序
白い雪の丘に登ると、真っ黒な城壁が、赤い夕日を背に姿を現した。若き内吏の龍平昌は愛馬の汗ばんだ茶色い肌を優しく撫でると、懐から勅書を取り出した。
「齢十五をむかえる皇王の、成人を祝して造営するという国を挙げての人材探し。生まれてからずっと塾に通って、やっと科挙を終えて赴任すれば、このめでたき仕事に、面倒などという言葉は不似合いだろうが」
学問で青春を費やした割りに日焼けした唇を、砂を含んだ舌がじゃりっと音を立てて舐め上げる。
龍平は考える。
(さて、あの黒い城壁は王との戦いにおいて、何度も煤でいぶされた不落の城塞都市じゃ。皇王の勅書ごときで閉まった門が開くとも思えぬ。王の使いとばれぬようにして、門のしまる時間までに潜り込んでやろう)
真っ青な衣をばさりと脱ぐと、龍平昌は王より賜った玉をくるんで、白雪のかぶる竹林に放り込んだ。
そのとき、誰かが竹林から飛び出して来た。
「誰だ!」
「あたい、あんたのこと、ずうっと見てたよ」
「隣村からついて来ていた女か」
見ると、身分の卑しい女が青い衣を抱えて立っている。ぼさぼさの髪からは予想もつかない美しい声で、女は甘えた声をだす。
「ねえん、にいさん、あたいは王子様を待ってるんだよ。あんた、王子様だろう?」
「馬鹿を言うな。おれは忙しいんだ、それを返せ!」
「いやよ、抱いてくれるって約束してくれなきゃ、渡さない」
太陽はどんどんと陰っていく。閉門時間が近づいていた。龍平はこの女を斬り殺そうかと思ったが、慈悲の心がわいた。
「じゃあ、預かっていてくれ。大事な仕事だ、それが出来たら、おれも考えよう」
「うわあい、ありがとう、にいさん」
馬を走らせて、丘を駆け下りる。既に城門の前は大きな影が出来ていて、見上げるとのしかかるように壁が迫って見えた。
「ここは亥虞修理さまのおさめる黒都だ。お前は旅のものか?」
甲冑をまとった何人もの兵士たちが、一人一人の旅行証を確認する。
「どこの国のものだ」
「グン・プトン」
「北方の小国か」
「今は昔。大国の属国となって久しいですが」
「ふん、辺境なのはこちらも同じこと。通れ」
礼をいいながらするりと城門を抜け、龍平昌は城内に絶句した。
「なんだ、これは。なんと高い楼閣が、そびえているのだ」
首都のヤン・トンにすらない高層の建物がいくつもみうけられるばかりか、南国の樹高のある木々が生い茂っていた。東西をつなぐ駱駝が人々に従って列をなし、街の中央には西洋の女神とおぼしき像が池に水をたたえていた。その水の美しいこと。まるで異世界の国のようである。
「おどろいたな、ここが黒都か」
若い彼には胸が躍るようであった。仕事で来たとは言え、辺境都市の美しい女性たちはまた都の女と違って見えた。
「少し遊んでいくか」
女たちのあとをついていこうとしたとき、ぎゃーっと大声がしてあたりが騒然となった。
ギラギラした少女が、短刀をもって楼閣の上から飛び降りて来た。
瞳に、吸い込まれるようだった。
少女はくるりと身を翻し、龍平昌の前に舞い降りた。
「天女」
つぶやく龍平昌を見て、少女の真っ黒い瞳が細められた。長いまつげの際に、赤い紅が引かれているのが見えた。あでやかに笑いながら、彼女は短刀を龍平昌に向けた。
「この者を殺されたくなければ、わたしを修理のもとに召すことを考え直せ」
楼閣から兵士がゾロゾロと飛び出してくる。その向こうに、亥虞修理とおぼしき立派な身なりの男が見えた。
「おまえ、旅の者か?」
「ああ、グン・プトンの商人だ」
龍平が答えると、少女はますます彼の首に刀を突き立てた。
「聞いたか。異国の旅人、特に商人には手を出してはならぬというのが通商条約だ。殺されては困るであろう」
すると、少女を追っている兵士たちの動きが止まった。亥虞修理が制したのだ。
「なぜそこまで私のもとに来るのを拒む。貴子」
「わたしはこんな小国で終わりたくないのです」
(貴子だって?)
