10 契約
神様が消えてしまうなんて考えたこともなかった。限りある死を持つ生命から超越し、存在していると思っていた。しかし、そうなると神様は増え続けてしまうということにもなる。
千夏は温くなり始めた浴槽の中でふぅとため息を吐いた。家の中でも、浴室の中だけは蛍都が突然現れたりしないので安心して一人になれた。
日本では八百万の神がいると言うけれど、数が増えたら消滅してしまうのか。それとも、どこかで神が消滅してしまったから新しい神が生まれるのか。
いくら考えても、人間である千夏にはその答えが分からなかった。でも、誰にその答えを聞けば教えてくれるのかなんて分かってる。
「やっぱり忘れさせられてたのかなぁ……」
急に甦った記憶に千夏は困惑していた。十年以上は昔の記憶。自然と忘れてしまってもおかしくはないのかもしれないが、それにしてもすっぱりと全てそこの部分が抜け落ちていた。けれど、それを急に鮮明に思い出したのが不思議だった。まるで昨日のことのように色や匂いまでもはっきりと鮮明に記憶に甦ったのだから。
なぜ、このタイミングでとそこも疑問だったがが、あの神様は自分に何をしたのだろうと考えを巡らせる。今持っている記憶が全てであるのであれば、あの神様と直接話したことは無かったはずだった。時々目が合って、神社で働く大人だと認識していた当初はお辞儀したりしていたと思う。でも、それだけだ。
次から次へと湧き出る疑問に千夏は頭を抱えた。疑問はいくらでもあるのに、一人で考えていても何一つ解決しなかった。けれど、蛍都には聞きにくい、とうか何て聞いたら良いものかとまた頭を抱える。
ざぶんと顔を浴槽に漬けてぶくぶくと息を吐いた。
『蛍都もいつか消えてしまうの?』
変に回りくどく言うのもおかしいし、逆に聞きづらくなる。直球すぎるが、ストレートに聞くのが一番ダメージが少ない。
「……いやいや、ちょっと待ってよ!ダメージ?……ううん。ああ、そっか。――あたし、ショックなのか」
ポツリと呟いた言葉が妙にすっぽりと胸に納まった。神社からの帰り道、口数も少なく静かに歩く千夏に対して蛍都は不思議そうにしていた。確かに、千夏はいつも蛍都と居る時は何かしら話している。それこそ、その日の出来事やら愚痴やらを蛍都に話すのが子どもの頃からの日課のようなものだった。だからこそ、蛍都は何も話さないで黙って歩き続ける千夏がいつもと違って不思議だったのだろう。
けれど、その時のあたしは絶対的な存在――決して消えない神様という存在の蛍都が居なくなるかもしれないという事実に打ちのめされていたのだ。
最近よく夢に出るおなつという女性のこともあり、千夏は蛍都に対してよく分からないざわざわとした想いを抱えていた。ずっと家族と同等だと思っていた。けれど、もし蛍都が千夏の傍からいなくなってしまうとしたら?ふいにそう考えただけで、頬に汗とは違う温い雫が伝った。
「……やばい。あたし蛍都のこと、好きなんだ」
ようやく自覚した想いはどこに届けたら良いのか。恋を自覚した途端に重苦しい気持ちで押しつぶされそうになる。気持ちを伝えることすらできないかもしれない。神様と人間――恋なんてしてどうなる?
