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「では、民が死ぬことですか?」
「違います。貴方は思い違いをしています。龍神に戦いを挑むのは、竜王様の御意思です。私は竜王の高位の巫女として、その御意思に従うのみです。その為に、何が失われようと」
ペルルは、できうる限り毅然とした表情で告げた。
この苛立ちは、幾度も問いかけを繰り返すエスタに対してだ。
しかし、彼はさほど残念そうでもなく口を開く。
「なるほど。竜王についてでも、国に対してでも、民に向けてでもない。全くご立派な姫巫女であらせられる」
本当はそんなことを思っていないのは、その目を見れば判るが。
「そもそも、貴方には関係のないことでしょう。エスタ」
つん、と顔を背ける。特に親しいつきあいがあった訳ではないが、このようなペルルは初めてで、エスタは興味深げな表情を向けた。
「そうですね……。お役目のことでない、とすると、人間関係ですか? アルマとか」
エスタの言葉は、半ば揶揄だった。即座に憤然と、若しくは笑って否定されるものと思っていたのだ。
が、ペルルがびくりと身体を竦ませ、顔を伏せたのに虚を衝かれる。
「……本当に?」
「貴方には、関係ないことです」
硬い声で拒絶されるのに、しかしエスタは遠慮しない。
「アルマが? あの方が、貴女に何かしでかしたのですか?」
だが、その言葉に、ペルルは思わず小さく笑った。
「何か?」
「いいえ」
ペルルの笑みを含んだ声に、胡乱な視線を向ける。
「……貴方は、いつから大公家にいらしたのですか?」
「十年ほど前です」
そう、と呟いて、ペルルは溜め息をついた。
「アルマが、婚約破棄を言い渡されたそうです」
「ああ、またですか。一年……三ヶ月、かな。従軍があったし、保った方ですかね」
さらりとエスタは返した。特にどうということもないように。
「それが何か? 彼が婚約していない状態は、貴女にとって喜ばしいことじゃないのですか?」
「アルマは、今まで、自分が婚約しているということを教えてくれていませんでした」
ペルルがぽつりと零した言葉に、青年は流石に唖然とする。
「……全く、あの方は。気が回らないにもほどがある」
もたれていた椅子の背から、エスタは少しばかり身体を起こした。
「私が今更こんなことを言うのも何ですが。アルマは、他人から愛されることなんて考えられもしない子なのですよ」
少女が、首を傾げる。
「大公家の、社交界での扱いはご存知ですか?」
「……多少は」
以前、オーリから聞かされたことがある。エスタは小さく頷いた。
「あの家に好んで嫁ぐ令嬢などおりません。火竜王宮が強引に婚約を結ぶものの、それを忌み嫌って、相手はできる限り早く婚約を解消しようとする。そうなると、哀れな花嫁が決定するまでに数をこなすことが必要だ。私が大公家に入ったのは、彼が六歳の頃でしたが、もう既に婚約者はいましたよ。それから十年間で、一体何人変わったのかな……」
「そんな……」
ペルルが力なく呟くが、その後を続けることができない。
「彼は、家族以外から注がれる愛情を理解できない。諦めている、という訳ではありません。そもそも、そんなものがあることを知らないのですから。まあ、もう十六ですし、知識として理解はしているかもしれませんけどね。だから、貴女に婚約者のことを話さなかったのは、別に他意があった訳ではないのでしょう。その状態が当たり前だから。貴女に関係すると思いもしなかったから。それで貴女がどう感じるのかすら、全く思い至ってもいない。賭けてもいいですよ」
流石に、十年傍に仕えただけはあり、エスタの分析は的確だった。
ぱた、と、ペルルの膝に小さな染みができる。
「……何故、貴女が泣かれるのです」
青年の声に、固い響きが混じった。
今までの言葉を、ふいに後悔したかのように。
「見つけました!」
緑色のマントを纏った男が、声を上げながら司令室へ入ってくる。
その場の全員が、視線を集中させた。
「場所を」
男は卓に近寄り、砦内の地図を一瞥する。全員が立ち上がり、その挙動を注視した。
「ここです。この、納屋の中に馬車が置かれていました」
