04
そして数日が経った頃、オーリは遠くから近づく蹄の音を聞きとった。
舌打ちして、進路を変える。
それが鳴り響いているのは、北の方角だ。一時間ほど馬を駆けさせ、ようやく地平線に土埃を確認する。
向こうがこちらを視認した、と思える距離で手綱を引いた。すぐに、ニ騎がこちらへ近づいてくる。
「竜王宮の者だ。長にお会いしたい」
誰何される前に、名乗りをあげる。
氏族の間には、暗黒時代から続く儀式ばった礼儀作法が未だに幾つも存在し、それに則るとなると半日ほど時間が費やされることもざらだ。だが、竜王宮の関係者は、世俗と関わらないという点において、その礼儀を免除される。時間がないこの状態では、ありがたい。
実際、そのニ騎はそのままうやうやしくオーリを先導した。
数百の騎馬は、一旦その場で停止している。その先頭に立つ男の下へ近づいた。
それは、五十ほどの年齢の男だった。浅黒く日焼けし、むき出しになった腕や肩には、幾つか刀傷が見受けられる。腰にぐるりと巻かれた狼の毛皮は、その牙が己の尾に噛みついていた。
「風竜王宮のオリヴィニスだ。お会い頂けたことに感謝する」
「ソリドゥム族の族長、ロンボスだ。こちらこそ光栄だ、高位の巫子」
双方、うやうやしく言葉を交わす。
名前だけで、オーリの身分を見抜かれた。流石に族長ともなると、その辺りはおろそかにしていない。
「族長。失礼を承知でお伺いしたい。もしや、このまま進んで、イグニシア王国軍と戦われるおつもりか」
性急なオーリの問いにも、僅かに眉を動かしただけでロンボスは重々しく頷いた。
「左様。西部の氏族のみが戦っておるのを、歯噛みしつつ見ておったが、まさか東からもやってくるとはな。これはまさに竜王の采配に違いない」
それは全くの間違いであることをオーリは知っていたが、問題はそこではない。
「闇雲に戦われることはお勧めできません。あの軍は、西からやってきている王国軍とは全くの別物です。東から新たに現れた軍は、〈魔王〉が率いている」
「……〈魔王〉?」
不思議そうな顔で、ロンボスが繰り返す。
「ええ。地獄より召喚された、〈魔王〉です。彼はフルトゥナの民を殲滅し、風竜王すら滅するために進軍してきている。しかも、軍勢は五万もいるのです。貴方を侮辱するつもりは毛頭ないが、しかしこの人数では勝ち目はない。一旦、引くことを提案します」
背後で、戦士たちがざわめいている。
「失礼ですが、巫子よ。その、〈魔王〉というものを、我らは聞いたことがない。伝承か何かとお間違えではないのか」
不審、というよりは、やや嘲りの混じった口調でロンボスは返してきた。
「だが、私は見た。我が竜王の名にかけて、彼は人間ではないし、魔術を扱ってフルトゥナの民を虐殺するつもりだ。それに、私だけが知っているのではない。数日前、エウテイア族が彼らに戦いをしかけ、敗れている」
「エウテイアですか。彼らは、少々、迷信深いところがありますからな」
しかし、族長の態度は変わらない。
「ロンボス……!」
「そこまでです、高位の巫子。竜王宮は、人の世の戦に関わりあうことはない。我らに任せておいて頂きたい」
「民を護るのが私の役目だ!」
まだ若い、何の経験もない、ただ熱意だけが先走る高位の巫子だ、と、彼らが判断したのは理解に難くはない。
「ならばご同行なされよ。護衛に、二十人ばかりを残しましょう。我らの戦いっぷりをどうぞご覧になられるがよい」
族長はそう告げると背後の戦士たちに向けて大きく片手を振り、進軍を促した。
角笛を鳴り響かせ、蹄の音を轟かせて戦士たちが坂道を下っていく。
オーリは、護衛として残った戦士に囲まれ、丘のやや目につきにくいところに留まっていた。むっつりと、進撃の様子を見つめている。
「そうご心配なされますな。我らとて、あれを一度で殲滅させられるとは思っておりません」
