06
一時間が経ち、そして二時間が経つ。
ペルルの顔色は既に蒼白で、しっかりとアルマにしがみついていた。
「城塞へ戻られますか?」
小声で尋ねる。が、ペルルは首を振った。
「いいえ。……全て、私が、決めたことです。この場にいなければ、私はただの卑怯者でしかありません」
地上の殺し合いは、彼らのいる高さになると雑多な騒音としか聞き取れない。武器によって身体を抉られ、断末魔の叫びを上げる人間が、確実にいるというのに。
ちらり、と視線をオーリに向ける。
青年は、一見無表情に地上を見つめていた。
彼にはそれらが一つ一つ聞き分けられるだろう。
「そろそろ、一旦引き上げた方がよさそうですな」
モノマキア伯爵が提言する。
反乱軍は、騎兵のほぼ全てと、歩兵の多くを戦場に投入している。入れ替わりできる騎馬がいない以上、それは一時の停戦を意味した。
どちらにせよ、人間には何時間も武器を振るっていられるだけの体力はない。
城壁に立っていた兵士が、高らかに喇叭を吹き鳴らした。
軍を引く時が、最も敵から受ける被害が大きくなるものだ。
最初に撤退に動いたのは、水竜王と火竜王の竜王兵とマノリア隊だ。ゆっくりと水が引くように、城塞へと人馬が移動する。
それを追撃しようとする王国軍は、モノマキア兵とスクリロス兵が間に立ちはだかり、攻撃を防ぐ。そして王国軍の背後を高速で移動しながら、風竜王宮親衛隊が敵兵を掠め取っていく。
遠方から矢を射かけ、素早く近づいては斬り込んですぐに離れる、という戦法を取っていた風竜王宮は、王国軍の混乱に拍車をかけていた。
アルマとペルルは、一旦地上へと降りた。
「テナークス!」
吹雪の中、広場に兵士を整列させていた男が、駆け寄ってくるアルマに気づく。
「マノリア隊、只今帰還致しました。点呼がまだですので、報告は少々お待ちください」
ぴしり、と敬礼する姿は、さほど疲労を覚えている風でもない。
「ああ。……どれぐらい、失った?」
「大して多くはありません。百かそこらですか」
さらり、とテナークスが告げる。アルマとペルルは明らかに怯んだ。
「あの、せめて、傷の手当のお手伝いを」
ペルルが声を上げる。が、テナークスは少々戸惑ったようだ。
「軍医たちはあちらの建物で待機しておりますし、負傷兵はそちらに回す予定です。何も、姫巫女が自ら働かれずとも」
が、少女の意思は強い。
そして元々、テナークスに決定権がある訳でもなかった。
「……では、せめて司令部の方々と協議されてからになさってください」
その提案に頷いて、少女が踵を返す。
アルマも彼女に続こうかと思ったが、テナークスがするりと彼の傍に降り立ったため、足を止める。彼は指揮官にだけ聞こえる声で告げた。
「まあ、心配されることはないでしょう。戻ってきたのは、自力で馬に乗れるか、歩ける者だけです。大した怪我はしておりますまい」」
「……それ以上の怪我を負った者は?」
嫌な予想が湧き上がる。
副官が肩を竦めた。
「撤退時に連れて帰るには、足手纏いです。戦場に置き去りですな」
「それは……」
「どのみち、王国軍も血に塗れ、死体の転がる場所に引き続き野営地を設置はしません。しかも、雪解け水でぬかるみになっていますし。残った兵で、場所を移動するでしょう。その時に負傷者を捕虜として連れて行くことになるでしょうな。置き去りにしなければならないほどの痛手は与えてない筈です。物資はあちらの方が豊富ですから、むしろ待遇はいいかもしれません」
意味ありげに、一向に衰えない吹雪へと視線を向ける。
「勝った、とは言えない訳だな」
「負けていない、という程度でしかありません。それは皆様予測済みだった筈ですが」
そうだ。相手を一度で撤退させられるとは思っていない。
そもそも、砦に籠もり続けるという選択肢がなくなった時点で、彼らの勝利は一段と難しくなっているのだ。
これから、できる限り相手の戦力を削っていくよりない。
