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いつか、竜の舞う丘で。  作者: 水浅葱ゆきねこ
水の章

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13

 午後を回った辺りで、峠が見えてくる。

 この道は、勿論山脈の頂上を通っている訳ではない。中でも割と低めの峠を切り開いてできたものだ。

 それでも、何事もなくて通過に一週間ほどかかるのだが。

 峠の向こう側から、激しい風が吹きつけ始めた。

 正面を向いていては息がしづらくて、ノウマードがマントの端で顔を覆う。

「ここは、いつもこんななのか?」

 流石に疲労の色が濃い。膝から下を泥にまみれさせて、慎重に脚を進めている。

「噂に聞くには、大体こんなものらしい。冬はな。まあまだ冬の初めだけど。言っておくが、山脈のイグニシア側は大抵吹雪になるらしいぞ」

「……は?」

 不審そうに視線を向けられる。

「吹雪って、今、カタラクタ側だけど結構酷いよ」

「だから。こんなもんじゃ、ない」

 わざとらしく強調した言葉に、ノウマードが唖然とする。

「……北方の国は頭がおかしいんじゃないか」

 酷い言いがかりに、アルマが笑みを浮かべた。

「雪が降っても山を越えようって解決策を出したのはお前だぜ?」

「あの日は夜中に叩き起こされて、ちょっとぼぅっとしてたんだよ」


 最後の一歩を踏みしめて、前傾していた背中を伸ばす。

 音を立てそうな勢いで降る雪を透かして、イグニシアの国土が見下ろせた。峠の切り通しに着いたのだ。

 アルマが、小さく馬車の窓を叩く。ペルルがすぐに顔を見せた。

「イグニシアとの国境です。これから下りになりますので」

 窓を開けなくても聞こえるように、少し大きな声で告げる。だが、ペルルは急いで窓を細く開いてきた。

「あの、少し降りてもよいでしょうか」

 その言葉に、戸惑う。

「ですが姫巫女、天候はご覧の通りです。足元もぬかるみだらけですし」

 返答に哀しげな表情を浮かべられて、狼狽える。

 くい、と横からマントを引かれた。

 顔を向けると、あらぬ方向を向いて立っているノウマードが、視線だけをこちらへ落としてきていた。

「少しは察してあげなよ。国境なんだろう? 野暮だな」

「……あ」

 少し迷ったが、扉に手をかける。

「お気をつけて」

 少女の手を取り、馬車から降りる手助けをする。彼女が履いていた汚れ一つなかったブーツに、無情に泥が撥ねた。

 縦横に吹き荒れる風に、ペルルは空いている手で長い亜麻色の髪を押さえる。

 水竜王の姫巫女は、彼らが登ってきた方向、故郷カタラクタをじっと見つめた。

 寒さのせいか、僅かに唇が震えている。

「姫巫女……」

 アルマが所在なげに声をかける。彼を見上げてきた少女は、柔らかな笑みを浮かべていた。くるり、とその場で踵を返す。

「こちらがイグニシアですのね。どちらも凄い雪で、見比べられないのが残念ですわ」

 明るい声が、胸を打つ。

「そうですね。晴れていればよかったのですが」

 無難に言葉を返す。二人は視線を合わせ、微笑みあった。

 全く何の障害もない、穏やかな午後であるかのように。

「ありがとうございました、アルマナセル様。馬車に戻ります」

 姫巫女が馬車に落ち着いたのを見計らい、御者に声をかける。ぎしぎしと車輪を軋ませながら、彼らは再び足を進めた。



 予想はしていたが、下り坂は登りよりも厄介だった。

 馬が進む速度よりも早く、荷馬車が滑り落ちていく。荷が重いのと、水気で地面の摩擦が少なくなっているせいだ。コントロールが効いていないということは、無理な動きによって車輪が破壊しかねないということでもある。

