07
流石に、戦士はタフだった。
怪我が癒えてしまえば、あの〈魔王〉の使った魔術への恐怖心など殆ど消えてしまったように見える。
翌朝、意気揚々と動き出す氏族を見つめて、オーリが半ば呆れる。
「戦では、死ぬか、生き残るかだ。生き残りさえすれば、お前が傷を癒してくれる。ならば、死にさえしなければ何とかなるだろうよ」
単純かつ楽観的にアルクスに告げられて、当の巫子は苦笑いしかできなかったが。
しかし、氏族の長ともなると、そうはいかない。
一度の戦いで、戦士の三割を失ったのは、かなりの痛手だ。
オーリが以前に召喚したソリドゥム族、そして三氏族と竜王宮の連名で助力を呼びかけた他の氏族たち、何よりも王室からの兵士のいずれか、ある程度の人数が加わるまでは、これ以上の戦闘は控えたいところだった。
あまり近づきすぎないようにしつつ、王国軍の様子を探る。
開けた場ではこちらも身を隠す場所がないが、それでも王国軍が攻撃をかけてくるまでには離散できるだけの機動力はあるのだ。
そうして数日が経った頃。
王国軍の進軍する先に、今までにないほどの煙が立ち昇った。
それも、ほんの一瞬で。
「何だ……?」
呆然として、氏族たちはそれを見つめる。
彼らは、王国軍の軍勢の中央辺りを並走していた。
草原に火をかけるなら、過ぎ去った地で行うのが常識で、これから通る先ですることではない。
そして、王国軍から戦闘をしかけるのであれば、兵士が揃っていない状態で始めるのはおかしい。
ならば、他の氏族が王国軍を襲ったのだろうか。
あのアルマとの戦い以来、斥候は頻繁に出すようにしている。じきに報告に戻るだろう。
だが、この先で民があの〈魔王〉と戦っているかもしれない、と思うと、堪らずにオリヴィニスは氏族たちの間をすり抜けた。
「オーリ!?」
アルクスの制止も聞かず、高位の巫子は馬を駆る。
そこは草原の戦士なだけはあって、すぐに追ってきたアルクスはそれ以上引き離されはしなかったが。
「無茶をするな! 戻れ!」
しかし、それに返事をする余裕もない。
やがて、燃え上がる草原を目視できるところまで来て、ようやく馬を止めた。アルクスもすぐ隣で止まる。
一体それが何なのか、理解できるまでしばらくかかった。
炎に包まれている地は、広く、石畳で覆われていた。その更に手前には、王国軍が陣形すら組まず、進軍する隊列のままで停止している。
その先頭、炎のすぐ傍に、小さく一つの騎影が見える。
「……あれは、シュレインの街だ……」
掠れた声を、アルクスが漏らす。
「街……?」
理解できなくて、ただ繰り返す。
何故なら、街というのなら、街壁に囲まれ、建物が立ち並び、そして、そう、人が住んでいる筈だ。
そこは決して、このような石畳だけの土地ではない。
彼らは王国軍からかなり離れていたが、周囲には薄く煙を上げる石が幾つも転がっていた。
アルクスが馬を降り、革のブーツでそのうちの一つを蹴った。
「……溶けた痕が、ある」
「溶けた?」
石を溶かすには、凄まじい高温でなければならない。
つまりそういうことだ。石を、岩を溶かすほどの高温で、街壁は、建物は、そして人々は焼き尽くされた。
草原が燃えているのは、おそらくその余波だ。
異質な気配に、ぞくり、と背筋が凍る。
「アルマナセル……」
王国軍など、相手にする必要すらなかった。
ただ一人、〈魔王〉アルマナセルが居れば、おそらくは世界すら滅ぼすことができるのだから。
草原の戦士たちは、意気消沈していた。
〈魔王〉の魔術が手に負えないものだ、という認識は既にあった。しかし、今まではそれから逃れることは可能ではあったし、高位の巫子がある程度対応できるものだった。
まさか〈魔王〉の能力が、短時間で街を一つ消滅させるほどのものだとは、思っていなかったのだ。
彼らは行軍を止め、そこここに少人数で固まり、小声で話し合っている。
オーリはただ、族長たちに言い渡した。
「皆は動揺しているようだ。少し、様子を見ましょう。何より、先日から強行軍に過ぎました」
族長たちは形ばかり反対したものの、それを飲む。
立ち向かう術も、生き延びる希望も消えつつあるのだ。