落ち着いた物腰の男が、丁寧に話しかけてきた。
「だが、彼らは一度で殲滅されかねない」
表情が晴れない高位の巫子に、僅かにむっとしたらしい。
「我らの強みは、素早く動く馬と、弓の腕です。あのような歩兵など、林檎の皮でも剥くように倒してみせましょう」
行軍途中だった王国軍は、隊列が長く延びている。ソリドゥム族の存在に気づいて対処しようとしているが、遅い。
数十メートル手前まで駆け寄ったところで、弓の弦が鳴る。
隊列の側面にいた兵士たちが、刈り取られた草のようにばたばたと倒れていく。
やがて王国軍からも矢が放たれるが、しかしソリドゥムの一団には届かず、虚しく地面に刺さっていく。
オーリの周囲にいる戦士たちは、士気が高揚しつつも、あの場にいられないことが残念そうだ。眉を寄せたままの青年に、ちらちらと視線を向けている。
しかし、ある時突然、視界が眩い光に満ちた。
それは一瞬で消え失せたものの、視界が利かないまま、耳を劈くような轟音が鳴り響く。
数秒後、目を瞬いて何とか薄目を明けた彼らの前には、十数頭の馬とその乗り手が倒れ伏している光景が広がっていた。
うっすらと、その肉体から煙が上がっている。
「……雷……?」
呆然とした声が、どこからか漏れる。
天気は晴天で、雷の落ちるような兆候はない。
その瞬間、大きく悲鳴が上がった。
ソリドゥム族からではない。
王国軍の兵士たちが、逃げ惑うように隊列を大きく膨らませる。
一気に空白になった場には、一人の男が騎乗していた。
〈魔王〉、アルマナセル。
「何だ? あれは」
不審そうな口調で、誰かが呟く。
オーリのいる丘からは、距離が遠すぎる。アルマは、小さな人影としか見えない。
だが、接近しているソリドゥムの戦士たちには、その異形の姿がはっきり視認できたのだろう、驚いたように互いを見交わしている。
アルマが剣を抜き、ぴたりとフルトゥナの民へ向けた。
次の瞬間、彼らの頭上に赤々と燃える火の玉が出現する。直径が二メートル近くはあるそれは、炎が球体の表面をぐるぐる蠢いていた。
軽く、剣先が上から下へと動く。それと同時、火の玉から、拳ほどの大きさの炎が射出され、戦士の一人に襲い掛かった。
凄まじい悲鳴を上げ、怯える馬から転げ落ちる。
オーリは、耳を塞ぎたくなる衝動を必死に堪えた。
明らかに怯んだソリドゥム族は、それでも火の玉から距離を置くことで何とか回避しようとした。しかし、非情なほどに正確に炎は彼らを追いかける。
青褪め、がたがたと震える戦士たちを、オーリは振り返った。
「角笛を!」
「え?」
「角笛を吹け! 撤退させろ!」
「しかしそのような勝手な」
「見ていて判らないか! このままでは彼らは全滅だ。その前に全員逃げさせろ。君たちもだ!」
慌てて、一人が震える手で角笛を鞍からもぎ取った。空高く、長い音が響き渡る。
「生き残った者がいれば、アーラ宮へ来るようにと伝えろ。できれば、この周辺の氏族たちも引き連れてだ。いいな?」
口早に命令を発すると、オーリは馬を駆った。
戦場へ向けて、ではない。
北へ向かって、一心に駆けた。
一人で先に逃げ出したのだ、と思われることも厭わずに。
オーリは、最低限、馬を休ませるために足を止めたのみで、ひたすら昼夜を問わずに草原を走り抜けた。
真っ直ぐに湖に向かい、そして小さな漁村を見つけ出す。
アウィスまで船に乗せてもらうことを交渉した。幸いまだ手持ちの金が残っていたのと、馬を乗せていけない代わりに代金の足しとしておいて行くことにしたため、さほど時間はかからない。
アウィスについたのは、行きよりも小さな船だったこともあり、漁村を出発した五日目だ。そのまま真っ直ぐ竜王宮に向かい、薄汚れた彼の姿に驚く巫子たちの間を抜け、竜王宮長に面会を要求する。