 荷馬は、尻が地面に着きそうなほどに脚を踏みしめていた。

 それに加えて、あらかじめ荷馬車の後部に設置していた幾本もの綱を兵士たちが引き、できる限り速度を適切に保とうとする。

 泥にまみれ、疲労困憊した隊が野営地へ辿り着いたのは、もう陽も暮れようという頃だった。

 野営の準備をする間に、眉間に皺を寄せたテナークスがやってくる。

 山中でこれだけの人数が野営するには開けた場所が必要だ。どうしても、途中の山道で夜を越すなどということはできない。まして、こんな悪天候で。

 明日も行軍にこれほど時間がかかるようなら、出発を少し早めるべきではないかと進言してきたのだ。

 それで充分な休息が取れるかどうかは不安だが、一番の解決策は早く降雪域を抜けることだ。

 しばらく話し合った末に、彼らは早めに出立するということで合意した。


 天幕に足を踏み入れた瞬間に、アルマが崩れ落ちる。

「アルマ様!」

 エスタが慌てて抱き起こそうとした。

「……構う、な。もう、ここ……で、寝る」

 切れ切れに呟く。顔色が酷く悪い。唇が紫色になりかけていた。

「軍医を連れてきます」

 立ち上がりかける世話役のマントを、何とか引っ張った。

「構うな、って。疲れてるだけだ。医者には、何も、できねぇよ」

 吹雪く山を、徒歩で越えているのだ。しかも今日、隊を滞りなく進めるために彼が魔術を使った回数は、十を超えた時点で数えるのを止めた。これだけの回数をほんの一日のうちに使ったのは、流石に初めてだ。

 疲労は、特に魔術に依るものは、普通の医師に、即、何とかできるものではない。

「寝たら、治る。……食事は要らないって、言っておいてくれ」

 それだけ告げて、アルマは力なく目蓋を閉じた。

「せめて服を着替えて下さい。ずぶ濡れなんですよ」

 気遣わしげにエスタが身体を揺するが、もう少年は反応しない。

 天幕の中は、陶製ストーブが燃えていて、さほど寒くはない。とりあえず、エスタは櫃の中から服を適当に取りだした。

 勝手に着替えさせて、毛布の中へ押しこんでおこう。こんなところで寝かせていては、悪化こそすれ回復するとは思えない。

 青年は、慣れた手つきで少年の冷えた服を脱がしにかかった。




 最悪という状況には、際限がない。

 夜のうちに、雪は牡丹雪から粉雪に変わった。足首辺りまで積もった雪を踏みしめて進む。

 幸い、アルマたちがいる、隊の中央辺りまでくれば、踏みつけられた雪はもう半ば溶け、泥の混じった半透明の柔らかな氷となっていた。

 吹き荒れる風に、衰えは見られない。

 若い指揮官がやけに静かだ、ということに気づいて、ノウマードは背を屈めた。フードを深く被った顔は影に隠れているが、それを見て青年は僅かに顔をしかめた。

「アルマ。酷い顔色だ。休んだ方がいいんじゃないか」

「気のせいだ」

 短く、しかしきっぱりと拒絶してくる。

「あのね」

「暗いし、雪も降ってる。顔色も実際より悪く見えるだろ」

 食い下がったノウマードを、更に素っ気なくいなす。

「アルマナセル、君はまだ子供なんだし、無理をする意味なんてない。少しは自分の身体を考えて」

「俺は無理なんてしていないし、具合だって悪くない。見くびるな」

 低く、周囲に聞き取れない程度の声で囁く。少年は、眉を寄せてノウマードを睨め上げていた。じっと、青年はそれを見返している。

「……もしも仮に具合が悪くたって、それを表に出せる訳がないだろう。俺は、貴族だ。貴族がでかい顔をしていられるのは、いざって時に不動でいられるかどうかにかかってる。見栄を張るなら、心臓が止まるまで張り続けるべきなんだよ」

 僅かに心にひっかかって、ノウマードはやや後方へ視線を向けた。

 いつもならアルマに絡むノウマードを制するか、苦々しげに見つめてくるエスタが、何の関心も払わないような顔で数歩後ろを歩いていた。いや、通常であれば、あれほど心配性の世話役が、こんな状態の主人を気遣わない訳がない。

