08
深夜間近になった頃。
城塞の一角を、数人が歩いていた。
グランにオーリ、ペルル、クセロ、アルマ、そしてモノマキア伯爵だ。
伯爵は、どことなく困惑したような顔をしている。
やがて歩哨に立っていた兵士が、誰何の声をかけてきた。
「モノマキア伯爵のアルデアだ。アグノスに会いたいのだが」
普段なら取り次がないように、と命じられているのかもしれない。だが、昨夜は戦闘があったばかりだ。非常事態か、と判断したのか、歩哨は直ちに奥の間へと姿を消した。
やがて、彼らはある部屋へと通される。
「一体何があったのかね」
スクリロス伯爵は、訝しそうに、やや苛立ったように問いかけた。
ここは、伯爵の私的な居間である。他の部屋に、と言われたのを、強固にここに、と主張したのだ。彼が不機嫌であっても、無理はないと思われた。椅子を勧めさえしないのが、その最たる証拠だ。
「夜遅くに申し訳ない、アグノス。だが、大事な話があるのだ」
「それは、君が話したい訳ではないのだろう」
ちらり、と竜王の高位の巫子たちを見ながら言う。
「ご慧眼恐れ入ります」
いけしゃあしゃあと軽く一礼して、オーリが返した。
「話があるのなら、早くして貰いたい。オリヴィニス殿」
つっけんどんな言葉に、青年が大人しく頷く。
「奇妙に思ったのは、この雪です。我らが竜王は自然と四季を司る。当然、気候を人の手で動かすことの困難さや後々の影響を、私たちはよく知っている。ごく短時間ならともかく、五日間にも渡って雪を降らし続けるならば、龍神の使徒、イフテカールはこの砦の中に居続けなくては無理なのです」
「それは、しかし、一応予測できていたことでは?」
首を傾げて、スクリロス伯爵は尋ねた。
「はい。ですが、どこに、ということはまだ判っていません。雪が降る前、彼らの拠点は砦の南地区にありました。ですが、おそらく今はそこにはいないでしょう。いるのなら、この寒さの中、薪を燃やす煙が立ち上っていなくてはおかしい」
しかし、兵士の巡回や外壁での歩哨からそのような報告は入らない。彼らが目にしたこともなかった。
「ならば、北側か、とも思いますが、そちらは軍隊で満ちています。不審な建物があれば、どこからか報告が上がってこない訳がない」
「そうとは言い切れまい。見逃したということは充分あり得ることだ。何より、これほどの雪を降らせるようなことができる相手なら、身を隠すことぐらい簡単だろう」
スクリロス伯爵の反論に、オーリは一度同意した。
「それは確かにその通りです。が、そこまで気を配らなくてもよい場所があるのですよ」
「というと?」
グランは口を挟まない。これは、オーリの考えだ。
ただ、後ろ盾となるかのように傍に立つ。
そして、オーリはそれに答えた。
「この城塞の中です」
「会議の内容が王国軍に筒抜けになっていたかもしれないことも、ペルルをあっさりと攫うことができたのも、物資を倉庫ごと燃やし尽くすことも、全て、外部からこっそり行おうとすれば酷く困難だ。だが、この内部に協力者がいれば、それは考えるまでもなく、容易い」
「いや、ちょっと待ってくれ、オリヴィニス殿」
口を挟んだのは、モノマキア伯爵だ。困惑した顔で青年を見つめている。
「貴公の言われることは、その、つまり」
しかし、彼はその続きを口にできない。
反して、オーリはきっぱりとそれを引き取った。
「はい。私は、スクリロス伯爵が龍神の使徒、イフテカールと通じているのではないかと思っています」
スクリロス伯爵は、無言で立ち尽くしている。
「貴方が信頼のおける部下に命じれば、可能だった。サピエンティア辺境伯へ送られた使者も、全てが貴方の兵だ。彼らは一人残らず道中で襲われ、殺され、成り代わられた訳ではない。ただ、辺境伯を足止めするように、と指示しておけば、それで足りた。幾ら送り出しても帰ってこないのだって、そう命じておけばそれでいい。使者に龍神の烙印がなかったのも、不思議ではない。使者その人が龍神に帰依していなくてもよいのだから」