高位の巫子、その人以外には。
深夜になって、静かに身を起こした。
周囲が寝静まっていることを確認する。
ほんの僅か、立ち上がるよりも強く脚に力を籠めて、オーリは高く、遠く跳んだ。
ざざ、と草を分けて着地した時には、もう仲間たちには聞こえようがないほどに離れている。
それを数度繰り返し、彼は岩陰に身を潜めた。慎重に、その向こう側を覗く。
シュレインの街の手前で、イグニシア王国軍の野営地が、闇の中に沈んでいた。
結局、草原に火がついた状態で先に進むのは無理だと判断したのだろう。王国軍は昼間の場所から幾らか後退して、火が消えるまで待つことにしたらしい。
歩哨は立っているが、数日はここに留まることが確実なためか、気配は落ち着いている。
オーリは注意深く、野営地に侵入した。
ゆっくりと、慎重に、決して見つかることのないように。
草原の戦士を戦場に向かわせたところで、何の意味もない。
オーリの行動は、ただ彼らを無為に死なせてしまっただけだ。
ならば、意味のある行動に出るしかない。
風竜王の恩寵ある高位の巫子が、地獄の〈魔王〉を直接殺害する、という行動に。
それが果たせるのは、彼だけだ。
そのために、例えオーリが生命を落としたとしても。
後は、残る王国軍ならば何とかなる。その判断は、今でも揺らがない。
そもそも、野営地から誘き出そうなどと考えず、最初に忍びこみ、〈魔王〉と邂逅した時に、強引にでも殺しておけばよかった。
その後悔は、この時点のみならず、この先数百年に渡って彼の心を焼き続けることになる。
影から影へ、ひっそりと移動する。
時には、ほんの数十センチ傍を歩哨が歩いていくのを、木箱の影に隠れてやりすごしたりした。
焚き火の灯りを避けて、ぐるりと大回りしたことも。
時間はある。最低でも、夜明けまでは。
周囲の音を聞き漏らすことなく、見つからないために万全を期して〈魔王〉の天幕まで辿りつくには、充分な時間だ。
しかし、その道程の半分ほどを踏破したところで、オーリは一度動きを止めた。
遠くから、地響きが聞こえる。
馬の蹄の音だ。しかも、かなり多い。
だがしかし、こんな夜に。
嫌な予感が、どんどんと膨れ上がる。
彼は、更なる暗がりに身を潜めた。
やがてそれは近づくにつれ、少しずつ勢いを弱め、静かになっていく。
そう、つまり、この動きは意図的なものだ。
そして。
イグニシア王国軍の野営地の外、小高い丘の上に、七百足らずの騎馬兵が姿を見せた。
当初、それは闇の中、静かに蠢く形であって、王国軍には気取られていなかった。
しかし、全員が攻撃態勢に入ったと確信するやいなや、草原の民は高らかに角笛を鳴らし、大きく雄叫びを上げる。
腹に響くようなその声に、野営地は一瞬で叩き起こされた。
そして次々に矢を放ちながら、戦士たちは一直線に丘を駆け下りた。
「全く、何をやっているんだ!」
低く毒づきながら、傍を駆け抜けていく兵士たちをやり過ごす。
野営地は既に大混乱だ。氏族が突入してきた地点はここからまだ離れているが、近づいてくるのは時間の問題だろう。
周囲の音も聞き取りにくくなっている。
眉を寄せ、必死になって行き先を伺う。
寝こみを襲える、とまで望んでいた訳ではない。だが、〈魔王〉が一人きりで天幕内にいれば、オーリの勝機はあった。
それが、こんな状況では、いつ彼が天幕から出てくるか判らない。そうなったら、機会は著しく減ってしまうだろう。
ふと、あることに気づく。
野営地に、火が放たれていない。
奇襲の手としては、火は基本的なものだ。現に、今までオーリが率いていた時には、当然のように使っていた。
まして、夜。大半の兵士が休んでいるのなら、声も上げずに火をかけるべきなのだ。
警告のように声をあげ、そして火が使えない理由があるとすれば。
オーリが、悪態を撒き散らしたい誘惑を押さえつける。
急がなくてはならない。手遅れになる前に。
「誰だ!」
誰何の声を浴びせられて、足が止まる。
オーリは、相手の動きを察知しやすい、というだけで、見つからないための手段を講じることができる訳ではない。息を潜め、物陰に隠れて身動きしないでいるが、兵士は用心深くこちらへ近づいてきていた。
