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「……何をなさっておいでですか」
溜め息混じりにマグニフィクムに呟かれ、ふいとオーリは顔を背けた。
その横顔には、毒々しい紫色のあざができている。
「傷を癒されないのですか」
とりあえず話題を変えた。憮然として、オーリは返す。
「あいつを癒すつもりはない。だから、俺も治すつもりはない」
「貴方にはお立場というものがあるのですから」
「そんなものがあるから、こんなことになっている!」
吐き捨てるように、オーリは言葉を遮った。
あまりにも抽象的なその内容は、しかし的確に状況を表していた。
「あの親衛隊員にも、立場があります。彼は追放されるでしょう」
マグニフィクムの言葉に、鋭く視線を向けた。
「何故……」
「何故も何も。自らが守護すべき竜王宮の高位の巫子に手を上げておいて、処罰されないとでも思っておいででしたか?」
「先に殴ったのは、俺の方だ!」
胸に手を当て、オーリが強弁する。
「貴方のお言葉によると、その前に彼が貴方を根拠なく中傷した筈ですが」
冷静に、マグニフィクムは指摘した。
それを是とするなら、相手の処分に反対はできなくなる。
「お立場をお考えくださいとは、そういうことです」
まあいい経験になったでしょう、と呟かれて、唇を引き結んだ。塞がりかけた傷口が、引き攣れる。
「……いい経験で、あいつは放逐されるのか」
竜王宮から追放されるなどは、何があったかと勘繰られて当然だ。彼が今後、生活をしていくのは難しい。
「彼が、貴方を若僧と侮るのでしたら、自らはそれ以上に身を慎むべきでした」
自業自得だ、と言いたげな師に、しかし首を振る。
立ち上がるオーリに、胡乱な視線を向けた。
「どうされるのですか」
「総隊長に会いに行く」
「ここに呼び出せばよいのですよ、高位の巫子」
「総隊長を? 俺が?」
皮肉げに繰り返して、彼はそのまま扉に向かう。
「貴方をお一人で行かせる訳には参りませんよ。昼間、あんなことがあったのですから」
牽制するマグニフィクムに、にやりと笑みを向ける。
「貴方が自分の身を盾にすれば、絶対に俺が譲るものだなんて思われないことですよ、マグニフィクム師。ここから最下層まで俺についてこられるのなら、どうぞ」
夜ではあったが、任務についていない親衛隊員と巫子たちは大食堂にその殆どが集まっていた。
今日の昼間にあった事件について口々に話している。
責任を取らされて竜王宮を放逐されるリームスを慰め、横暴な高位の巫子を非難する声が多い。
そこに、突然前触れもなく扉が開く。
一瞬で静まった室内に踏みこんできたのは、親衛隊の総隊長とマグニフィクム、そして当の高位の巫子オリヴィニスだ。
無言で、しかし反感に満ちた視線が集中する。
苦虫を噛み潰したような表情でそれを一瞥すると、総隊長が口を開く。
「先ほど発表した、第三隊所属のリームスの処罰は取り消しとし、十日間の謹慎処分とする」
硬い口調でそれだけを告げると、視線をオーリへと向けた。
ざわめく一同を、青年は見渡す。
「彼を追放するというのなら、俺も追放されなければならない。それだけだ」
きっぱりと告げる彼の顔は、あざや腫れ、切り傷がそのままだ。
少しばかり驚いたように、彼らはオーリとリームスとを見比べた。
「さて、何時間か前にも彼に言ったが、高位の巫子の人選に対して不服があるのなら、竜王に直接言ってくれ。俺もそうする。俺自身に文句があるのなら、俺に言えばいい。少なくとも、仲間内で言いあっていたところで、何の答えも返ってこない筈だ。俺に向かえば、答えは返るぞ。言葉なら言葉で、拳なら拳で、だ」
「オーリ!」
背後から、小声でマグニフィクムが嗜める。
だが、オーリはそれを聞いた素振りも見せない。
「それについては、文句はあるか?」
しん、と静まった室内には、小さな呟きすら存在しない。
「じゃあ、文句がある奴は明日から来い。今日はまだ用事がある」
きっぱりと言い放って、オーリはくるりと踵を返した。
慌てて残りの二人がその後を追い、扉が閉められる。
「………………『俺もそうする』?」
小さな疑問が、ぽろりと漏れた。
アーラ宮の中央、最上階近くまでを貫く虚へ続く通路をさっさと歩いていたオーリは、その真下でようやく足を止めた。
「無理をお願いして、申し訳なかった。総隊長」
突然頭を下げられて、壮年の男は少々慌てる。
確かに、自分の下した処分を覆されて、面白くなかったのは確かだが。
しかし、高位の巫子の意向に逆らえる立場でもないのは、事実だ。
次いで、オーリは視線をマグニフィクムへと向けた。
「どうやらお部屋までお送りすることはできないようです。師よ。お気をつけてお戻りください」
降りてくる時には、流石に共に階段を使っていたが、登るのはそうはしないつもりだったのだ。
呆れた顔をしているマグニフィクムに会釈して、オーリは頭上を見上げ、軽く床を蹴った。
次の瞬間には、その身体は十数メートルは跳び上がっている。
「……っ!?」
驚愕に息を飲む総隊長をよそに、マグニフィクムは溜め息をついた。
「若いというのは、厄介なものだな。ディアクリシスは少なくともその点だけは分別があった」
竜王からの恩寵である跳躍力を駆使しない、というのが、分別の問題であるかどうかは、また別の話ではあるが。
数回、跳躍を繰り返し、オーリは虚の最上階まで登り切った。