ほの暗い室内では、伯爵は酷く老けて見えた。黒髪に混じった白髪も、この一ヶ月で随分増えたようだ。
「この五日間、風竜王の恩寵が翳りを見せていました。イフテカールが風雪を操り、妨害をしていたのでしょう。でなければ、サピエンティア辺境伯の到着を、私はもっと早く知ることができた筈だ。伯爵、だとすれば昨夜、人は死なずに済んだのですよ!」
オーリの声が、苦渋に満ちる。
援軍が来ていると知っていれば。
例え吹雪が続こうとも、彼らは、無理に砦から討って出る必要はなかったのだ。
「アグノス、何か……」
縋るように、モノマキア伯爵は妻の兄を促した。
だが、男は口を引き結んでいる。
「間違いであれば、そうおっしゃってください。私だとて、嬉しくて貴方を告発している訳ではない。……ですが、伯爵」
風竜王の高位の巫子は、小さくつけ加える。
「貴方の背後の壁の向こう側に、少なくとも二人の人間がいらっしゃいますね」
長く、息を吸いこむ。そして同じぐらいの時間をかけて、長く吐き出した。
「……初めてその男と会ったのは、モノマキアから居城に帰ってきた時だ」
掠れた声で、スクリロス伯爵が話し始める。
「金髪に青い眼の、まだ若い男だった。彼は堂々とイフテカールと名乗り、自分に手を貸してくれ、と要請してきた。私は断固として断った。信じて欲しい、私も最初から裏切り者だった訳ではない」
「勿論だ、アグノス」
衝撃を受けながらも、それでもモノマキア伯爵が頷く。
薄く、息を震わせるようにしてスクリロス伯爵は笑った。
「そうしたら、彼はただ、一度腕を振った。我が竜王にかけて、確かにそれだけだったのだ。だが、その瞬間、彼の傍らには、私の妻と娘が座っていた」
「莫迦な!」
モノマキア伯爵が、今度こそ驚愕に叫ぶ。
「妻と娘?」
グランが小さく呟いた。
「……昔、流行病で死んだと聞いた。確か、ええと八年前、だったとか」
オーリが記憶を探りながら答える。
「その八年前から、全く変わっていない姿だった。勿論、生きていた訳ではない。奇跡でさえない。何か、恐ろしい業によって帰ってきたのだと、判ってはいた。……だが、私は屈した。二度と、二度も、彼女たちを失いたくなかったのだ」
顔を伏せて、呻くように男が告白する。
「八年前、というのは確かなのだな?」
突然、グランが割りこんだ。
「あ、ああ。私は葬儀に参加できなかったから、覚えている。その頃は、疫病のせいで街を封鎖していたのだ。どうしようもなかったのだが、妻はそのことをずっと気に病んでいた」
モノマキア伯爵が戸惑いながら返す。その返事に、幼い巫子が舌打ちをした。
「何の因果もなく亡くなって、八年後にその者たちを生き返らせるなどと、龍神の下僕ですらできる訳がない。八年前の、その流行病すら、奴の関与を疑うべきだ」
鋭く、男は顔を上げる。
「なに、を」
「八年だ。普通に埋葬しても、もう骨しか残っているまい。流行病、と言うなら、死体を焼いた可能性もある。死者を生き返らせるならば、その肉体と精神と魂の情報が不可欠だ。死後すぐ、というのならともかく、今から画策しようとしても果たせない。奴が病を蔓延させ、先立って二人の情報を得ていたと見るのが妥当だ」
「まさか、そんな、八年も前からそんなことを企んでいたなんてあるわけがない!」
半ば錯乱したように、スクリロス伯爵が叫ぶ。
「この事態を予測はしていなかっただろう。だが、将来の駒を得るために、奴は幾らでも策を練る。今の怠慢が、十年後の敗北に繋がることを奴はよく知っている。実を結ばなかった策謀は、この十年で百やそこらで済むとは思えないな」
グランの言葉に、男はよろめいた。どん、と壁に背をつけてようやく立っている。
「伯爵。奥方と娘御に会わせて頂きたい。至急、確かめなくてはならないことがある」
しかし、その様子に頓着することなく、強く、グランは主張した。
「……二人は、領地に置いてきた」
「嘘をつかないで頂きたい。二人を失うのが恐ろしい、というのなら、目を離すことなどできない筈だ。ここに連れてきているのではないですか」