やり取りを聞きながら、龍平昌は間近の美少女をじっと見つめた。
黒々としたまっすぐな瞳。すっと通った鼻筋。引き結ばれたくちびる。それらに似合わぬ可憐なまなざし。
(まちがいない、お召しのあった少女だ!)
「やだ、死にたくない!」
「あ、待ちなさい!」
少女の手を掴んでおきながら、龍平は逃げる振りをして走り出した。
「外に馬をつないである。一緒にいこう」
「どこへ」
「あなたの望む場所」
まて、まてえと言う声が近づいてくる。
「都で王がお待ちじゃ」
「わたしを?」
「さあ、乗って!」
二人は馬にまたがると、閉じかける城門を抜けて場外に飛び出した。
既に日がすっかり暮れようとしている。
たいまつの下に、一人の女が立っていた。黒い影の下から、ぬっと現れた彼女は「にいさん」と衣を差し出した。内吏の証の真っ青な衣である。
ばさりとそれを羽織ると、龍平は少女の手を握り、「私は都の内吏。あなたを王命により連れにきた」と教えた。
「うそみたいだ」
「うそじゃない。君が王の女にならなければ、手を出すのに。残念だ」
「まさか。にいさんにはあたいがいるんだから」
女がまた口を挟む。
「抱いてくれるって言ったじゃないの」
「下品ね、そういう男だったの。おろして」
「そうよ、あんたの乗る馬じゃないわ」
「さっきから、何よ、あんた」
「十年以上前になるけれど、南の都市が陥落したの。そこのお嬢様だったのよ、これでも」
「ふうん」
「ふうんってなによ」
「ふうんはふうんでしょ!」
喧嘩を始めた女二人を馬に乗せて、龍平は馬を引くはめになっていた。
丘は灰色になり、竹林はかーんかーんと節をならす。月は低く、空には雲がかかっている。寂とした中で、三人はいつしか言葉をなくしていた。
火をたいて野宿していると、やっとぽつぽつとお互いの話をするようになった。
「わたしは流しの薬師をしている。母を先年なくし、一人で旅をしているんだ。結構目立っているらしくて、いく先々で実力者の屋敷に呼ばれたよ。でも、今日は妻にならないかと持ちかけられて、逃げて来たんだ」
「おれはちょうど、あなたを迎えにきた所だったのだ」
「遊びにいくように見えたけど」
「にいさんったら」
笑っているうちに、女二人は横たわって眠りだした。龍平は今のうちに南都市の女を置いて貴子と行こうかと思った。しかし、その気配を察したのか女はすっと手を伸ばして龍平の裾を掴んだ。
「いかないで」
「明鈴……」
「名前、知っていたんだ」
「試験を通るにはコネも必要。各地の有力者の縁者くらいは」
満足げに、か弱く微笑む彼女を見て、龍平は心を決めた。
「明鈴、よく聞いてくれ。これから宮中に上がる貴子には味方がいない。お前が味方になってやってくれ」
「え?」
「色々あるとは思うが、おれはお前を大事にするから」
「龍平さま」
「このことは誰にも言ってはならぬ。いいな」
そういって、龍平はそっと明鈴を抱き寄せた。
「はい……」
貴子は、すーすーと寝息を立てている。火がはぜ、明鈴は目を閉じる。
それを制して、龍平は空を見上げた。
「我が王は、お若い。これから宮中は華やぐだろう」
天暦150年の新春である。