婚姻
カンファンの中枢である官府正殿の前庭は緩やかな坂で、正殿に通じる通路は赤く漆で塗られている。その道を、星は踏みしめて歩いていく。白い衣は王妃にのみ許された装束だ。
玉座には若き皇王が座り、それを上から見守っているように貴子には見えた。貴子もまた、ひれ伏す朝臣たちの間を、王妃について歩いていた。歩くたびに足元で誰かの野望を感じ、息づかいを感じて、これを征服する心持ちだった。
「王に取り入りたい」
「王になりたい」
人々の願いとつぶやきが、羨望となって貴子の背中からついてくる。
(重いんだよ、お前らは)
侮蔑する気持ちと、優越感が彼の足を軽くさせる。
実際、人が見て彼の足取りは軽かった。赤い裳裾は風をはらんで揺れる。振り返ることは許されなかったが、きっと振り返れば龍と目が合うだろうと貴子は思った。肩に、彼の温かさを感じるのだ。
(俺を好きだと言っていた)
まるで天女だと第一印象で感じたと語っていたこともある。
(だが俺は星さまを愛している。——人を殺すほどに)
星の足が止まる。つられて足を止め、その場にて礼をし、ちらりと目を上げる。
玉座の下にたどり着いていた。そこには、十五歳の若き王が座っていた。三白眼をぎょろりと動かし、彼は星を見下ろした。
「よく参ったな。宰相楽章が娘よ。名はなんと言う」
「楽星百里でございます」
「我が名は死したあとにつけられる名しかまだ持たぬ。だが、私の母は私を——」
ふと、皇王の目が貴子に止まる。皇王の目に驚きが見えた。
「母は私をシンと呼んだ」
「シンさま……」
星がうっとりとしているのを見て、貴子は心の中で舌打ちをした。
(俺は星さまを愛している。だが星さまはシンを愛しているのだ)
燃える目を隠すために、貴子はうつむいた。
(だが俺は王を殺すぞ)
「そなたの名は?」
思いもかけずに王が女官に興味を持ったので、場がざわつく。
「埜貴紫芳」
「どうなさったのですか、皇王様。我が娘に不備がありましたか」
やり取りに入って来た男を、貴子は盗み見して頭を下げた。男はでっぷりと太った恰幅のいい男で、紫の衣をまとっていた。
「いや、なに、誰かに似ていると思ったのだ。すまない、百里にケチを付ける気はないのだ」
「さようですか、どれ」
男が貴子の顎に手を当て、顔を覗き込む。ぎくりとする男の目を、貴子は確かに見た。
「誰だ? 誰に似ておる?」
「いえ、どなたにもにておりません」
「恐れながら、先女帝に似ていらっしゃると思います」
男が否定したあと、一人の女が口を挟んできた。
「宰相、なぜ言わないのです。お前も思ったのでしょう」
男がぐうの音を上げる。
女は二十代半ばくらいの年頃の貴族風の女だった。
「叔母上」
「夫と死別し、久しぶりに後宮に戻ってみれば、上様も宰相殿も姉上に顔を忘れたなどというのですから、つまらないことね」
「いじめないでほしいな、伯母上」
「私がしっかりせねばならないようね」
皇王の叔母という女は、どうも強引な人のようであった。
「でも不思議ね。血がつながっているのかしら」
叔母はカラカラ笑って、「さあ、儀式の続きをしましょう。楽宰相、控えるぞ」と後ろに控えた。
場内のざわつきが収まるのを待つと、王妃と王は互いに蓮酒をつぎあい、杯の酒を一気に飲み干した。
わっと会場が歓声に包まれる。
「おめでとうございます!」「おめでとうございます!」
婚姻は成立したのである。
夜。星が王の寝所に呼ばれる。貴子は立ち会うことになっていた。
(これは絶好の機会かもしれない)
貴子は息せき切って自室に戻り、刀を探す。
(あ、検非に渡されたままであった)
どうしようと思っていると、かたりと扉が開いた。はっとして振り返る。
「どうしたの?」
「明鈴!」
「おれ、刀が欲しいんだ。王を倒す!」
「だめよ、約束したじゃないの」
「……?」
「寝首をかくのは三年後って。忘れた?」
「あ」
「確認に来たのよ。だから今日は、おとなしく星さまの夢を叶えてあげてね」
「夢?」
「星さまは生まれてからずっと、皇王様の妃と決められて来た。自分もそう思って、皇王様に恋をしているの」
「本当の王妃になるのが、夢」
「さあ、わかったら、今日は何もしてはいけないわ」
「……わかった」
明鈴がにっこり笑って貴子を星の寝所に送り出す。
寝所では湯浴みを終えた星が夜着に着替えて、控えていた。
「王の使いが参ったら、つれられていくのです」
「はい」
「わたしは皇王様のものになる」
「はい」
「はいしか言えぬのか?」
そわそわしながら星がいらだちを見せる。
「王が私ではなくお前を抱いたらどうしよう」
「え」
「先ほども私に興味を持たれなかったもの。ねえ、なぜかしら」
「星さま、なんだか珍しいですね」
「?」
「星さまがそんなに落ち着きをなくされるなんて」
「……」
「そんな奥さんが出来て、手を出さないはずがないですよ。一喜一憂して自分を迎えるお妃なんて、……かわいいですよ」
ほんとうに、言いながら貴子は切なくて仕方ない。
わりきれない、なぁ。
王がことの後に、眠る王妃を横につぶやいた。
それを立ち会った何人かが聞いていた。
「母は本当だったら生きていたんだ。秀弓の乱に巻き込まれなかったら」
ぽつりぽつりとつぶやく王の言葉を、貴子も聞いていた。
「父が早くになくなり、母も亡くなった。こうして結婚しても、誰も祝ってくれないんだ」
がばりと王が起き上がる。
そして貴子を見て、言った。
「ひとこと、めでたいと言ってくれないか」
「母に似ているんだろう? 頼むよ」
目がまじめそのものである。
貴子は煮えくり返る気持ちとともに、一種の憐憫を感じた。
「おめでとう、ございます」
「母上……」
王はふかぶかお辞儀をすると、そのまま眠り込んだ。
初夜が過ぎた。