「間違いないのか」
「屋根の旗竿に、薄緑色のスカーフが巻かれていました。間違いないかと」
イェティスの問いに、すぐに返事が返る。
そこは、砦の南面の外壁に近い場所だった。じっと地図を見つめていたアルマが、身を起こした。そのまま、断固とした足取りで戸口に向かう。
「アルマナセル様?」
「そこに行く」
イェティスの言葉に、無造作に返す。
「そこに姫巫女がいらっしゃるとは限りません。少なくとも、潜伏場所は少し離れた場所にするでしょう。近辺を探っている者たちを集めて、周辺を詳しく捜索させますから……」
「その辺りにいるんだろう。場所を突き止めてから向かうよりは、早い」
だが、アルマは聞く耳を持たない。
オーリが立ち上がる。
「じゃあ、私も行こう。ペルルがちょっとでも声を出せる状態なら、じきに場所は特定できるよ」
諦めたように、親衛隊隊長は天井を仰いだ。
馬の蹄の音が響くため、数ブロック離れたところで下馬する。できる限り静かに、街路を進んだ。
二人の風竜王宮所属の兵が、路地に蹲り様子を伺っていた。合流した一行に、狭い場所で敬礼する。
「あれか?」
道の向こう側に、広めの石畳の空間と、幾つかの平屋の建物があった。その中に、一台の馬車が停められているのが伺える。
馬車の後方の屋根につけられた旗竿の根元に、僅かに明るい色が見える。スカーフがはためいていては誘拐犯たちにも見つけられてしまっただろうが、プリムラは何度も巻きつけて、解けないように、発見されにくいようにしていたらしい。
「……車輪に土が着いているな」
遠目に、アルマが見咎める。
「ペルルが乗せられた場所は、土の地面だったんだね?」
なし崩しについてきたプリムラとケルコスにオーリが尋ねる。二人は同時に頷いた。
「なら、靴にも土がついていた可能性はある。この辺りは、本来は無人の筈なんだろう? 戸口が汚れている建物を重点的に探せ」
オーリが部下たちへ告げた。
彼らは馬を下りたところへ、暫定的に司令部を作っていた。伝令の兵士が音も立てずに走っていく。
「それより、オーリ。ペルルの声は聞こえないか?」
「まだだ。この辺りは人が少ないから、声が出せたらすぐに判る筈なんだけど」
ぐるりと周囲を見回して、青年が答える。アルマは、罵声を吐き出したいのを懸命に堪えた。
「哀れみですか、姫巫女?」
僅かに侮蔑の混じった声に、ペルルは力なく頭を振った。
「ええ。確かに、それは感じます。お気の毒な、可哀想な、アルマ」
静かに涙を流しながら、ペルルが呟く。
眉間に皺を寄せ、エスタは小さく口を開きかけた。
「ですが、これは、私への憤りです。なんと小さく、弱く、愚かな、情けない想いに囚われていたのか。それを私は許せません」
強い口調でそう続けるペルルを、無言でエスタは見つめている。
「アルマが怒るのも無理はないことです。しかも、私は、あてつけのようにこのような場所までやってきて……。なんて、酷い、莫迦な真似を」
瞬いて、何とか涙を散らすと、ペルルは真っ直ぐにエスタを見据えた。
「砦に戻ります。縄を解いてください、エスタ」
「そんなことができるとでも?」
不機嫌な顔で、青年は告げる。
だが、ペルルは特に失望した風でもない。
「でしょうね。でしたら、自分で何とかしますわ」
助けを求めたのは、ただ礼儀上の理由だとでも言いたげに。
「それも、できませんよ。何のために、私が今ここにいるとお思いですか。竜王の力を抑えこむことができるのは、龍神の使徒と〈魔王〉の裔だけだ。もし、貴女が何度この建物を破壊しようとしたところで、私が全て対処する。私が貴女の傍を離れるとしたら、イフテカールに引き渡した後ですね。彼がどれほど紳士的かは、ご自分でじっくりと確かめられるがいい」
脅しとも取れる言葉に、ペルルはじっと相手を見つめ返す。その表情に怯えは微塵もない。
数分間、無言で彼らは睨みあった。
やがて、エスタは肩の力を抜き、口の中で何か小さく呟く。
そして彼は僅かに身を乗り出した。
「手を組みませんか、姫巫女」
「……え?」
「……いた!」
小さく、オーリが呟く。
「どこだ?」
最低限の声しか出さず、しかしその場にいる全員がざわめいた。
