香り
好きだといいながら消えた女と、どんなに頑張っても手に入らない女、どちらを手にするべきか。
庭園に身を遊ばせながら、貴子は人の流れを目で追う。誰も彼も忙しそうで、自分のことなど気にしない。大勢の中の孤独を、貴子は見つけた。高山で感じた孤独とは、また違う。ずっと、自分が無意味に思える。
その自分射手を差し伸べる女が、陽子だ。あの手を掴めば、明るい所へいけるかもしれない。
でも、もっと深い所から自分を掴んでいる大きな手がある。星のあの黒髪が、自分に絡み付いている。
「星さま」
つぶやくと、胸が締め付けられるようだった。
まだ、自分はあの人のことが好きなのだと、改めて気づく。
「星さま、本当はおれ、あなたのことを抱きたいのです」
両手で自分を抱いて、苦しみをも抱え込む。
仮宮の香りがする。柑橘とかびたような甘みの香木の香り。むせ返るようだった。その中をさらに飛んでいくと、あの人の髪の匂いにたどり着く。それから肌のぬくもりがよみがえる。やわらかな肉の感触。
濡れた睫毛。わずかに開く唇。
「ああ、だめだ」
頭を振って幻影からはなれる。まだ芯がしびれている。
まやかしから逃れるものは、争いしかない。いますぐ戦争に行って、戦いたかった。次々倒して、血を浴びて、あの女性を勝ち取りたかった。
貴子は駆け出した。回廊を抜けて、楼閣にのぼる。亥虞修理の執務室の戸を開け放つ。
「やあ、どうしたんだい」
亥虞修理は水煙草を吸っている。
「お願いがあります」
「ほう」
にっこり笑って、亥虞修理が机の前から立ち上がる。円窓の横に座ると、貴子を側に呼んだ。
「願いというのは?」
「戦をはじめさせてください」
「なぜ」
「それは……火薬も手に入りましたし」
「だめだな」
亥虞修理が首を横に振る。
「まだだめだ。もうじき雨期が来る。どこも戦をしないことになっている」
「でも」
「それに隙がないのだ。ヒャングンを攻めるのを待ちなさい。兵がでて都が手薄になる」
「それまで何をしていればいいですか」
「嫁でももらいなさい」
「えっ」
「戦が始まればいつ死ぬとも限らん。嫁をもらって、子どもを作るんだよ」
「……」
「ああ、もういるのだったかな? 陽子とかいう」
「あれは、ちがいます」
はっきりと貴子は答える。
「そうかい? とにかく、せっかく男に戻ったのに楽しんでいないようだ。女ならいくらでもあてがうよ」
「結構です」
「つまらんなあ」
亥虞修理は笑って席を立った。怒らせたかと思って、貴子は顔をのぞく。だが、亥虞修理は笑っていた。
「青春の匂いがするよ」
貴子は顔をかっと赤らめた。
「さあ、出て行ってくれ。黒都の仕事がたくさんなんだ」
「あ、はい」
貴子は執務室をでた。
どこからか火薬に匂いがした。裏庭で実験が何度も行われているからだろう。もう、あの甘い香りはしなかった。