これからは、階段で上がっていかなくてはならない。
アーラ宮の頂上、高位の巫子以外の立ち入りを禁じられている聖殿は、しかし埃一つ落ちてはいなかった。
細かなタイルで彩られた床の縁に、瀟洒な円柱がアーチを描きつつ巡り、屋根を支えている。
当然灯は点されておらず、微かな月明かりのみが内部を照らしていた。
その外部では風の音がしているが、しかし聖殿内は空気が動く様子もない。
オーリが踏みこむまでは。
だん、と床を踏みしめ、青年は祭壇に真っ正面から向き合った。
「風竜王、ニネミア!」
次の瞬間、音もなく、眼前に緑なす竜王が出現した。
その存在に、竜王宮全体が震撼する。
静かにこちらを見返してくる風竜王を、強い意志を持って、オーリが睨みつける。
「俺は、もう逃げない。あの日聞けなかったことを、あの日、訊けなかったことを、話して貰う。それから、俺の文句を聞け! 言っておくが、山ほどあるからな」
怒りと苛立ちのままに、挑発的に言い放つ。
風竜王は、ただ、静かにその場に在った。
しかし、風竜王は簡単な相手ではないことがすぐに知れた。
問いには、きちんと答えてはくれる。
例えば、何故、先代の高位の巫子を死ぬに任せていたのか、と尋ねた場合などは、返ってきた言葉はとある日付でしかなかったが。
それは、ディアクリシスがつけていた記録の日付だ。
オーリは自室にとって返し、羊皮紙をひっくり返してそれを見つけ、また神殿まで戻る、という行動を繰り返した。
「『人の世のことは、人に』……?」
神殿のモザイク貼りの冷たい床に座り、手にした羊皮紙に記された言葉に眉を寄せる。
「つまり、人の手によって殺されたディアクリシス様を、貴方は救けない、ということか?」
風竜王はそれに対し、直接是とも非とも返さない。
次々に繰り出されるオーリの問いには、それの記してある場所、またはそれを知っている人物の名前、を差し出した。
オーリは翌日、時間を無理矢理に空けてその人物に会いに行った。
相手は、壮年の落ち着いた雰囲気の巫女だ。オーリの来訪に、酷く驚いている。
「お忙しいところ、申し訳ない」
新たな高位の巫子が軽く頭を下げると、彼女は慌てて手を振る。
「いえ、そのような、巫子様。……あの、それで、私などにどのようなご用件でしょうか」
「実は、少しお訊きしたいことがあって。十四年前の夏頃、ディアクリシス様が、酷いお怪我をされたことがあったようなのですが」
十四年、と、記憶を探るように巫女は呟く。
ディアクリシスの手記には、怪我をしたことしか記載されていなかった。
「……ああ、王都に出られた時ですね。確か、先王が四十歳になられて、その記念式典に招かれたのです。街道を進んでいたのですが、嵐になってしまって。近くに木立があったので、そこで雨風を凌ごうとしていました。
その頃はディアクリシス様も馬車ではなく騎乗しておられたのですが、流石に雨が酷いため、随行の馬車に向かわれていた時に、その木立に雷が落ちたのです」
びくり、とオーリが身を震わせた。
遮るものの少ない草原では、雷はかなりの脅威だ。彼は、それをよく知っている。
「樹が一本、縦に裂けるようにして倒れ、二人の巫子とディアクリシス様が下敷きになりました。そして、その下から救け出されると、ディアクリシス様は全員の怪我を癒されたのです」
「どれほどの怪我でしたか?」
オリヴィニスの問いに、数秒考えこむ。
「腕や足の骨が折れていた、とお聞きしました。そう、もしも完全に千切れてしまっていたなら、それを元に戻すことはできなかった、と」
怪我を癒すのは、竜王の御力を借りて行う。
ならば、できないということは竜王の力が及ばぬことなのか。
竜王の、許さぬことなのか。
思案するオーリに、思いだしたように巫女が続ける。
「その時、雷のすぐ傍にいすぎて、一人の親衛隊員が亡くなりました。ディアクリシス様は酷くお嘆きになられて。確か、亡くなってしまった者を、取り戻すことはできない、とおっしゃっていたような」
ぼんやりと、何か掴めてきたような気がする。丁重に礼を言い、オーリは立ち上がった。見送ろうと、巫女もそれに倣う。
「お役に立てたのならよいのですけれど。あの、ですが、どうして私にお尋ねに来られたのですか?」
「貴方なら知っておられる、と聞いたからです。風竜王より」
その言葉が及ぼした効果は、劇的だった。信じられないように見開かれた目に、じわり、と涙が浮かび上がってくる。
「竜王様が、私を……?」
「はい」
少々訝しく思いながら、頷く。
と、巫女は素早く床に膝をつき、深々と頭を下げた。
「あ、あの」
「ありがとうございます。竜王様が、私のような者のことを、そのお心に留めていてくださるなど、望外の喜びです。何かありましたら、いつでもお声をお掛けください、高位の巫子」
「……えっと。その、ありがとう」
酷く戸惑いながら、そう返す。
彼女の信仰心は、思えば特別なものではない。もしも下位の巫子だった時、同じように竜王の意識に自分の存在があった、と知れば、どれほど誇らしかったことだろう。
それが変わってしまったのは、以前は竜王の真の意図を知らなかったからだ、と昨日までは思っていた。
だが、直接言葉を交わすようになってさえ、風竜王の意図など端緒すら掴めていない。
まだ始めたばかりだ。理解が深まれば、きっと、納得できる。
再度そう決意して、オーリはその夜も神殿へと向かった。
その行為が、一体自分に何をもたらすのか、気づきもしないままに。