ゆっくりと、音を立てないように腰に帯びた短剣を抜く。
羊や山羊を捌いたことなら、何度もある。人間相手でも、急所はそれとさほど変わらない筈だ。
まあ問題は、兵士は急所を護るための装備を身につけている、ということである。
じゃり、と石を踏む足音を数える。
そして相手がこちらを覗きこんだ瞬間、短剣を突き出した。
「我が竜王の名とその誇りにかけて」
早口で、請願を呟く。
肉を裂く手応えと、ずしん、と鈍く弾けるような震動が手に残った。
ずるり、と兵士の身体から力が抜ける。
オーリは、音を立てないように、ぐにゃり、と曲がるその身体を地に伏せさせた。
あまり、竜王の御力を人を殺すために使いたくはないのだが。
しかし、戦場に立った時点で、そんなことは今更か。
自嘲して、そっとその場を離れる。
だが、兵士の死体はすぐに見つかったらしい。周辺を動き回る兵士の人数が増えてきた。
天幕の間に作られた通路を、二人の兵士が通り過ぎる。その後ろを突っ切ろうと、物影から身体を出した瞬間に。
行き過ぎた筈の兵士が、ひょい、と戻ってきた。
ほんの数歩の距離で、顔を合わせる。
「貴様……!」
声を上げられた瞬間に、舌打ちして地を蹴った。
兵士たちの頭上、二メートルほどを飛び越える。
たん、と地に足がつくと、そのまま走り出した。
さほど高く跳んだつもりではなかったのだが、それは充分に周囲から目撃されたようだ。兵士たちがぞくぞくとこちらへ集まってくる。
延ばされる手を、かわす。
突き出された槍の穂の上に、とん、と乗った。そのままそこを踏み台に、呆然とする兵士を飛び越える。
「捕らえろ!」
「手間をかけるな! 殺せ!」
ぞく、と背筋が冷える。
剣を鞘から抜く音が。
矢をつがえ、弦を引き絞る音が。
全てが、自分に向けられている。
明確な殺意、というものに、生まれて初めて直面して、血の気が引いた。
集まってくる気配を探り、少しでも人数が少ない方を捜し、幾度目のことか、地を蹴る。
だが、それが誤りだった。
天幕よりも高く飛ぶ人影に向け、四方から矢が射かけられる。
そのうちの数本が、オリヴィニスの胴に突き立った。
「が……っ!」
かろうじて両足で着地するが、それ以上は立っていられなくて膝を折る。
まずい。
逃げなくては、殺される。
何とか立ち上がろうと、手をつき、膝を立てて、しかし身体に走った激痛に、堪らず倒れ臥す。
足音が迫ってくる。
身体を丸め、傷を庇うのが精一杯で、動けない。
足音が。
剣が鞘の中でがちゃがちゃと鳴り。
背に負った矢筒が跳ねて矢尻が擦れあい。
地響きが勢いよく近づいてきて。
脂汗が目に滲みるが、それでも見開いた視界に、幾つもの靴が映る。
「この、蛮族が。死ね!」
息が、荒い。
鼓動が響くと同時に、傷が熱く疼く。
鞘鳴りが周囲で幾つも響いて。
その瞬間に、その細い通路に地響きを立てて馬が走りこんだ。
「オーリ!」
叫び声が響くと同時、風切音が鳴り、矢が肉に突き立つ音が発する。
どぅ、と数体の身体が地面に落ちた。
それぞれが、一本の矢で、既に絶命している。
オーリ自身、弓の腕はそれなりだと自負している。だが、この暗さで、馬を駆って、武装した兵士を一の矢で殺せるか、というと、自信はない。
これが、草原の戦士。
馬はそのまま倒れ臥したオーリの横を通り過ぎ、まだ無傷で集まっていた兵士たちを追い散らす。
その後から走りこんできた二頭がすぐ傍で止まり、乗り手が急いで飛び降りた。
「巫子様!」
左右から伸びた腕が、オーリを救け起こす。
「ぐ……」
呻き声に、少なくとも生存を確認できたからか、ほっとしたような吐息が漏れた。
「大丈夫か!」
最初に飛びこんできた、アルクスが戻ってくる。
「矢を受けてる。早く」
オーリを立たせながら、戦士の一人が告げる。二人がかりで、青年の身体をアルクスの後ろに跨がせるように押し上げた。
「よせ……」
小さく呟くが、それは黙殺される。
アルクスの腰に回された手首を長い布で結わい、落下を防ぐ。
「急げ、アルクス!」
その言葉に頷き、戦士は野営地を駆け抜けた。




