01
深夜であるにも関わらず、オーリが跳ね起きる。
馬の蹄の轟く音が近づいてきているのだ。
睡眠中は、竜王の御力は殆ど発揮されない。つまり充分な睡眠状態ではなかった青年は、寝巻きのまま、裸足で自室から飛び出しかける。
「お戻りください、高位の巫子」
だが、扉の前で慣れたように護衛の親衛隊員らがそれを押し留めた。
「何かありましたら、すぐにお知らせ致します。少しでもお休みください」
突然部屋を飛び出し、躊躇いなく最下階まで飛び降りる高位の巫子は、追いつけなくなる前に制止するより止める術はない。
学習能力の高い部下たちに、オーリが苦い顔になる。
苛々と自室で待っていると、数十分後にようやく扉が叩かれた。
入ってきたのは、ノーティオだ。
「……ちょっとでも寝ておけよ」
溜め息混じりに言う彼も、顔色が悪い。
「西からの知らせか? どうなってる」
オーリが立ち上がりかけるのを制して、ノーティオは勝手に近くのクッションに腰を下ろした。
「一進一退だ。ロポスの岩山が、何とか敵を防いではいる。だが、湖側から侵入しようとする船がいるからな。できるだけ、沈めてはいるようだが」
二人の若者は揃って眉を寄せた。
北方の隣国、イグニシアが宣戦布告したのは、一ヶ月ほど前である。
国境地帯を荒らし回る馬賊たちを何度通達しても取り締まらないのは、フルトゥナが国を挙げて支援しているからだ、というのがその大義名分だった。
確かに、馬賊は存在する。オリヴィニスはそれをよく知っていた。
フルトゥナよりも豊かなイグニシアへ遠征する者がいないとも限らない。国境を越えるのは少々大変ではあるが。
だがそれに対し、国内の貴族たちから兵を募り、王の命令の許に他国と戦争を始める、というのは、些か大事すぎはしないか。
幸い、イグニシアとの国境はドロモス河である。大河、と言ってもいいほどの幅がある河だ。
ここを渡り、平原に入る前に聳えるロポスの岩山を越えるのに、イーレクス王子率いるイグニシア王国軍は酷く苦戦していた。
一方、フルトゥナ側は西部を拠点とする氏族たちが奮戦しているが、兵力はこちらが少なく、かつ指揮系統もばらばらである。
彼らが優位に立っているのは、ただ地の利があるという一点だけだ。
今現在、オーリにはそのような戦に対する知識はない。ただ、戦の趨勢にやきもきするしかないのだ。
ノーティオの手が、僅かに震えている。
「どうかしたのか?」
尋ねると、びくり、と身体を震わせた。
「何でもない」
「ティオ。これ以上、私に隠し事をしないでくれ」
重ねて言う高位の巫子に、秘書官は長く吐息を漏らす。呼吸すら思うようにできないのか、それは苦しげに揺れた。
「……大したことじゃない。ついでに知らせがあっただけだ。……カルコニス子爵が、出陣すると」
オーリが僅かに目を見開く。
「いや、もうしたんだろうな。出発の日付は昨日だった」
言葉がなくて、オーリは傍らの卓からワインの瓶とグラスとを手に取った。ティオの目前に置いて、無造作に赤い液体を注ぐ。
礼の代わりに一度頷き、ティオが一気にそれを煽った。飲み干した後に大きく呼吸をする。
「俺は……、俺は、彼を好きでいたことなど、一度もなかった。王都にいた頃、俺と母親があいつにどんな仕打ちをされたか、お前に言っても信じられないだろう。アーラ宮に移ってきてもあいつはちょっかいを掛けてくる。お前のおかげで、俺はようやくあいつとの縁が切れたみたいなものだ。……なのに」
ティオは、強く、奥歯を噛み締める。
「恐ろしいんだ。あいつがもしも死んでしまったら、と思うと。死んでしまえばいいって、今までずっと思っていたのに。俺は、どこまでも、弱い……」
