02
地竜王の言葉を報告すると、司令部は半ば安心したようだった。
「それにしても、そのイフテカールという者、そう間単に砦内に侵入できるとは油断がならんな」
スクリロス伯爵が苦々しい顔で呟いた。自分の砦だ、それは面白くないだろう。
「竜王様であれば、どの者が裏切り者なのかは判別できるのではないですか?」
モノマキア伯爵がふと尋ねた。
が、グランは首を振る。
「竜王は、基本的に人の世に関わらない。今はできうる限りの助力を取りつけているところだが、それでも彼らの中にある、関わることができない境界を侵すことは決してしないのです。人個人の心に干渉することは、竜王はなさらない」
困ったように、人間たちは溜め息をつく。
「我々で対処するしかない訳か」
「まあ、今までの戦争とさほど変わりはないだろうよ」
義兄弟である二人は、そう言って慰めあっていた。
「簡単、と言う訳でもないんですがね」
呟きに、意識が浮上する。
「……何か、言ったか……?」
声が嗄れて、喉が痛い。
薄く開いた瞼の隙間から、見慣れた金髪の青年の姿が垣間見えた。憮然としてこちらを見下ろしてきている。
「竜王の御力の影響を除くのは、そう簡単なことじゃない、と言ったんです。全く、何を考えて彼らに正面からぶつかっていったんですか。いちいち癒さなくてはならないこちらの身にもなってください」
「癒してくれてたのか? それは驚きだ」
未だ、身体の芯から指先までが、手酷く蹂躙されたような感覚に満ちている。尤も、それは最初は風竜王の力で行われ、次いで治療と称してイフテカールが施したものだが。
一体何時間を絶叫して過ごしたか知れず、幾度となく口から溢れ出した黒々とした液体は何枚ものタオルを汚している。
「そんなことを言うなら、もう放っておきますよ。貴方の〈魔王〉の血は、世界に祝福されてはいないのだから、竜王の悪意には過剰に反応するんです。ああでも、ある意味、その方が免疫がつくかもしれないですね。……死んでしまわなければ、ですけど」
青年が軽く、寝台に横たわるエスタの肩を叩く。ざわり、と体内に残る異物の気配が波立って、再び吐き気がこみ上げた。
びっしょりと汗をかいていたせいか、室内の空気は酷く冷えているように感じる。
傍らの卓には蝋燭が一本だけゆらめく灯りを点しており、その隣に置かれた錫製の洗面器には、どす黒い水が溜まっていた。
それは、イフテカールの、労働を経験したことがないような白い手を汚したものだ。
苦い唾を飲みこんで、口を開く。
「判った、悪かったよ。確かに、お前がいるから私は無茶ができるようなものなんだしな」
「……なんですか急に気持ち悪い」
「お前は私にどういう対応を期待してるんだ」
流石に激昂するほどの気力もなくて、短く返す。
イフテカールが取り繕うように言葉を発した。
「さて、意識が戻ったなら続けましょうか。隣の部屋には女性たちがいるのだから、あまり大声を上げないでくださいね」
「周りに気を遣うのなら、使う部屋を選べばよかっただろうに」
小さく毒づいて、彼は続く衝撃に備えた。
翌朝は、寒さで目が覚めたようなものだった。
これから春へ向かっていく一方の季節では、冬の装備は倉庫の奥に押しやられており、砦では昨夜急遽それを引っ張り出してきていたのだ。
それでも室内の温度に比べればそれなりに暖かだった布団から抜け出して、アルマナセルは身体を震わせる。
窓の外を見ると、未だ雪は降り続けていた。一晩が経過して、流石にうっすらと、砦の建物や街路が雪に覆われている。
寒さは厄介ではあるが、しかし内心アルマはこの雪に感謝していた。
昨日、ペルルがマントにしっかりと包まれて帰還したのが、急激な寒さによるものだ、と誰もが自然に納得できている。
もしも、その格好が不自然だと判断されたのなら。
エスタが引き裂いた聖服が、少しでも人目に触れるようであれば。
おそらくは、極めて不快な噂が彼女に纏わりつくことになっていただろう。