 長く、ノウマードが溜め息を落とした。

「爵位っていうものは厄介なんだねぇ」

「おぅ。少しは尊敬してくれ」



 翌日の昼近くになって、ようやく雪は小降りになり、そして野営地に着く頃には地面は乾いていた。

 兵士たちの表情にも、明るさが戻っている。

 しかし、疲労は蓄積する一方だ。ノウマードの軽口は明らかに減り、頑健さを誇っていたテナークスでさえ、顔に刻まれた皺がやや深くなって見える。

 毎夜、天幕に入ると同時に意識を失うように昏倒するアルマも、勿論例外ではない。

 夕食を共に摂らないようになったことをペルルが心配していたが、色々と忙しいと言ってごまかしている。

 そして、山を登り始めて七日後、彼らは麓の集積所に辿りついた。


 先に使者を送っていたために、責任者が門の前で彼らを待ち構えていた。

「アルマナセル殿、テナークス少佐!」

 隊の先頭に立つ二人に、驚愕の声を上げる。

「日程がぎりぎりになって、申し訳ない。そちらの任務に支障がなければいいのだが」

 ぎこちなく笑みを浮かべ、挨拶を述べる。

「そのような場合ではございません!」

 思わず、相手から叱責じみた声が上がるのも無理はない。

 荷馬車はあちこちが壊れかけ、仕官や兵士問わずに全員が泥にまみれ、徒歩で歩いてくる様は、まるで遭難でもしたかのような惨状だ。

「兵士たちを休ませては貰えないだろうか。食事もあまり良い物を食べさせてやれなかった。できれば全員に風呂も使わせて貰えればありがたい」

「宿舎を空けましょう。なに、頂上で雪が降ってしまっては、こちらの道は春まで殆ど使えません。補給部隊は、数日前からできるだけ航路に回すことになりましたので、予定していたほどここに残ってはいないのです」

 即座に判断した責任者の言葉は心強いが、他の心配事ができて更にアルマは口を開いた。

「我々の物資は酷く減っている。その分の補填を優先的にお願いしたい」

「部隊に必要なものは、私がリストを作って全て要請しておきます。アルマナセル殿、貴公は姫巫女のお世話をお願いします」

 テナークスが言葉を挟む。部隊の運営に関しては、確かに彼の方が確かだ。

 アルマは、おとなしくそれに従った。


 集積所の宿舎は、勿論華美な屋敷ではない。

 それでも、地面すら凍りつく山地で、隙間風の防ぎようがない天幕を張って夜を過ごすよりははるかに快適だ。

 前もって整えられた居室へ、ペルルを案内する。

 扉を開けると、赤々と燃える暖炉で暖められた空気が彼らを包む。

「あのような行軍で、本当にご無理をかけました。どうぞごゆっくりお休み下さい」

 胸に手を当て、一礼する。顔を上げると、ペルルが何とも言えない表情で見つめてきていた。

「……あの、アルマナセル様」

「はい」

 返事をしても、数十秒、ペルルは沈黙する。忍耐強くそれを待っていると、ようやく彼女は口を開いた。

「その、今までずっと、お護り下さってありがとうございます。貴方がいてくださらなければ、私たちは無事にここまで辿り着けませんでした」

「貴女にお仕えすることが、私の喜びです。ペルル様」

 さらりと出た言葉は、今まで王宮で幾度となく発したものだ。だが、これほど自然に、本心から口にしたことはなかった。

 一瞬、少女の頬が紅潮する。慌てた様子で、そのまま部屋へと足を踏み入れた。

「で、では、失礼します。また後ほど」

「はい」

 扉が閉まり、内側から鍵がかけられた音を耳にして、アルマはようやく肩の力を抜いた。目を閉じて、長く吐息を漏らす。



 目を開けると、周囲は真っ暗だった。

 柔らかく、暖かい寝台の感覚に、再び意識が沈んでいきそうになる。

 誘惑に抗って、アルマは記憶を攫った。

 姫巫女を部屋まで送った後、何にしろせめて着替えようと、自分の部屋に向かったことは覚えている。

 しかし部屋に入り、扉を閉め、室内の居心地のいい空気に触れた辺りで記憶が途切れている。

 気を張っていたのがふっつりと切れて、また倒れてしまったのだろうか。

 服は寝間着に着替えさせられているようだ。寝台を降りて、部屋の片隅にある櫃を開いてみる。幾枚か、自分の服が入れられていた。数が少ないのは、おそらく山越えで汚れた分を洗いに出しているのだろう。