手に握りこまれたグラスの縁に瓶の口を当てる。かちかちと小さな音を立てながら、再度ワインが注がれた。
「ティオ。風竜王の巫子とは、民を護り、その幸福を願う者だ。お前は巫子で、彼は民なんだから、お前が恐ろしく思うのは、きっと当たり前なんだろう」
見るからに無理をして、ティオが笑う。
「お前も何かいい感じのことを言うようになったよな」
「見直したか?」
「ちょっとだけだ」
戦は、更に三ヶ月続いている。
アーラ宮や、周辺の街では不安の声が上がるようになってきた。
オーリは時間を見つけては最上階の神殿へ登り、西の方を見つめている。
無論、それで何が判る訳でも、何ができる訳でもないのだが。
竜王を責めてはならない。
彼は、今はもうその理由を知っている。
執務室から突然飛び出してきた高位の巫子に、慌てて警備の者が立ち塞がる。
「鐘楼だ」
短く告げて、オーリは階段を二層降りた。そのまま、背後に親衛隊を引き連れて通路を歩く。
ばたばたと通路の先から走る音が聞こえる。それは、こちらに気づくと急いで足を止めた。
「オリヴィニス様! 今、ご報告に上がろうと」
「話せ」
短く命じた青年は、その横をすり抜けて先を急ぐ。
「東の草原に、煙が上がっております」
聞き違いではなかった。オーリが眉を寄せる。
鐘楼は、見張り小屋も兼ねている。地上五十メートルはあるそこからは、東の地平線の辺りの空が、薄黒く滲んで見えた。
東は、イグニシアと国境を接していない。そして、カタラクタからの宣戦布告は受けていない。
一体何故、草原に火が放たれているのか。
オーリの焦燥は、ここで限界を迎える。
無造作に、彼は胸壁に腕をかけた。
「巫子様……!」
親衛隊の叫び声を背に、飛び降りる。
その下は、アーラ宮の裏庭だった。たん、と小さな音を立てて降り立ったオーリに、驚愕の視線が集まる。
「馬を!」
鋭く命じて、一つの扉を開く。
彼は下位の巫子だった頃、この辺りで度々仕事をしていた。どこに何があるか、彼はよく知っている。
最低限必要なものを適当な革袋に詰める。額に布を巻きつけて裏庭に戻ると、既に馬に鞍がつけられていた。
戸惑った表情の巫子たちに一言労いの言葉だけをかけて、オーリは素早く騎乗して裏門へと向かった。
「オーリ!」
が、門に辿りつかないうちに声をかけられる。
溜め息をついて、顔だけを向けた。
「お前は内勤にしておくべきだな、リームス」
走って来たのだろう、息が荒い。手に槍を持ち、男は信じられないというようにオーリを見上げていた。
「どこに行くつもりだ?」
「ちょっと偵察だ。東の様子を見てくる」
「一人でか? 莫迦を言うな。何日かかると思っている!」
アーラ宮は、東西方向で言えば、フルトゥナの丁度中央辺りだ。通常なら、国境まで単騎でも一ヶ月はかかる。今草原が燃えているのがどの辺りかは判断できないが、それでも国境に近い辺りの筈だ。
この頃は、オーリはまだ竜王の御力をもってしても、移動距離を縮めることはできない。少しばかり頭が冷えて、口を噤んだ。
「でも、まあ、情報を持っている者に行き会えるかもしれないしな」
が、すぐに自己完結してそう告げる。
「待て! せめて、護衛を連れて行けよ!」
「私は十七まで草原で暮らしていたんだぞ、リームス? 私以上に草原を知っていて、私よりも若い者がいたら寄越してくれ。後からでも追いつく筈だ」
「無茶言うな!」
ここで悪あがきをしない辺り、リームスはなかなか現実的だ。
「大丈夫だ。私がいなくても、竜王宮はちゃんと動く」