しかし、プリムラが上手く動いてくれたこともあって、そんな事態には陥っていない。
小さく溜息をつくと、窓が白く曇る。苦笑して、少年は袖でそれを拭った。
「……ん?」
僅かな違和感を感じて、アルマは目を凝らした。
それをはっきりと理解した瞬間、着替えもせずに部屋を飛び出す。
「グラン!」
火竜王の高位の巫子の部屋の扉を、乱暴に叩き続けた。
「……なんだ、騒々しい」
扉の内側から、不機嫌そうな声が漏れてくる。
「窓の外を見ろ! 砦の外だ!」
言い訳もせず、ただそう告げる。続いて沈黙が返ってきたことから、どうやら言う通りにしてくれたらしい。
「全員を起こせ、アルマ。すぐにだ。どれほど騒いでも構わん」
数分後にかけられた命令に、即座に従う。
砦の外、外壁のほんの十数メートルから外側には、雪で濡れた形跡すら見られなかった。
この、まるで冬へ戻ったような気候は、ニフテリザ砦だけのことであったのだ。
胸壁へ足を踏み出すと、狙ったかのように寒風が吹きつける。粉雪がちり、と肌に痛みを残して、溶けた。
城塞の最も高い場所に、彼らはやってきていた。
「これはまた、あからさまだね」
呆れた風にオーリが呟く。
空は、一面が薄暗い雲に覆われていて、一見したところでは違和感がない。
しかし草原は、砦の近く、雪に白く埋め尽くされた地域と、その向こう側、若草の萌える地域とでまるで線でも引いたかのようにくっきりと分けられている。
「幾ら何でも、こういう気候だって訳はねぇよな」
クセロも、軽口を叩くのが精一杯のようだ。
扉が開き、伯爵たちが姿を見せた。
「これは……」
既に報告は受けていたのだろうが、実際に目にしたことで衝撃を受けたのか、小さく呟いた後に絶句している。
「伯爵、王国軍の動きについて報告はありましたか」
グランの呼びかけに、ようやく我に返る。
「あ、ああ。おそらく、午後にはここに到着するようだ」
スクリロス伯爵が答えるが、視線は草原から引き剥がせていない。
「この時期に雪が降ることは、珍しいが全くないという訳ではなかったが。まさか、こんなことが……」
「これが、昨日、龍神の下僕とやらが行っていた結果でしょうか」
モノマキア伯爵も、呆然としつつ呟く。
「少なくとも、自然の為したことではなさそうですね」
寒さに身を竦めながら、ペルルが応じる。
「ではどうしましょうか。このまま、雪の降り続く砦を拠点としますか? それとも、ここから移動して王国軍を迎え撃ちますか?」
オーリの言葉に、伯爵たちは驚いたような視線を向けた。
「ここを放棄するなど、無茶だ。敵が到着するまでの数時間で、全ての兵士を移動させられる訳がない」
「……ああ、そうか。移動に時間がかかるんでしたね」
過去、騎馬の民を率いていた青年は、歩兵の速度をうっかり忘れていたように呟いた。
「それに、この砦を占拠されては、敵に有利な拠点を与えることになる。そもそも、我らの人数で王国軍に多少なりとも対峙できるのは、砦での篭城戦が選べるからだ。何も遮るもののない平地で、二万と五万の戦いでは負けは見えている」
更に理由を告げられて、一旦オーリはそれに頷いた。
「しかし、篭城戦を選べるのは、最悪の事態になっても援軍が現れるという予測があってこそでしょう。それは何とかなるのですか?」
「……サピエンティアの軍が来さえすれば」
続けての問いかけに、さすがに渋い表情になって返す。
少なくとも十日以上前に合流していなければならなかったサピエンティア辺境伯の軍は、未だ姿を見せてはおらず、幾度も送り出した使者すら帰ってはきていない。
「王国軍が到着する前に、もう一度使者を送った方がいいだろう。少々人数が多いぐらいでも構うまい」
グランの言葉に、スクリロス伯爵は頷いた。
城塞全体が、ぴりぴりと緊張している。
巫子たち一行は彼らの居間に集まっていた。言葉少なに椅子に座っていたり、うろうろと歩き回ったりしている。
