた氏族たちが立ち上がる。そのまま、矢をイグニシア王国軍へと降り注がせた。
〈魔王〉の力は絶対だった。それを当てにして、王国軍は、城を攻めるための投石器も破城槌も持って来てはいない。そして、イグニシアならばまだしも、草原の国フルトゥナで、そう間単に必要な丸太は手に入れられない。
更に、〈魔王〉は確実に、攻城戦のやり方などは判っていない。
この地であれば、油断しなければ、勝てる。
高位の巫子は、無造作に胸壁を乗り越えた。
「オーリ!?」
アルクスの声を背に、たん、と胸壁の縁を蹴り、東門へと跳ぶ。
「あいつはいつもああなのか!?」
苛立たしげに、アルクスがノーティオに突っかかった。
「我々の苦労を少しは分かち合ってくれ」
疲れたように零すノーティオに、溜め息をついてアルクスは地上への階段へと向かった。




