19
ある日、執務室に向かったオーリは、扉の前に見覚えのある人影を認めて足を止めた。
「ええと……リームス?」
十日前、彼と盛大に殴り合った男は、やや居心地悪げに敬礼した。
「治ったみたいだな」
にやりと笑んで、自分の頬を親指でなぞる。僅かに眉を寄せたが、リームスは従順に目を伏せた。
「先日は、誠に申し訳……」
「あー、いい、いい。もうあれはあれで終わりだ。もしもまだ言いたいことがあれば、いつでも言いに来い。できるだけ時間を取る」
十日経って、リームスもやや頭が冷えた。処分を軽くして貰ったことに、感謝もある。
だが、同様に、オーリがその行動を後悔していることも考えられたため、彼はとにかくへりくだって対応したのだ。
が、意外な反応に、戸惑ったまま立ち尽くす。
「……それで、よければ、ディアクリシス様を一緒に悼んでくれないか。あの方を一人で思い返すのはもう……、飽きた」
次いで、低く告げられた言葉に、親衛隊員はもう一度胸に拳を当てる。
「私などで宜しければ、喜んで」
オーリは机に向かって呻いていた。
高位の巫子に就任して、三ヶ月。そろそろ通常の仕事にも慣れてはきていたが。
「結局金勘定が一番問題なんだなぁ……」
彼は羊皮紙に並ぶ数字の羅列に、心が折れそうになっていた。
竜王宮は大所帯だ。彼らの生活を支えなくてはならない。
反面、収入は酷く少ない。他国と違って、竜王宮固有の領地というものがないので、定住する民からの税収が入ってこないのだ。
それに関しては、貴族も似たようなものなのだが。フルトゥナの国土の大半は、誰の所有地でもない。一部の街がある場所だけに領主がいて、そこから僅かばかりの税収を得ている。僅か、というのは、民の大半は遊牧民として国土を放浪しているからである。
故に、竜王宮の収入は、ほぼ全てを参詣する信者たちからの献金や寄進に依っていた。
それも、充分であるとはとても言えない。
ディアクリシスは、清貧を貫くことでどうにかやりくりしていたようだったが、ここ数ヶ月、彼の葬儀やオーリの即位に伴う諸々の支出が続いている。
結局は財産を切り売りするか、金を借りるかしかないが、どちらも厄介なことになりそうだった。
「……つまり、収入を増やせばいいんだよな」
ふと、小さく呟く。
「へぇ。どうやってそんなことができるんだよ」
それを聞き咎め、若い秘書官が皮肉げに問いかけた。
一体彼のどこに敬意があるんだろう、と自分の強引な人選を後悔しながら、しかしオーリは口を開く。
「遊牧民だ」
「遊……?」
不思議そうに、ノーティオが呟く。
「ああ。遊牧民たちは、基本的に殆ど竜王宮へは足を運ばない。都市にあまり来ないからな。でも、だからって信仰心がない訳じゃないんだ」
「それはそうかもしれないが。都市に来ないなら、そもそも献金もしてこないだろう」
「だからさ。来ないなら、こちらから行けばいい」
数秒間、ノーティオは考えこんだ。
「……え?」
「巫子を数名と、一応護衛として親衛隊員も二人以上、かな。遊牧民の野営地を巡って、軽い儀式と祝福を与えて回る。彼らは、それでもかなり喜ぶだろう。少なくとも、ディアクリシス様が各地を回っていた時は大歓迎されていた」
「いや、しかしオーリ」
さっさと計画を立て始めた高位の巫子に、ノーティオは慌てて制止する。
「ん?」
「竜王宮には、草原に慣れている者は少ないんだ。そうそう上手くいく訳がない」
巫子、若しくは親衛隊として竜王宮にいる者は、大半が都市の出身者だった。竜王宮に日常的に触れ、親近感を持つ者はそちらの方が多いのだから、当然ではある。
「勿論、最初から都市出身者だけで向かわせる、なんて無理は言わない。できるだけ、草原の民から選ぶべきだろう。だが、軌道に乗ってきたら、都市の者だろうとえり好みはできなくなるぞ。竜王宮には、金が必要だ」
「意地汚いな、オーリ」
非難するように言われるが、彼が非難する本当の理由はまた別だ。
オーリが穏やかに笑う。
「俺たちは竜王の巫子だ、ノーティオ。竜王と民を繋ぐために、全力を尽くすべきじゃないのか?」
年下の秘書官が、小さく毒づく。
「お前も、酷く驚くことになるかもしれないぞ」