オーリが手を伸ばして方向を示す。
「向こうだ。距離は、三百メートルほど。高さは、二階だな。多分。とりあえず、危害を加えられているようではない」
ほっと、周囲の空気が緩む。
イェティスが手早く隊を編成した。できる限り四方から包囲しようという意図だ。
今にも走り出していきそうなアルマの腕を、オーリが掴んだ。
不審そうに見返してくる少年に合図して、皆から数歩離れる。
「何だ?」
アルマの問いに、周囲が全くこちらへ注意を向けていないことを確認してから、青年は低く囁いた。
「……エスタが一緒にいる」
「あいつが……?」
僅かに目を見開いて、アルマが呟く。
「声が聞こえたタイミングが、不自然だ。君、以前、王宮で盗み聞きをされないように魔術を使っただろう。彼にもそれができると思うか?」
問いかけに、数秒考えこむ。
「俺ができることだから、あいつにもできるかもしれない。だけど、俺はグランに魔術の使い方を習ったし、グランは〈魔王〉からそれを受け継いだって話だからな。エスタがどうやって魔術を習得したかが判らなければ、判断できねぇよ」
「それに関しては、イフテカールが手を貸しているとは思うけどね」
指摘して、オーリが溜め息をつく。
「つまり、ここにきてそれを解いたということは、こっちに気づいていて、挑発している可能性が高い。慎重に行くよ、アルマ」
「判ってる」
内心の葛藤を抑え、アルマは短く返した。
「竜王は、高位の巫女が生きている間、その地位を剥奪できない。そうですよね?」
「そう、言われておりますが」
彼の言葉の意味を図りかねて、ペルルが淡々と口にする。
「貴女が我々の側についてくだされば、少なくとも水竜王は人の世において我らに敵対することはない。それだけでも、随分と助かるのですよ。何と言っても、我々はこの世界において少数派ですからね」
さらりと、エスタは白々しいことを告げる。
「ありえないことをおっしゃいますね。私が水竜王様の御心に背く、ということはさておき、そんな私に竜王兵がついてくるとでもお思いですか。彼らもまた、竜王様にのみ忠誠を尽くす者なのですよ」
硬い声で、ペルルが返す。
「数千の竜王兵よりも、貴女お一人の方が脅威だ。それだけです」
「話になりません」
重ねて言う青年に、ぴしゃり、と高位の巫女は断言した。
実際、そんなことは不可能だ。
もしも竜王の意に染まぬ行動に出た場合、高位の巫女は即座にその生命を奪われるだろう。
生きている間に地位を剥奪できない、とは、つまりはそういうことだ。
しかし、そのことをエスタは知らないらしい。ペルルもあえて教えるつもりはない。
「勿論、こちらが利するだけとは申しません。水竜王を滅することは免じますし、貴女のお命もお救い致しますよ、姫巫女。私の個人的な感情で言えば、巫子ならばグランを殺せればいいだけですし。欲張れば、ノウマードも殺しておきたいところではありますが。貴女は、せめて邪魔をしないで頂ければそれでいいのです」
「莫迦げたことを。そもそも、貴方にそのような決定権があるのですか?」
滔々と述べるエスタを、一言で黙らせる。
「……それは、まあ、決定権と言えば確かにイフテカールにあるのですが。それでも、私の意見を一応彼は聞いてくれますよ。……多分」
思考を巡らせながら言葉を紡いでいるうちに、何やらエスタは肩を落とし、俯いてしまっていた。
何か嫌なことでも思い出させてしまったのだろうか。
そうは思うものの、しかしここで情を示す訳にはいかない。年若い少女であるとはいえ、ペルルも高位の巫女である。それぐらいの駆け引きはできた。
無言のまま待っていると、やがて青年はのろのろと顔を上げた。
「まあともかく、交渉に応じるつもりはないのですね?」
「勿論です。私は、水竜王様を人の世に浸透させるための道具に過ぎません。道具が、分を越えた動きをするなど、できることではないのです」
しかし、ペルルの返答に、エスタは眉を寄せた。
「……道具……?」
ぎし、と椅子が軋む。
青年はその手を、そっと縛められた少女の頬に寄せた。
「人は、誰からも道具などと貶められるべきではないのですよ、ペルル」