「それで、二人を殺すのかね。自然の摂理に反した生を持つ二人を、竜王が許す筈がない!」
ばっ、と腕を振って、男が怒鳴る。
うんざりしたような顔でグランが口を開いた。
「そんなことはない。どのような経緯だろうが、今存在する生を、竜王が奪うことなどあり得ない。我らが四竜王の名とその誇りにかけて、彼女たちに危害を加えることなどしない、と誓う」
それは、この世界において最上級の誓いである。
迷ったようなスクリロス伯爵の肩に、そっとモノマキア伯爵が手を置いた。確かな慰めと、励ましを籠めて。
伯爵が彼らを案内したのは、先ほどオーリが少なくとも二人の人間がいる、と言った、壁の裏側の部屋だった。
扉を叩くのに応じて、静かに内側から開かれる。
「あなた、一体どうなさったの? 大声でエリヤが起きてしまって」
心配そうに顔を出した女性が、スクリロス伯爵の後ろに立つ人影に気づく。
「……クラニア……?」
呆然とした顔で、モノマキア伯爵が呟いた。
「まあアルデア、お久しぶりね」
嬉しそうに笑う女性は、鮮やかな金髪に緑色の瞳を持った、三十代にさしかかったばかりと見えた。死の面影など、微塵もない。
「お前たちに会いたいというお方が来ているのだ。よいかね?」
瞳に沈痛さを滲ませながら、スクリロス伯爵が尋ねた。戸惑ったような顔で、それでもクラニアは頷く。
「お父さま! おじさまも!」
はしゃいだ声を上げて、幼い少女が走り寄る。だが、二人の背後に数名の人影を見つけて、慌てて母親の影に隠れた。
「申し訳ありません、人見知りで」
恥ずかしそうに、少女はそろりと顔を覗かせる。
「それにしても、どうなさいましたの? このような夜中に。しかも、お若いお嬢さんまでご一緒ではないですか」
クラニアの言葉に、ペルルが優雅に一礼した。
「初めまして、奥方様。私、水竜王の高位の巫女、ペルルと申します」
「まあ。このようなところにようこそ、姫巫女様」
軽く膝を曲げて挨拶する。が、顔を上げたクラニアは少し不思議そうに呟いた。
「あら、でも、高位の巫子様は確かもっとご高齢ではなかったかしら?」
「お前たちが病に臥せっている間に、色々あったのだよ」
そっと、スクリロス伯爵が妻の肩に手を乗せる。無言で、縋るように彼は一行を顧みた。
「申し訳ございません。私と娘は、三ヶ月前まで病で療養しておりましたの。それもほんの一、二ヶ月の間ですのに、そんな大変なことがありましたのね。お悔やみとお祝いをお受けくださいますか、ペルル様」
「勿論ですとも」
穏やかに笑んで、ペルルが頷く。
無造作にグランが一歩前に出た。
「火竜王の高位の巫子、グラナティスと申します。このような夜中にご訪問したご無礼をお許し頂きたい。実は、お二人が罹られた病について少々研究をしておりまして。お二人に、お尋ねしたいことがあったのです」
「何なりと、グラナティス様」
高位の巫子が、同じ場所に二人以上居合わせることなど、まずはない。この砦に来るに当たって、ある程度の説明は受けていたのだろうが、少し驚いた顔でクラニアは答えた。
「指を、見せて頂きたいのです」
が、その申し出に、興味津々で顔を覗かせていたエリヤが、ぱっと母親のスカートの影に身を隠した。
「これ、エリヤ」
小さく声をかけるが、首を振ってしがみついている。
「申し訳ありません。実は、お恥ずかしい話なのですが、私たちは少々指先が荒れてしまっていて。エリヤは恥ずかしがっているのです」
「若きレディに、このようなことをお聞きするのは無礼だと存じております。が、それは病の症例の一つなのです。拝見できれば、今後の治療に大きく貢献できるのですが」
すらすらとグランが答える。夫人は、困った顔で娘を振り返った。
「私の手だけでは、いけませんか?」
僅かに、グランは考えこんだ。
「ご令嬢の状態についても、私の質問に答えてくださるのであれば」
「構いませんとも」
頷いて、グランは後ろを振り向いた。