幾度目か、アルマは部屋を抜け出した。王国軍が来るのは北東側であり、彼らの居室からは方向が違う。
寒々しい廊下を歩く。胸壁へ通じる扉は取っ手が金属製であり、今朝初めてやってきた時には、握った途端に感じた予期しない冷たさに一瞬怯んだものだ。
イグニシアにいた頃ならば、手袋を忘れたりはしないのに。
つくづく、この地の『暖かさ』に慣れた身を情けなく思う。
胸壁に寄りかかり、背伸びをしつつ、吹きつける雪混じりの風に目を眇める。
灰色に曇る空と相まって、見通しは決してよくはない。
しかしそれでも、普通の人間よりも優れた自分の視力ならば、と思い、こうして胸壁へとやってきている。
そしてその苦労が報われたか、とうとうアルマは北東の地平線の際に、小さな土埃を目にした。
「……来た……!」
口の中が急速に乾く。
身体が小さく震えるのは、寒さのせいだ。
しばらくの間、アルマはじっと一点を見つめていた。
数時間後、王国軍は様々な紋章を染め抜いた旗を翻しながら、ニフテリザ砦の正面へと進んでいた。
「……何だよ、あれ。行列の最後が見えねぇぞ」
皆で胸壁からそれを見つめていた時に、呆れたように、クセロが呟いた。
確かに、王国軍の兵士たちの列は地平線の先まで続いているように見える。
「五万の兵が、しかも行軍しておりますからね。最初は整列していたとしても、時間が経てばだらだらと長くなってしまうものですよ。しかも、おそらくはかなりの強行軍で、道々隊列を纏める余裕もなかったでしょう」
テナークスが丁寧に説明した。
巫子たちが率いる兵の隊長たちもこの場にいる。彼らは実際に戦場に立つ者たちであり、どのような機会であっても現場を目にしたがっている。
「正直、我々はこのような大規模な戦は経験がないのです。テナークス殿、どのように戦は進行するものですか?」
少人数で、僅かな侵入者から故郷を護っていたイェティスが尋ねる。ドゥクスがじろり、とそれを見たが、しかし戦争の実経験がないという点では、火竜王宮、水竜王宮の竜王兵も同様だ。
いきおい、彼らは元王国軍のテナークスに意見を仰ぐようになっている。
しかし、彼はそれに奢ることなく、普段通りに礼儀正しくそれに対応していた。
やがて王国軍は、以前テナークスの率いるマノリア隊が野営した辺りで整列し始めた。
「今、ここからあいつらを潰すとかはできないのか?」
テナークスの話に、面白そうに聞き入っていたクセロが問いかける。少佐はやや苦笑した。
「開戦の宣告前に先制攻撃するのは、不躾だということになっているのですよ」
「宣戦布告はもうとっくに出してるのにか? そもそも殺し合いなのに、不躾も何もねぇだろ」
「殺し合いとは、基本的に不躾で野蛮なものです、クセロ様。それを、できる限り礼儀の枠に嵌めこんで行うからこそ、人間の箍が外れずにいるのだ、と私は思っておりますよ」
生真面目に、年下の新米巫子へテナークスは返す。ふぅん、と、判ったような判らないような顔で呟くと、クセロは視線を敵陣に戻した。
「それに、ここから野営地までの距離ですと、砦内の投石器では届きませんからね」
さらりと打算的なことをつけ加える。
投石器は、それ自体が重い上に稼動させた場合の反動を考えると、建物の上に設置はできない。地面に据えつけるしかなく、内側から砦の外壁を越えていく放物線を描くならば、さほどの飛距離は期待できなかった。大抵は攻城戦の場合に、城壁を突破しようとする兵に対応するものだ。
王国軍に属していた時点で、テナークスがそれを考慮していない訳がない。
「でもまあ、こっちには常識じゃ計れない戦力があるんだろう?」
「貴方を含めて、ですな」
皮肉にきちんと返されて、クセロは渋い顔になる。
「それに、常識外の戦力、という点では王国軍も同様です。向こうがこちらほど自制が効いていない点を考えると、より危険であるかもしれません」
にこりともせずに、テナークスは肩に積もった細かい雪を払った。




