2.降り積もる言葉
前話をちょっと書き足しました。
しくじったな。
死の間際、引き延ばされた時間の中、己の心臓を躊躇わず貫いた刃を見下ろして、男は苦々しく思う。
――ほんとうは、ちゃんと泣けるようにしてやりたかった。
誰かを頼ることも、誰かに甘えることも忘れた娘を、せめて、自分は大事にしたかった。
娘や男を慕う副官とは違って、自分は学がなくて、馬鹿で、どうすればこうならなかったのかなんて、ちっとも思いつかないけど。
娘の一つだけの手は刃を握りこんでいたから、男は何も持たない両手で、己の胸元に飛び込んて来た娘を抱きしめた。
娘の形の良い耳の下で、男が贈った耳飾りが揺れる。
なんの魔法も付与されていないただの装飾品を、娘は大人しく受け取ってくれた。
白い花弁が封入された透明な六角柱の結晶が、光をはじいて儚くきらめく。
血を吐きながら、男はそれでも笑った。
「――リア、愛してる」
こんな結末でも、それだけは娘に分かってほしかった。
「またくりかえしても、なんどだって、おまえをえらぶよ」
◆◆◆
いつか、自分にも報いが降りかかるだろうとは思い続けていた。
シルワの神域、その森の中心たる湖の畔で、娘の足はとうとうもつれる。
何とか態勢を立て直したから、隻腕に抱えていた娘のたからものは、その漆黒の瞳をぱちくりと大きく瞬くだけ。
――もう、一緒にいてやれない。
どうしようもない事実に、娘の喉が震える。
娘の胎からたからものが産まれて、まだ一週間にも満たない。
主君に泣いて止められても、とっとと焼き捨てれば良かったと、己の面の皮を呪った。
自分は誘っていない。釣り出してもいない。
あの男が勝手に狂乱しただけだ。
なぜ、我が子に子守唄を歌いながら乳を飲ませていただけで、誘惑しただのと因縁をつけられねばならないのだ。
元々、下種を誘引したり、男に舐められやすい面だとは、娘自身も認識している。
以前は化粧や変装用魔法具で娘の顔立ちを誤魔化していたが、今は、娘が身を寄せている神域の巫女姫の持ち物に適切な道具はなく、何より、我が子の世話に忙しかった。
片腕の上に子持ちの女に、なに発情しているんだ、あの×××は。
胸の内で、心底忌々しく吐き捨てても、娘が置かれた状況は変わらない。
奇跡のような時間が終わり、その代償の支払い期限が来ただけ。
片耳に揺れていた耳飾りをむしり取り、我が子の小さな小さな手に握らせる。
娘は我が子から父親を奪わざるを得なかったけど、せめて形見だけでも遺してやりたかった。
ぱたぱたと、小さく丸っこい頬に雫が落ちる。
かつて、異母兄を刺した時から娘は泣くのを止めたはずなのに、我が子の父親に止めを刺した後は、彼女の目から何度も涙が零れるようになっていた。
「――我が慈雨」
娘は大事な宝物の名を呼んで、我が子のふっくらとしたほっぺたに自らの頬を寄せる。
きっと、主君には届くだろう。主君に取り憑く神書が、我が子の名を主君に伝えるだろう。
「――どうか、幸せに――」
誰かの破滅と引き換えにその他に救済をもたらす『虚無の聖女』。
その星を自分が戴いているならば、――せめて、この子だけには幸いあれ。
◆◆◆
「――ヴィオレッタがいなくなったら、寂しくなるな」
思わず零れたのだろう言葉に、彼女は腹の底から震えが走った。
彼女の膨らみかけた胎をなでる傍らの青年は、優しい顔つきでそこにあるだろう命を愛でている。
醜く歪みそうになった口の端を、どうにか微笑みの形に留める。
「レインがそう思ってくれるなら、嬉しいな」
彼女の言葉に、青年はふと表情を消す。
常に張り付けた、へらへらと笑う道化の仮面ではない、愛しい愛しい彼女の怪物の素の顔。
先程の優し気な顔がきれいに拭われた、その無表情は、青年の整った造作を際立たせる。
「ヴィオレッタは、いなくなるのに、嬉しいのか?」
「ええ、あたしがいないとレインが寂しがってくれるのが、嬉しいの」
彼女の言葉が理解できないのだろう、少し眉をひそめた青年に、彼女はにっこりと笑ってみせた。
――そう、嬉しい。
彼女は、歓喜して、狂喜して、愉快で、満悦して、これ以上ないくらいに有頂天になっている。
彼女がいなくなることが寂しいと、そう、無意識であろうと彼女は惜しまれたのだ。
――あの、滑稽なくらいに必死になって、あの姉に振り向いてもらおうとしていた、彼女の愛しい怪物に!