「スクリロス伯爵と、ペルルは一緒にご覧頂けますか。他の者は後ろを向いていろ。ご婦人の慎みの問題だ」
顔を見合わせて、アルマたちは大人しく背を向けた。僅かに含み笑いを浮かべながら、モノマキア伯爵もそれに倣う。
小声でグランが幾つか質問し、夫人がそれに答えていた。ペルルの言葉も時折混じる。
「……?」
くい、と背後からマントを引かれた。
肩越しに視線を落すと、いつの間にかエリヤが背後に立っていた。じっと、アルマの顔を見上げている。
「具合、よくなったの?」
「え?」
突然の問いかけに、戸惑う。
「おとなしくしていなさい、エリヤ」
スクリロス伯爵の慌てた声に、しかし少女は黙らない。
「ご病気だったの、よくなったの? 向こうのお部屋で、ずっと休んでたのでしょ? 私も、この間まで何日もベッドから出られなかったのよ」
「エリヤ!」
鋭く制する声に、娘はびくりと身体を震わせた。
「失礼」
小さく呟いて、オーリが大股に部屋を横切る。
「オリヴィニス殿……!」
スクリロス伯爵に視線も向けず、さきほど少女が指さした先の、壁に下げられたタペストリーを剥ぐ。その裏の壁には、飾り気のない扉があった。
それを強引に押し開いて、青年は一歩足を踏み入れた。
簡素な部屋だった。酷く狭く、寝台が二つ、壁際に押しつけられている。その間にある小さな卓には、炎を揺らめかせている燭台と、黒い汚れのついた錫製の洗面器が置かれている。
寝台は使用した形跡があった。特に、一方はまるで人が入っているかのように、マットレスと毛布の間に空間が形成されている。
「どうした?」
背後からアルマが問いかけた。
「ここに、エスタがいたんだ。おそらく、イフテカールも」
言い置くと、彼は寝台に近寄った。毛布の中へと片手を差しこむ。
「……まだ温かいな」
小さく呟いて、オーリは踵を返した。戸口にいたアルマを押し退ける勢いで隠し部屋を出る。
そのまま、夫人の部屋すら出ようとする青年に、グランが声をかける。
「落ち着け、オーリ。奴はもういなくなったのだろう。今、王都に戻ったかもしれないのに、一体どこを探すつもりだ」
「だけど……」
言い返そうとしたオーリが、唐突に口を噤んだ。
「……あ。雪が、止みましたね」
ペルルが小さく呟く。
この数日間でようやく訪れた静寂は、耳に痛いほどだった。
夫人と令嬢に暇を告げて、居間へと戻る。疲れたように、スクリロス伯爵は皆に椅子を勧め、自らも深く身を沈めた。
「伯爵。他はさておき、奥方と娘御について少々お話しすることがある」
真面目な顔で、グランが告げる。
「お聞きしましょう、幼き巫子」
気力を振り絞るように、伯爵は背を伸ばした。
「死者の身体を再び作り上げ、魂を定着させることは、そう長時間続くものではない。崩壊は、末端から始まるものだ。奥方の指を見るに、爪が少々割れ始めていた。おそらくは、あと二年ほどで身体の自由は利かなくなるだろう」
鋭く、息を飲む。
「そんな、ことが……」
「お待ちください、グラン様。私には、あの方たちが死に瀕しているようには見えませんでした」
ペルルが、口を挟む。希望を籠めて、伯爵は彼女を見つめた。
だが、グランは譲らない。
「これは、人が自然に死へと向かうようなものだ。病や外傷ではない。老いによる身体の衰えが、貴女に感知できないのと同じだろう」
そう説明されれば、ペルルは強く反論できない。苦しげに、グランを見つめている。
「ですが、何か……」
「あの下僕が手厚く保護をしてくれるのなら、もう数年は延びるかもしれない。だが、それは僕が保障できることではないのでな」
冷酷に聞こえるほどにあっさりと、グランは続けた。がくり、とスクリロス伯爵は肩を落す。
「加えて、進んでであろうとなかろうと、龍神の下僕に協力していた以上、我らはこれ以上貴方を信用するわけにはいかない。ここで同盟から離脱して貰いたい。負傷者の手当てと、捕虜の監視をしつつ、ご家族で静かに暮らされるがよかろう」
伯爵は、しばらくの間、声を上げなかった。