「けど、こうしてても何も変わらないもんね。――よし!」
千夏は自分に言い聞かせるように言って、自分に気合を入れるとざばっと勢い良く浴槽から立ち上がる。ぐじぐじ悩んでるなんて生に合わないのだ。思い切って聞いたほうが良い。蛍都だって千夏の様子が変なことに気付いているみたいだし、また変な方向に考えて誰かを呪ったりしないとも限らない。
「ねぇ、蛍都ー?」
脱衣所を出て、家の中を探すがこういう時に限って蛍都が出てこない。千夏は祠にでもいるのだろうかとサンダルに履き替えて、家の裏へと回る。
「……千夏か。髪も乾かさないで全く」
蛍都は呆れたように千夏を見て向かい合うように傍に来て、千夏が持っていたタオルで優しくに髪の毛を拭く。
けれど、千夏は先ほど自身の気持ちを自覚したばかりだ。昨日までは何とも無かった距離が妙に恥ずかしくて、蛍都の顔も見れずに下を俯くしかない。
「何だ、すぐに乾かさないから風邪でも引いたか」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。ちょっと、うん。気にしないで」
千夏はうつむいたまま、心配そうに見る蛍都にぎこちなく返す。急に自覚した想いは心臓にまで変な影響を与えたらしく、どきどきと鳴る音が蛍都に聞こえてしまわないか心配になるぐらいだった。
「そうか」
蛍都は終わりの合図のように、頭を一撫でするとふっと息を吹く。すると、ふわっと優しい風に包まれて髪の毛が乾いた。
「……ありがと。これ、久しぶりだね」
子どもの頃はいつもこうやって蛍都に髪を乾かしてもらっていた。けれど、あんなに無邪気に蛍都に近寄れる少女はもうそこにはいない。
「そうだな。……それで、どうした」
ちらりと視線を向けると、蛍都と視線が合って思わず逸らしてしまう。
「あの、稲荷神社の神様は蛍都と知り合いだったの?」
「ああ。縄張りが近いからな」
「そっか。あのね、あたし子どもの頃に会ったことがあったの。それを思い出したのも今日だったんだ。ずっとあの人のこと忘れてたのに急に」
「あれは優しすぎる奴だったからな。忘れさせたのだろう、子どもが辛い思いをするのは嫌だったのだろうよ」
「何で、消えちゃうの?だって、神様でしょう?ずっと居るんじゃないの……?」
震える声で蛍都を見た。
「神を信じる者、求める者がいなければそこに神を縛り付ける力は弱くなる。そうすると、神の形を保つ力は弱くなる」
「……」
「求める者が居るから俺たちは神なのだ」
蛍都は優しく笑って千夏を安心させるように頭を撫でた。
「……蛍都もいつか居なくなるの?――ねぇ、蛍都は大丈夫だよね?」
「……」
千夏の言葉に蛍都は笑ったまま答えない。
「嫌だ!あたしの前から消えるなんて、嫌だよ……!」
「そう、か。……分かった。それならば契約をしよう」
蛍都は千夏の頬に手を伸ばし、どこか不気味ににっと目を細めて笑った。鋭い爪先が千夏の頬を優しく掠める。
「けい、やく?」
「ああ。消えぬ約束だ」
「わかった」
蛍都は有無を言わさない様子で千夏を見ている。千夏が小さく頷くと、蛍都は笑みを携えたままたくさんの狐火のような小さな光を纏う。それはふわふわと蛍都の周りに浮かび、その姿は完全に異形のものであることを示していた。
「我、蛍都稲荷神が香山千夏と契約す」
ふわふわと狐火が漂う幻想的な様子をぼんやりと眺めていると、にっと笑った蛍都が千夏の背に手を回して顔を近づけてくる。それを何事かと見つめ返していると、そのまま唇が触れ、ぬるっとした何かが口内に侵入して来た。
「なに、――っ!」
千夏の口は言葉を発せられない。驚いて目を見開いて蛍都を見ても、蛍都は楽しそうに笑みを深めるばかりだった。そして、蛍都の犬歯が千夏の唇に深く刺さる感触がした。蛍都はそこから流れ出る血の味をぺろりと舐める。不思議とその傷は初めだけチリッと痛んだだけで、痛みはすぐに消えた。
「な、何するのよ」
真っ赤に染めた顔で蛍都に聞くと、蛍都はしれっとした顔でぺろりと自分の唇についた血を舐め取った。そして楽しそうに目元を細めて笑った。
「俺との縁を刻んだ」
その言葉の意味は分からずとも、不思議な何かが蛍都と自分とを繋いだのを感じた。