あんまりにも激しくて、このまま自分のはらわたを突き破ってしまうのではないかという情動に身を任せ、彼女は青年を抱きしめた。
幼いころは発育不良ぎみだった青年の、小柄で瘦せぎすな体躯は、けれど、彼女の細腕程度ではびくともしない。
当たり前だ。
これは、素手で大の男の心臓を突き破った、ひとの形をしただけの怪物の身体なのだから。
彼女は、青年の胸に顔を押し付け、うっそりとわらう。
……死んでもいいの、あなたの、たったひとりになれるのなら。
生まれながらに病弱で、家族のお荷物であった彼女とは違い、明るく美しかった姉。
華やかな場を渡り歩く彼女の姉を、王に付き従う青年が見初めたのは、仕方のないことであっただろう。
主君に命じられるまま道化の仮面を被り続け、その怪物の本性を隠して必死に愛を乞うた青年を、姉が軽んじたのは、――後から、彼女にとっての好都合となった。
彼女たちのはじまりは、周囲との関係に鬱屈した彼女が、姉に待ちぼうけをくらっていた青年に八つ当たりをしようとしたことだった。
彼女の姉から好意を得たかった青年は、けれど、失礼な彼女に対しては道化の仮面を被らなかった。
それに苛立った彼女は、それからも青年に絡み続けて、――青年がそれでもありのままの彼女を見てくれるから、彼女はどうしても彼の特別が欲しくなったのだ。
例え青年が、彼女の姉に愛を乞うて、ただ一人の主君に絶対の忠誠を誓う、人のふりをした怪物であっても。
だから、彼女は後悔していない。
姉が、愛人にそそのかされて、青年に主君より自分を優先することを要求するのを見逃したことも。
これから、病弱な己の命と引き換えに、青年の子供を産み落とすことになっても。
彼女は、お守り代わりにと青年に首にかけられたペンダントの、白い花弁が封入された透明な六角柱の結晶に指で触れる。
「――ねえ、レイン、この子と一緒に幸せになってね」
彼女は、青年の腕の中、蜂蜜のようなとろりと甘い声で、愛しい怪物に希う。
生涯ただ一度しか異性を孕ませられない欠陥を抱えた青年の子は、だから、彼女の子、独りだけだ。
――姉さんなんか、しあわせにしないで。
「それでね、……たまには、この子に私のことも話してね」
――絶対に絶対に、あたしのことを憶えていて。
◆◆◆
しくじったな。
灼熱であぶられるような喉の痛みを感じながら、レインは苦々しく思う。
――本当に、巻き込むつもりなんて、なかったのに。
レインはため息交じりに、手にした細身の刀身の剣で、わめいて逃げようとした男の足を貫いた。
ざく、ざく、ざく、ざく、ざっくりと。
四肢を貫き、腹も割いたから、戦いを知らない男は、もう倒れた場所から動けない。
毒が体内を焼く責め苦を受けている最中ながら、レインは、攻撃相手の血肉が爆散しないことにちょっと感動した。
死にかけで力が入らないおかげか、今までの人生で一番手加減が上手くいっているのである。
レインは生まれつき力加減の調整が下手くそであったから、幼少時は割とよくうっかり主君やその母君である先王陛下の骨を折ったり、今でも攻撃相手の肉体が原形を留めず、主君に掃除の労力を考えろと叱られたり、挙句の果てには『血雨降らし』というあだ名が付いていたりしていたのだ。
ちかりと、胸元で光が瞬いたような気がして、レインは、身に着けていた首飾りの白い花弁が封入された透明な六角柱の結晶を手で押さえた。
わたくしの だいじな だいじな おともだち
記憶の底にしまい込んでいた声が蘇ったから、レインは束の間瞑目する。
本来、神域の番人たるレインでさえ致命的であった毒から、救われたのは理解できた。
でも、その代償は。
……本当に、助ける必要はなかったのに、と、声を出さずに唇だけを動かす。
徐々に感覚がぼやけつつある四肢をそれでも動かし、レインは込み上げてきた血を吐き捨てた。
扉に向かうのもおっくうで、体当たりで破った壁の向こう、地に伏した宝物をレインは見つける。
あらかじめ組んでいた呪式で、レインが痛手を肩代わりしてもなお、瀕死になるほどの害意に曝された我が子。
まだ小さな体にまたがり、その細い首を縊ろうとしていた相手を確認し、レインはあらためて落胆した。
あーあ。
顔を歪め、髪を振り乱す女の姿には、在りし日にレインが一目見て惹かれた輝きは、もうどこにも残っていない。
――我が子と引き換えに亡くした恋しいひとの、よすがの欠片の一つだったのに。
レインは哀しい気持ちになりながら、持っていた鈍色の剣をぽいと放り投げると、片手で妻の姉の首を持ち上げ小さな体から引きはがし、逆の手で幼い我が子を抱き上げた。
女が呻き声をあげ、レインの腕に爪をたてるが、その程度で『アレクサンドリアの悪鬼』は揺るがない。
「さようなら、キアーラ」
血走った女の眼を見ながら、レインは無表情で、かつて乞うた愛の残骸に別れを告げる。
……ヴィオレッタの心身の健康の維持と彼女の記憶の拠り所のついでに、息子に仲良しの親類がいたら素敵だろうと、主君への不敬に思いきり目をつむってとっておいたのに。
「君がジャンと仲良くしてくれなくて、ほんとうにざんねんだったよ」
ぼきり、と、レインの掌の中で、骨が砕ける聞き慣れた音がした。
女の骸をぼたりと床の上に落とし、レインは、自らの首にかけていた首飾りを息子の首にかけなおした。
亡き母が赤子のレインの小さかった手に握らせた、亡き父からの贈り物が、息子の胸元で儚くきらめく。
両手で我が子を抱えて頬ずりすれば、今にも途切れそうに細い呼吸が、レインの耳をくすぐった。
「――愛しているよ、ジャン」
おまえがしあわせなら、わたしもじゅうぶんしあわせなくらいに。
レインの心からの囁きは、祝福で、呪いだ。
――のこしておいてよかったな、と、レインはしみじみ思う。
呪術において、薪にくべるの供物の炎の激しさは、術者にとっての価値に比例する。
――我が身だけでなく、恋しいひとの拠り所を、ひとり残らず燃料として、『虚無の聖女』の胎から産まれた『虚ろの騎士』は世界の律を焼き払う。
「――ジャン、どうか、しあわせにおなり」
崩れかけた口元で微笑んで、レインは、世界を無理やり書き換えた。
殺されてもなお、愛する娘を選ぶ男
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愛する男を殺した娘
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怪物を愛した彼女
↓
我が子を愛した怪物