「とはいえ、砦の外はかなり暖かくなってきています。死者を埋めるだけの余裕が双方にあればいいのですが、それがないとなると、疫病の心配もしなくてはなりませんね」
テナークスが更なる問題を告げた。
「疫病か。……嫌な話だな」
「ままあることですよ」
アルマの苦い言葉に、テナークスが微妙に慰めるような声をかけた。
そのようなことを話していると、ふいにすぐ傍に何かが落ちたような音が聞こえる。視線を向けると、人影が近くに蹲っていた。
「……オーリ?」
尖塔から飛び降りてきた青年が、即座に顔を上げる。
「馬を貸してくれ!」
「馬?」
突然の言葉に、つい訊き返す。
「角笛が聞こえた。滅多なことでは鳴らさない吹き方だ。すぐに行かないと」
全軍が撤退するに当たって、最終的に風竜王宮親衛隊は王国軍を後ろに引き連れて南方へと移動していた。
彼らはフルトゥナの民。馬の民だ。王国軍の騎兵程度に追いつかれることはない、と自信たっぷりにイェティスは断言していた。
しかも、王国軍の大半は歩兵だ。そもそも彼らについていける訳はない。
尖塔から見ていた限りでは、王国軍の兵は風竜王宮親衛隊を追って長く引き延ばされていた。こちらに余裕があるなら、すかさず横から他の隊を突撃させただろう。
その、存分に楽しんでいた筈の風竜王宮親衛隊から、非常事態を告げられたのだ。
「無茶をなさいますな。貴方は指揮官なのですから」
「私は、戦場では常に最前線に立っていた。今度の戦いも、民を見捨ててまで後ろに控えているつもりはない」
テナークスが諫めようとするが、オーリは一切聞く耳を持たない。
「判った。俺も行く。馬を貸せ」
「アルマ?」
「アルマナセル殿!」
二人の声に、しかしアルマは譲らない。
「何かあったのなら、お前一人よりも、俺も行った方が対処しやすいだろう。それに、俺たちは大抵の危険なら防げるんだ。油断はしない。大丈夫だ」
「……剣は持っているか?」
オーリが尋ねるのに、マントを開いてみせる。腰に佩いた剣を認めて、青年は頷いた。
溜め息をついて、テナークスは背後を振り向くと、馬を、と短く声をかけた。
すぐに二頭の馬が連れられてくる。
「軍馬ですので、戦場には慣れています。が、疲れてもおりますから、くれぐれも無理はなさいませんよう」
余分な馬は近くにいない。テナークスの隊が先刻まで乗っていた馬なのだ。
「ありがとう」
短く礼を言い、オーリが馬に跨る。
二人は、正門の横にある通用門を開いた。巨大な門が開くよりは音がしなかった筈だが、それでも戦いに疲弊し、かつ未だ高揚状態にもある王国軍から視線が向けられるのを感じる。
「光を消せ」
隣で囁かれた声に、頷く。
次の瞬間、戦場を煌々と照らし出していた光球が、弾け、消滅した。
最後に放たれた、眩く目を灼く光に、叫び声が上がる。
周囲の視界が利かぬ間に、闇の中を二人は馬を走らせた。城壁から離れないように気をつけ、王国軍が進んだ方とは反対側の西側から、ぐるりと南へ向かう。
時折、ずるり、と馬の脚がぬかるみに取られ、ひやりとする。
そのうち目が慣れたのか、こちらへ駆け寄ってこようとする兵士がいたものの、撤退時のように城壁上から援護の矢を射かけられ、近づけない。
苦痛の呻き声や、悲鳴がそこここから縋りついてくるが、歯を食いしばって通り過ぎる。
やがて、戦場跡を過ぎ、砦の南半分へと到達した。
この辺りは、クセロが雪を溶かしてはおらず、地面もぬかるんではいない。足場がしっかりしたことに少し安堵する。
そして、戦場から抜け出せたことにも。
「まだ先か?」
蹄の音に負けないように、声を張り上げた。オーリは無言で頷いてみせる。彼が発した声は、アルマまで届かないだろう。
うっすらと、東の空が明るくなりかけていた。それを背に、長い隊列が南へ向けて蠢いていくのが遠くに見える。
あの先に、風竜王宮親衛隊はいる筈だ。
何時間も経った訳ではない。すぐに追いつける。
王国軍からは距離を取って、幾つもの丘を越えた。
オーリの顔が、段々と険しいものになっていく。
彼が何を聞いているのか、しかし今は問い質せない。