小さく手を振り、オーリは馬の腹を軽く蹴った。
そして、そのまま、開いている裏門から外に飛び出した。
しかし、確かに国境まで馬で走るのは時間がかかる。
そこで、オーリは一転して進路を湖に向けた。
三日かけて港町アウィスへと進み、そこで船を雇う。
大きさは必要ない。だが、馬を連れて行きたいという要求に、いい顔をする船主はあまりいなかった。
結局、現地の竜王宮の口添えと資金とで何とかなったのだが。
いつでも陸に上がれるように、さほど沖へは出ずに進ませる。
これなら、国境まで行くとしても、遅くても一週間ほどで着くだろう。
オーリが船を下りたのは、結局湖に出て三日後のことだった。
人気のない浜に下ろして貰い、内陸へと進む。
東の地平線の辺りに、小さな砂埃が見えた。
オーリは、残念ながら視力は人並みである。
尤も草原育ちのおかげで、やや良い、程度ではあるが。
馬を連れ、小さな岩の陰に隠れて耳を澄ませた。
蹄の音に紛れる話し声を何とか聞き分ける。
おそらくはフルトゥナの民である、と判断して、オーリは再び馬に乗った。丘の上で彼らを待ち受ける。
一心不乱に西へ向かってきたのは、百名ほどの騎馬の民だった。こちらに気づいたのか、大声で呼び交わしている。
そして、突然オーリに矢を射掛けてきた。
「……っ、我が竜王の名とその誇りにかけて!」
一瞬息を飲みながら、それでも弦を引き絞る音で、放たれるよりも早く気づいていたオーリが請願を口にする。
そして、彼の数メートル手前で、矢が弾かれた。
効果は、劇的だった。
一際大きな悲鳴が上がり、彼らはオーリを避けて散り散りに逃げ出したのだ。
「え、ちょっと……」
慌てて周囲を見回す。
「待て!」
その言葉に応じ、遅れかけていた一頭の馬が脚を止める。
「な、何だ!?」
その馬に乗っていた男は、恐慌に陥りかけていた。踵を馬の脇腹に叩きつけるが、馬は歩きだそうともしない。
急いで近づくと、彼は幾つも手傷を負っているのか、薄汚れた布が身体のあちこちに巻かれているのが見えた。
「来るな! 化物め!」
恐怖に裏返った声が投げつけられる。
「落ち着け。私は風竜王宮の者だ。アーラ宮から来た」
僅かに眉を寄せ、オーリは告げる。今、彼は額のエメラルドに布を巻いて隠していて、一見しただけでは只人にしか見えない。
「りゅ……、竜王宮?」
おどおどと、男が繰り返した。
ゆっくりとオーリが手を伸ばす。軽く指先が腕に触れただけだというのに、男は小刻みに身体を震わせていた。
「我が竜王の名とその誇りにかけて」
静かに放ったその言葉が、男の傷を癒していく。
「え?」
信じられない、という表情で、相手は自分の腕や脚に忙しく視線を走らせた。そのまま、逃がさない、というようにオーリはがっしりと腕を掴む。
「東で何があったのか、教えてはくれないか」
男は、氏族の一員だった。
氏族とは、血で繋がる一団だ。彼らは数百人規模で移動する。街に定住した者たちをあからさまに軽蔑し、自由の民という自負を持って生きている。
それらから血縁が遠くなった者や、氏族の生活に向いていない者は、家族単位で動く遊牧民となる。人口比率としては、このような人々が最も多い。オーリもこちらの出身だ。
フルトゥナには十を越える氏族が存在し、彼らは時に争い、時に和解して生きていた。
ひょっとしたら、東方では単純に氏族間の争いが起きただけかもしれない。こんな時期に、しかも草原に火をつける、というのは言語道断だとしても。
しかし、オーリの希望はすぐに消えた。
男は震えながら、こう続けたのだ。
「やって来たんだ。カタラクタから。……黒い、悪魔が」




