枯木
貴子。
埜貴紫芳。
お前は敵とはいえ愛人の父である楽章を殺し、名前を捧げた皇王を殺した。ともに旅した朱と刻をも殺した。そしてなもない民をも巻き添えにし、弔いもせずに逃げている。
お前は鬼だ。
お前は今すぐ死すべきだ。
ましてや愛人を狂気のふちに追い込んだお前は、いますぐその首を断って詫びねばなるまい。
闇の中のもう一人の自分が、貴子を攻めたてる。
(うるさい)
ねっとりした闇に手を伸ばすと、両手がぬらりと血に染まる。
「うわあ」
ガバリと身を起こす。ベトリとした汗が体中を這う。体は冷たく、心臓だけが熱く脈打つ。
「夢か」
頭を抱え込む貴子に気づいて、座ったままウトウトしていた龍が声をかける。
「大丈夫か」
「ああ」
はあっと深くため息をついて、貴子は目を上げる。龍の心配そうな目と、出会う。
「ずっと眠っていた。——心配したぞ」
「どれくらい寝ていたんだ」
「二日」
「そんなに!」
貴子は膝を打つ。乾いた笑いも出てこない。
「いますぐ、追わなければ」
「追ってどうする。どうやって帰る場所を見つけ出す気だ」
「おれにはこれがある」
貴子が弓の弦をふるわせる。
「しかしそれではーー」
言いかけて、龍は言葉をのんだ。
「だがこれは。いや、しかし」
「どうした?」
「おまえ、強弓が射れるのだったな」
「?」
「一カ所だけ、黒都を強襲可能にする場所がある」
「それは、どこだ」
「火薬庫」
丘を登ると、黒い城壁が現れた。中はよく見えないが、どの辺りに何があるか、よくわかっていた。貴子は目測したが、距離が足りない。
「裏の山からなら、火薬庫が狙えるかもしれない。だがそれでは、星さまを救えない」
「中に突入するしか、ない」
「弓など、持って入れぬだろう」
「一つ考えがある」
「いってみろ」
「あの街には、噴水がいくつもある。そこには水路がつながっているのだ」
「え! どこから!」
龍はにやりと笑った。
「北山の麓に水小屋がある。そこだ」
貴子は色めき立った。だがすぐに、おかしいと思った。
「なぜそんなことを知っているんだ」
「これでも官吏を目指して勉強していたんだ。各国の造りくらいはな」
「そういうもんですか」
「ほんとうは、お前をここに迎えにきたとき、万一に備えて調べておいたのだ」
「おれは一体、どんな危険な女だったんだよ」
「こんなさ」
龍はくすくす笑って、貴子の腕を引っ張った。
「こっちだ」
丘を下り、北の山までの道のりを歩む。貴子は、いつもならひょいひょいと山道を歩くのに、いまはぐったりとしていた。
龍が背中に負うて歩き出す。
「こんなになっても、星さまを助けたいのか」
「あの人が、殺されてしまう」
「……少し、休もう」
貴子を背中からおろすと、龍は座り込んだ。
「女の頃は、軽かったのに」
「食べるもの、食べていなかったし」
「不健康だな」
急に、龍が言葉を詰まらせる。
「不健康なお前に恋したおれも、不健康なんだな」
「龍?」
「貴子。おれはやっぱり、お前に賛同出来ない」
「え?」
心底驚いて、貴子は龍を丸い目で見つめた。龍はうつむいていた。
「このままでは、お前が死んでしまう。お前がいいなら、それもいいと思った。でも、お前には生きてほしい」
「何を言い出すんだ」
「あんな女の、どこがいいんだ! 明鈴を見殺しにした女だぞ!」
はっとして、貴子は青ざめた。
「聞き捨てならない」
「よく聞け。おれは、お前が好きだ。お前を死なせない」
「なら、助けてくれよ! おれは星さまを幸せにしたいんだ」
「……」
龍は泣き出しそうな顔で貴子を見つめる。だがすぐに、その目は強い光を帯びていった。
「玉璽は持っているな?」
「ああ」
「それが最後の砦だ。お前は首ではなく、これを渡すんだ」
「えっ」
「その隙に、おれが吹き矢で亥虞修理を倒す。秘薬と星と椿をつれて、そして逃げる」
「わかった」
龍は満足そうに、笑った。
水路にたどり着いた二人は、水の流れていく穴の中に飛び込んだ。水は冷たく、熱のある貴子には自殺行為だった。
(さむい。体が凍えるようだ)
時折水から顔を出して空気を吸っては、また流される。そうしてしばらくたつと、急に流れが速くなった。
ざぱあ。
飛び出した所は、中央広場の女神の噴水だった。
折しも夜で、誰もいない。
「寒いか」
龍が声をかける。貴子は既に冷えきって震えが止まらない。
「体を温めなければ」
龍は顔を上げた。奥に亥虞修理の屋敷が見えた。
「あそこだ。あそこに、火矢を打ち込むんだ」
二重になった筒の中から、弓と矢を取り出す。矢には油をしみ込ませた布を巻き付け、火をつける。
そして。
貴子は亥虞修理の屋敷に、火を放った。それも、火薬庫近くの亥虞修理の中庭の、枯れた木に。