ただひたすらに馬を駆って、そして。
ある丘の上に立った時に、二人は揃って手綱を引いた。
眼下の王国軍の長い隊列は、ある一点でぴたりと進軍を止めていた。
その数キロ先には、巨大な野営地が広がっている。
ニフテリザ砦の周囲に作られていた、五万の兵の野営地の広さに近い。
「こんなところに……」
オーリが小さく呟く。
「どこの軍だ?」
焦りと不安を押し殺して、アルマは尋ねた。
「サピエンティア辺境伯だ」
さほど時間も置かず、野営地の一角から一頭の馬が走り出た。そのまま一直線にこちらへ向かってくる。
「イェティスだよ」
アルマを安心させるように、オーリが知らせた。
ぐんぐんと近づいた騎手は、二人の手前で馬を止める。
「ご足労頂き、申し訳ございません」
彼の馬は腹まで泥が跳ねている。イェティスのマントも土埃に汚れ、手には未だ弓が握られていた。珍しく、腰には細く長い剣を佩いてもいる。だが、彼の顔に疲労の色は殆ど見られない。
「何があった?」
オーリが、性急に訊く。
「イグニシア王国軍を引っ張って、ここまでやってきたのです。すると、ご覧のように軍が野営しておりました。位置的に王国軍ではないと思い、使者を出してみましたところ、カタラクタのサピエンティア辺境伯の軍だと知らされまして。我らが隊は、現在、野営地に招き入れられております」
「それでこの膠着状態か」
眉を寄せて、風竜王の高位の巫子が遠くの軍勢を眺めた。
「けど、一体どうして辺境伯がこんなところに?」
アルマの問いかけには、イェティスは少々戸惑った表情を浮かべた。
「それが、どうにも要領を得ぬ話でして。我らは辺境伯らと面識もございませんし、はっきりとした話をして貰えぬのかもしれませぬ」
「そうだな。ここにずっといても仕方ない。辺境伯のおられるところまで連れて行ってくれ」
巫子の言葉に、親衛隊長は深く頭を下げた。
野営地に近づくと、王国軍に近い側面には、既に兵士が集結していた。
夜明けの淡い光の中に蠢く敵軍は、はっきりと人数を把握できない分脅威だろう。凄まじい緊張感が見て取れる。
イェティスが歩哨に近づき、数語話しかける。歩哨は先に立ち、野営地の中を進み始めた。
連れられていった先には、大きな天幕が建てられている。その前面の布は大きく開かれており、傍らに篝火が焚かれていたこともあって、馬を降りて入口に立った時点でこちらの姿は見えていたようだ。
「これはアルマナセル殿にオリヴィニス殿」
天幕の中から、聞き覚えのある深い声がかけられる。
「ご無沙汰しております、サピエンティア辺境伯」
内心ほっとして、アルマが軽く会釈した。
天幕の中には、他にも二人の男が同席していた。興味深そうな視線を向けてくる。
「一体どうなっておるのかな。状況がさっぱり判らぬのだが」
辺境伯が眉を寄せて尋ねた。
「それは私どもも同様なのですが……」
やや困って、アルマが尋ねる。オーリが軽く手を上げた。
「とりあえず、状況報告は後回しにしませんか。今、北からやってきている軍勢は、イグニシア王国軍です。ニフテリザ砦で夜間に戦闘があり、疲れている」
「ふむ。では、攻撃を命じてもよいということかな」
にやり、と残忍な笑みを浮かべた老人に、しかしオーリは反論した。
「いいえ。ここで、無傷の、何万もの兵に遭遇して、向こうも動揺しているでしょう。どちらにせよ、今の王国軍は援軍を得た我ら同盟に敵うことはない。降伏を勧告すれば、受け入れられると思いますよ」
老辺境伯が鼻を鳴らす。
「散々待たされた挙句に、小気味いい戦いの一つもできないのか」
「民は護るものですよ。減らすものではありません」
やんわりとオーリは返した。
どのみち、本気で不快に思っていた訳ではないようで、彼は矢継ぎ早に命令を放った。
部下たちがそれを執行すべく散っていくと、改めてこちらへ視線を向ける。
「さて、それでは一体ここがどうなっておるのか、ちゃんと話して頂こうか」
その眼光の鋭さに、アルマとオーリとは顔を見合わせた。




