11 縁
千夏が驚いて固まっているうちに終わった蛍都との口づけは鉄の味だった。実を言うと千夏にとっては初めての口づけでもあったので、多少の夢を見ていたのだったが、それとは全く違うものになってしまった。別に初めてのキスはレモンの味、なんて子どもみたいなことを言うつもりはないけれど血の味だなんてと少しだけがっかりしてしまったのは否めなかった。ただその初めてのキスの相手が蛍都ということが、色々と差し引いても千夏を喜びに変えるのには十分だった。
契約という言葉の意味はよく分からないが、今のところ体が変わった感じもしない。至って普通の体のままだ。思わず手の平を握ったり開いたりをしてみるけれど、千夏の手は以前と大きくも小さくもない手のままだった。
縁
同じ縁という漢字でも、その読み方はえにし、えん、ゆかりと三つある。けれど、意味はそれぞれ少しずつ違っていて蛍都が言ったえにしは人と人との男女の繋がりで運命のような見えないものによって結ばれたというような意味合いが強いと思う。
あの口づけの際に確かに付けられた傷は最後に蛍都が唇を舐めた後すぐに瘡蓋も残さずに元のように塞がってしまった。もしかしてあれは夢だったのだろうかと思って、だがすぐに首を横に振る。
「香山さん、これお願い。追加が出たから足してもらっていいかな」
「――はい」
不意に視界へ割り込んできたファイルに顔を上げると佐山と目が合った。
「よろしくね」
佐山はにこっと笑みを浮かべると、そのまま自分の席に戻った。千夏は何の仕事を与えられたのだろうとファイルから二枚の紙を取り出すと、その後ろになっていた紙に付箋が付いているのが目に付いた。それには確実に千夏宛だろうと思われるメモが書かれており、それを読み顔を上げると佐山と目が合った。佐山は千夏に合図するかのように笑顔を浮かべると、すぐにまたパソコンに視線を向けて仕事を再開したらしかった。
与えられた仕事自体は大したものではなく、前に佐山に頼まれてやった集計での数値の追加だった。そのため、それは一時間もあれば余裕で終わると思われるものだったが、問題は付箋だった。
『追加で申し訳ないけどお願いします。それと、今日仕事終わったら8時にLUCIRで待ってる』
LUCIRは仲間内で何度か使ったことのある、駅近くのお洒落なバーだ。お店に入るとすぐに熱帯魚が悠々と泳ぐ大きな水槽が目に入り、そのお店自体も寒色系で統一されているため水の中にいるかのような雰囲気が味わえる。何度か行ったことはあるものの、どちらかと言うと友だちと行くよりも女性同士かデート向きな場所なために個人的に利用したことは無い。
おそらく、これはデートなのだろう。そう思うと千夏は気が重かったが、佐山ともきちんと話をしなければいけないので行かないという選択肢はできなかった。先ほどの佐山の笑顔がチラついて、胃がぎゅっと掴まれたように苦しい。約束の時間まではそう時間はないが、それまでに何て佐山と話をするか考えなければならない。
千夏はそっとため息を吐いた。
好きな人がいる、それまでは言えるがどんな人と聞かれたら何て答えたら良いのだろう。昔からの知合いの年上の人です、等が無難だろうか。それに蛍都は千夏の傍に居るとは言うけれど、この関係を何て説明したら良いのかも分からない。きっと両想いではあるだろうけれど蛍都は彼氏でもない。そう思うと今日の夜のことが憂鬱な気持ちになるのだった。
「――すみません。あの」
「いいよ。実は何となく断られるだろうなって思ってた」
「え?」
席についてすぐに謝罪の言葉を出した千夏に佐山は困ったような笑みを浮かべて首を振った。佐山があまりにも簡単に言うので、逆に拍子抜けするくらいだった。戸惑う千夏に佐山は何でもないことだとでも言うように飲み物を勧める。
「せっかくだしさ、何かどう?別に無理にアルコールを勧めたりしないし」
「……はい、それじゃあ、ウーロン茶を」
少し考えて無難に冷たいウーロン茶を頼んだ。ここはアルコールの出る店だが、一応念の為アルコールは避ける。酔った頭では判断が鈍るからだ。
「了解。――すみません、冷たいウーロン茶をお願いします」
佐山は嫌な顔も見せずに、店員に頼んだ。いつもであれば迷いなくビールを選択するのに、ここでノンアルコールのお茶を頼んだ。そのことで佐山の気を悪くしたかと思ったが、そんなこともなかったらしい。
すぐにウーロン茶は目の前に運ばれてきた。それを見ながら佐山は何気なしに話し出す。
「香山さん、彼氏出来た?」
「えっ」
「はは。何で分かるのって顔に書いてるよ」
突然の言葉に思わず口に含んだウーロン茶を噴出しそうになった。そんな千夏を見て佐山は楽しそうに笑ってビールを煽っている。
「顔に書いてます?」
そんなに分かりやすいのだろうかと思わず頬に手を当てた。アルコールも飲んでいないのに、僅かに頬が熱い。きっと顔も少し赤くなっているのだろう。
「書いてる。この間はそんなことなかったのになぁ。残念」
「気持ちにお応えできなくてすみません」
「ううん、いいよ。気にしないで」
そう言う佐山の言葉はあっさりしたもので、この間自分に告白してきた男のものとは思えないほどだった。別に泣いて縋られたいとは言わないし、そんなことご免である。だがあまりにもあっさりしすぎているのが妙に違和感があるのだ。
「それに今日お酒を飲まないのは良い判断だね。香山さんは良い匂いするからよくないのも惹きつけちゃうし」
「いい匂い、ですか?」
思わず腕の匂いを嗅いだ千夏を見て、佐山はまた楽しそうに笑っている。特別な匂いは感じない。強いて言うなら柔軟剤の香りがする。最近の柔軟剤は匂いの持ちが良いので、夜になってもいい香りがするくらいだ。だが、そんなの誰でも一緒であるだろう。
「うん。だから気を付けた方がいいよ。君の彼氏にも迎えに来てもらった方が良いかもね」
「……そうですか?」
「――それじゃあ、ばいばい。香山さん」
そう言うと、佐山は早々に会計を済ませて帰ってしまった。残された千夏はと言うと、一人でここに居ても仕方ないのでさっさと帰ることにした。
店を出ると、すでに外は真っ暗になっていた。