笑みを意地の悪いものに変えて、オーリはそう告げた。
その年の、秋になりかけた頃だった。
アーラ宮の正門前で、門衛と押し問答している人影があった。
「せめて十分、いえ、五分でいいんです」
「高位の巫子様はお忙しい。いきなりやってきて、会える訳がないだろう」
相手はまだ若い女性で、門衛もあまり高圧的には出られず、困っているようだ。
諦めようとしない相手が、再び口を開こうとした時に。
すたん、と彼女の背後で軽い音がした。正面に立っていた門衛が、唖然と口を開きっ放しにする。
「いい。私の客だ」
そして、後ろから、懐かしい声が響いた。
振り返ると、栗色の髪の、背の高い青年が立っている。
「……オーリ」
「久しぶりだな、タリア」
ウィスタリアは、ここへ来る前にディアクリシスの墓前に参ってきたのだという。
「ディアクリシス様は、盗賊に襲われたのですって?」
「ああ。あの野営地は全滅していた。……君たちが無事で、よかったよ」
勿論、誰が生命を落としたとしても、痛ましいことではあるのだが。
貴方も、と呟いて、ウィスタリアは穏やかに笑んだ。
「その頃、あたしたちはちょっと街の傍で暮らしていたのよ」
そして、腕に抱いた幼子を揺らしてみせる。
その笑みは、もはや少女のものではない。
「オーリ。この子を、祝福してくださる?」
「勿論だよ。喜んで」
慣れた手つきで、赤ん坊を受けとる。
「名前は?」
「ディアクリシス」
オーリを驚かせたことで、ウィスタリアは楽しげに笑った。
「みんなから、ディアって呼ばれるの。愛されている感じがしない?」
「いい名前だ」
生真面目に返して、オーリはその大きな掌を子供の頭に乗せた。きょとんとして、薄い水色の瞳が見返してくる。
「我が最愛なる竜王の名とその誇りにかけて、ディアクリシス、汝が生命、汝が魂に祝福をもたらさん。汝の魂が常に幸福を伴う竜王と共にあらんことを」
幼きディアクリシスは、明るく笑い、そのぷくぷくした両手を若き高位の巫子の額に嵌めこまれたエメラルドへと延ばした。
ウィスタリアが、微笑みを浮かべてその情景を見つめていた。
苦笑して、母親へ子供を返す。
「また来るわ、オーリ。会えるかどうか判らないけど」
「会えるさ。君が来るなら、仕事ぐらいいつでも放り出す」
「ディアクリシス様がお嘆きになるわよ」
笑いながらそう言って、彼女は坂を下っていく。
オーリは、じっとその後ろ姿を見送っていた。
「……お前の女か?」
門衛が持ち場を離れ、近づいてきたかと思うと、軽くそう問いかけられる。
「彼女に失礼なことを言うな、リームス」
断固としてオーリはそう言い切った。
「友人だよ。彼女に、俺はどれだけ助けられたか知れない」
ふぅん、と少しばかり詰まらなそうに呟いて、リームスは話題を変える。
「それより、あんな風に上層から飛び降りないでくれ。心臓が止まるかと思った」
先ほど、突然正門前に現れたことに対して苦情を述べる。
「早くしないと追い帰されそうだったからな」
「次に来たら、ちゃんとお前を呼ぶよ。……それより、お前も急がないとノーティオがそろそろ追いついてくるんじゃないか?」
「もうすぐだ」
罵声を撒き散らしながら階段を下っている秘書官の存在を感知しながら、オーリは今はまだのんびりとそう言った。
これが、ウィスタリアと会う最後の機会になるなど、彼は思ってもいなかったのだ。
オリヴィニスが即位して二年目の夏。
マグニフィクムが、亡くなった。
その夏は普段よりも暑く、高齢であるマグニフィクムは少しずつ衰弱していっていたのだ。
勿論、オーリを始めとして、アーラ宮を挙げて老楽師のためにあらゆる手を尽くしていたのだが。
おそらくはさほど苦しむこともなく、ひっそりと息を引き取ったのがせめてもの慰めだった。
マグニフィクムは、長い友人だったディアクリシスの隣に葬られた。
オーリは、彼らの前でリュートを弾きつつ歌うことが多くなった。珍しく、頑固な秘書官はそれに苦言を呈さない。
アーラ宮の傍、草原に連なる丘の上で、風に乗って白い雲と歌声とが流れていく。
破滅は、ひたひたと彼らに迫り始めていた。




