地獄
龍は大股で進んでいく貴子のあとをついていきながら、彼の心中を考えていた。
彼は本当に皇王を討ちたいのだろうか、と言う単純な疑問が、ずっと頭から離れない。
皇王は仮にも異父兄弟であるはずだ。兄弟同士に組み合うというにはあまりにも疎遠だったし、そもそも彼の父を殺したのは宰相だ。
「あの人の側にいることが、既に許せないのだ」
急に、ぽつりと貴子がつぶやく。
「おれは女でいる間、筋肉をつけたり身長を伸ばさないために食事も限りなく減らして来た。知らないだろう、華やかな宴のあと、一人物陰で吐き出す苦しみを。あの餌付きをさせながら、あいつはおれの兄弟でありながら、あの方の側に居続けたのだ。そして、無関心に捨てたのだ」
「恋の恨みのために、こんなことをするのか」
「違う。おれは、おれの居場所をつくるんだ。あの方の側にいてもいいという証が欲しい。夜ごとの苦しみなど、もうたくさんだ」
「貴子」
ポンと肩に手を乗せ、龍ははっとする。
熱い……。こいつ、熱がある……。
「お前、どうしてそんなに」
「おれは父を本当は憎んでいるんだ。なぜやるからには、反乱を成功させなかったのか。成功していれば、おれはこんなではなかった!」
吐き捨てるように、貴子が言う。
「おれは親父のなし得なかったことをしてやる。王の首をはねて、おれが王になる。おれが、反乱を完遂させる」
言い放ったあと、貴子は急によろめいた。龍が近寄ると、その手を払う。
「足が痛いのか?」
「死病だ」
水音が少し静かになったのか、耳の中の轟音がなくなっている。建物を一つ抜けた時、そこから緩やかな坂が見えたが、二棟より下は水に浸かっていた。
「湖?」
「見ろ、人が」
いくつもの舟が浮いて、浮かんでいる人々が格納されていく。
「もう、やるしかないんだ」
一番奥の建物の戸を開けようとしたが、ぴくりともしない。中でかんぬきがされている。貴子と龍は目配せをする。
二人で助走をつけて蹴ること三回。わずかも動かない。そこへ。
「白銀参る!」
鎚を使って入って来た白銀が、とを打ち抜いた。
中では、皇王が首をついて倒れ込んでいた。奥で、子どもが一人、無邪気に「あかいうみー」と喜んでいる。
「ぱぱが海をつくったよー」
「そうね、よく見ておきなさい。椿さま」
椿王子を抱きしめながら女性が一人。
「星さま」
「父も死んだわ。腕を切られて、血をなくし、倒れ込んだまま水に飲まれてしまった」
泣くかと思ったが、星は冷たい目で、王の亡がらの横に倒れるもう一人の女を見た。
「蛾美人よ。王が一人では寂しいだろうからと、わたしが殺しました」
「星さまが?」
「わたしは正妃です。ですから、王のお世話をしなければ」
返り血を浴びた顔は、夜叉のように底光りする色合いだった。
「わたしがほしい?」
星はすくと立ち上がる。
「前はお前が逃げたわ。今度は、わたしが逃げます」
懐剣をのどに突き立てようとした彼女の手に、吹き矢が刺さる。龍である。
「なぜ、抱きもせぬのに執着するのだ!」
ぼろぼろと泣き出す星を、力一杯貴子は抱きしめた。
「あなたは歪んでいる」
「そうよ、お前がゆがめたのだ」
「おなたのお望みの反逆者になりました」
「そう、わたしが望んだのね、この結末を」
受け入れたような振りをして、星は貴子から離れると、懐から何か、四角い石を取り出した。
「玉璽よ」
「!」
「これが王の証よ。欲しいかしら」
「それは、椿王子のものだ」
「前は王の弟なのに」
とは、龍。
「椿は王宮外に逃がしましょう。かならず亥虞修理に殺されてしまいます」
真面目な顔をして言う星に、龍が賛同する。
「おれが連れて行こう。早い方がいい」
「なぜ」
「なぜ? わかっていない、あの男はお前を将軍にして臣下にした。と言うことは、自分が王になりたいのだ」
「なんだって!!」
龍の言葉に、貴子は絶句した。
「もちろん彼から勝手に離れればお前も罪を科せられるだろう。お前はうまいこと、はめられたんだよ」
「亥虞修理め!」
「あまりわたしの前で話されない方がいいかと、思いますけれど」
「白銀」
「わたしはもと来た道をたどって、亥虞修理さまに報告をします。ええ、もと来た道をたどって」
「逆をいけというのか?」
「ふふ」
星と椿をつれて、龍と貴子は裏門へ歩き出す。
「わたし、残るわ」
ふと星が足を止める。
「わたしはずっと、ここに来るために生まれ、ここで死ぬために生活して来たのです。今までのわたしを、捨ててどこにいけというの」
「おれがつくる」
貴子が星の肩を揺さぶる。
「おれと新しくつくろう。今までのあなたは、全部捨ててくれ」
貴子は熱に熱い唇を星に押し付ける。かさついて、その唇は星の唇に傷を付けた。
しかし、星はそれをとがめなかった。
「ここは、どこ?」
「ああ、裏門の近くです。おわかりにならない?」
「えー……わからないわ。それに」
「それに?」
「……あなたたちは、誰?」
「え?」
「椿、だめよ。知らない人たちに近寄っては」
星の行動を、笑う余裕など誰にもなかった。
「何を言っているんです?」
「きゃあ、怒った! 椿! 椿、逃げましょう!」
二人がばたばたもと来た道を走り出す。
「待て!」
「王子様。椿王子様」
すぐ先に、亥虞修理が立っていた。
「王子様。おいしいお菓子をもっておりますよ」
亥虞修理が袋からお菓子を取り出す。椿が声を上げて駆け寄る。それを、猫の子でもつまむように抱き上げて、亥虞修理がほおずりする。
「貴子。玉璽は?」
「さ、差し上げられません」
「ふうん」
亥虞修理は冷たく笑うと、三将軍に「やれ」とつぶやいた。ためらいもせず、将軍たちが駆け寄ってくる。その時、花びらが一面に舞った。
「旦那さま!」
「陽子!」
「逃げて!」
貴子は龍と走り出したが、途中で星がいないことに気づいた。
「星さま!」
振り返ると、星が亥虞修理と対峙している。
「だめだ、いかなければ」
「椿を返して」
「あなたもいらっしゃるといい。しばらくの玉璽の代わりだ」
「椿と一緒に、いられる?」
「いられます」
「じゃあ」
「だめだ」
横からさらうように、貴子が星を抱えて走る。
「だめだ、だめだ」
裏門を抜けると、深山である。振り返ると、カンファンに火の手が上がっていた。その火はやがて大きくなり、天をも焦がすほどになる。新しく出来上がった水たまりに炎が照り、それは地獄絵図だった。