 蝋燭に火を灯すことなく、簡単に身支度を整える。

 そして静かに居間へと抜けた。普段なら、この辺りでエスタがやってくるが、流石に彼も疲れているのか、隣接された使用人部屋から姿を見せることはなかった。

 廊下へ通じる扉を開く。壁には数メートルおきに燭台が設けられていて、その眩しさに目を眇めた。階段の脇で二人の兵士が歩哨に立っている。

「閣下」

 ぴしり、と敬礼を向けてくる。集積所にいた兵士だろう。自分が率いてきた者たちは休んでいる筈だ。そうであって、欲しい。

「ああ、ご苦労。悪いんだが、今何か食べられるものはあるだろうか」

 安堵し、一眠りして、流石に空腹だった。

「厨房の者を起こして参ります。何かしらはあるかと」

「大した物じゃなくていい。冷めていようが、馬肉じゃなければ大歓迎だ」

 アルマの言葉の意味が判らなかったのか、兵士は戸惑った様子を見せる。

「あの、閣下。テナークス少佐が、お目覚めになられましたら階下の執務室までおいで頂きたいと」

 告げられた言葉に、アルマは小首を傾げた。


 案内した兵士が、執務室の扉を叩いて名乗りを上げる。

 招き入れられたアルマが見たのは、泥に汚れた靴のままで机に向かうテナークスだった。

「申し訳ない、アルマナセル殿。明日の朝で構わなかったのですが」

「いや、起きてしまったので。……テナークス、まさか、休みもせずに?」

 机の上には、既に数十枚の書類が纏められている。

「夕食は摂らせて頂きましたよ」

 肩を竦めてそう返される。

「すまない、その、眠ってしまうつもりではなかったのだが」

 僅かに恥じ入った言葉に、副官は微笑を浮かべた。

「山越えでは、我々は貴方に頼りきりでした。休んで頂くことに、誰も不満などはありません」

「そんなことはない。貴公も、士官も、兵士たちも、皆が頑張ってくれたから、誰も失わずに越えられたのだ」

 心底そう思って、告げる。

 だが、テナークスはゆっくりと首を左右に振った。

「アルマナセル殿。正直、カタラクタ侵攻において、ずっと貴方はお飾り同然だと思っておりました。軽んじた態度であったと思われていても、仕方がありません。ですが、帰還に当たって、特にクレプスクルム山脈越えには、貴方の指揮官としての能力は充分以上でした。謝罪をお受け頂きたい」

 誠実な口調で、頭を下げる。

 このように自らの非を認めたことをはっきり表に出せる人物は、そういない。

「貴公の判断は全く間違っていないと思うのだが……」

 苦笑して、アルマはそれを受けた。

 顔を上げたテナークスは、すぐに頭を切り替えて口を開く。

「では、私は朝までにこちらの書類を仕上げておきます。再度行軍を始めるのに必要な物資のリストや、報告書です。朝になりましたら、一応目を通してサインをしておいてください。私は、これが終わり次第、遠慮なく休ませて頂きますのでお気になさらないように」

 てきぱきと指示を出す男に、アルマは半ば呆れて、頷いた。



 その後数日、彼らはその集積所に留まった。

 食料や衣服といった物資はともかく、寝台や机などの家具は、在庫がなかったためだ。

 しかしここは既に自国である。近隣の街から集めてくることは容易い。

 馬も疲労が著しい。大半が新しい馬と交代していくことになった。

 集積所は街からは離れ、軍の関係者以外はいないせいか、単に警戒心が緩んだのか、外に出ない限りはノウマードの行動は制限されていなかった。一階にある社交場で、のんびりとリュートを弾いていることが多い。

 時折、寒さと湿気で調律が狂ってしまった、と眉を寄せてぼやきながら。

 ペルルは、大抵の時間を自室で過ごしていた。おとなしく、慎ましやかな姫巫女には珍しいことではなかったが、昼間、すぐ傍らにいられた行軍中に比べると、アルマの物足りなさは埋められない。

 少しばかりもやもやした気分で、アルマは日々を過ごした。



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