三時間、オリヴィニスはほぼ恫喝するように話し続け、そして用意されていた馬に跨った。
彼がアーラ宮に帰還するのは、その三日後の夜となる。
正門へ向けて、一直線に走ってくる騎馬に、親衛隊がざわめく。
それは坂を上りきると、慣れたように横手へ馬首を向けた。そのまま、通用門へと馬を駆る。
「オリヴィニス様!」
口々に警備の親衛隊員たちが叫ぶ。
すたん、と地上に降り立つと、オーリは手近な相手に手綱を放り投げた。
足を止めずに、裏口に向かう。
「会議だ。長老たちを集めてくれ」
「この時間ですと、皆様お休みになられているかと」
「緊急事態だ。叩き起こせ」
戸惑う親衛隊員に、反論を許さない口調で命じる。
「オーリ!」
階段を登っていると、途中の階から懐かしい相手が走り出てくる。
「ただいま、ティオ」
「どこに行っていた! 何故、一度も連絡も寄越さないで……!」
「無事だってことぐらいは判ってただろ」
それは、風竜王が一度も顕現されなかったからだ。
明らかに心労をかけたと判る相手にひらりと片手を振って、オーリは更に階段を登る。
「待て、ちゃんと話を」
「するさ。会議を招集した。まあ三十分後ってとこかな」
「会議?」
眉を寄せて繰り返す。ほぼ一瞬で、彼は自分の役割を取り戻した。
「身支度をちゃんとしろよ。すぐに風呂を沸かさせる。お前、馬みたいな臭いがするぞ」
「そりゃずっと馬に乗ってたからな」
肩を竦めて返す。
それぐらいの時間は取れるだろう。長老方は、何よりも見栄えを重視されるものだ。
彼らは、それぞれの地位についてからかなり早い時期にそれに対応していた。
その夜、アーラ宮の長老、総勢十二名が集められた。
皆夜中に起こされて、不機嫌な顔を崩さない。
最初の一人が来る前からその場に座っていたオーリは、この短時間で見違えるほどこざっぱりとしていた。壁際に目立たないように座るノーティオの手腕だ。
絨毯に胡坐をかいていたオーリが、やや身を乗り出した。
「さて、このような時間に召集をかけたことを、まずお詫びする。そして、この一ヶ月ほど不在だったことについても。尤も、それに関しては、皆様がしっかり竜王宮を護ってくださっていたから、私はあまり心配しなかったが」
オーリの笑みを浮かべての言葉に、車座になっている長老たちが、やや空気を和らげる。
が、次の瞬間、青年は表情を引き締めた。
「では、東からやってくる脅威について説明しよう。あれは、イグニシア王国軍だ。彼らはカタラクタを通り、陸路でフルトゥナに侵攻した。氏族と戦い、草原に火を放っている。……」
話が進むにつれ、長老たちから眠気は消え失せ、驚愕にざわめいた。
「王室へ早馬を出し、東からの侵攻をお知らせすることは大事です。夜明けすぐに、使者を送り出しましょう」
「しかし、その他の提案に関しては……」
長老の大部分が、渋い顔を崩さない。
「王室は既に西からの侵攻に対処するので、手一杯だ。貴族に命令を出し、どれだけこちらに戦力を割いて貰えるものか。我らがまず何とかしなくてはならない」
「だが、まさかそんな、竜王宮に敵対するなどと」
竜王宮には、世俗の力は及ばない。その概念を覆すには、オーリの言葉だけでは力不足だ。
夜が明けるまで延々と訴え、脅し、恫喝したが、しかし彼らの頑なな態度を崩すことができなかった。
「……アーラ宮が奴らに取り囲まれるまで、あのままなんじゃないか……」
自室に入り、高位の巫子は力なく肩を落とす。
「奴らの行軍速度は遅いんだろう。まだ、少しは時間がある。だからおまえはとっとと寝ろ」
凄まじくシビアに、ノーティオはオーリの背中を寝台に向けて押しやった。
確かに、ここしばらくまともに休んでいない。もう抗う気力もなくて、彼は柔らかな寝台に倒れ伏した。
事態が動いたのは、その二日後のことだ。




