第五話「灰になるまで」
私が生まれたのは、夜の十一時四十分だった。
場所は、古いアパートの三階の窓際。女が煙草に火をつけた瞬間に、私は生まれた。煙が立ち上り、夜の空気に触れた瞬間——気づいたら、いた。
どこから来たのか、わからない。
何者なのか、わからない。
ただ、いた。
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最初に見えたのは、女の横顔だった。
三十代ほどの女だった。窓枠に肘をついて、外を見ながら煙草を吸っていた。部屋の中は薄暗く、テーブルの上に何かの書類が散らばっていた。飲みかけのコップ。脱ぎ捨てたままのコート。泣いた後のような、目の腫れ。
私は女の吐き出した煙の中にいた。煙が揺れると、私も揺れた。煙が広がると、私も広がった。自分の輪郭がどこまであるのか、よくわからなかった。人の形をしているような気もするし、ただの煙の塊のような気もした。
でも、感じることはできた。
女の悲しみが、煙を通して伝わってきた。
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女は煙草を吸いながら、泣いていた。
声は出していなかった。ただ目から涙が流れていた。拭かなかった。拭く元気もないのか、あるいは拭くことを忘れているのか——ただ流れるままにしていた。
私は女の感情を、煙を通して受け取っていた。
悲しみ、というのは正確ではないかもしれない。もっと複雑なものだった。悲しみと怒りと疲れと、何かへの諦めが、全部一緒になって固まったような感情。名前のつけにくいもの。人間はこういうものを、胸の奥に溜めているのか、と思った。
私は生まれたばかりだったが、そのことだけは、なぜかわかった。
*——この人は、ずっとこれを抱えていた。今夜、吐き出した。私はその吐き出されたものから生まれた。*
だから私は、女の感情でできていた。
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女が二口目を吸い込んだ。
煙が増えた。私も少し大きくなった。輪郭が、少しはっきりしてきた。人の形に近い何かになってきた。
私は、女をもっとよく見た。
テーブルの上の書類は、何かの契約書らしかった。何の契約かはわからなかったが、一番上の紙に大きく赤い印が押してあった。女はその書類を、今夜ずっと見ていたのかもしれない。
コートは、出かけようとして、やめた人間の脱ぎ方をしていた。袖が片方だけ裏返しになっていた。
飲みかけのコップは、水だった。
私には、女が何のために泣いているのか、詳しくはわからなかった。でも、一人だということはわかった。この部屋に一人しかいなかった。外から声も物音も来なかった。深夜の、静かな一人の泣き方だった。
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そのとき、部屋の外から足音が聞こえた。
廊下を誰かが歩いてくる音。女がわずかに顔を上げた。涙を、今度は急いで拭いた。足音は女の部屋の前で止まり——そのまま、通り過ぎた。
女はまた、窓の外を見た。
私は女の肩のあたりに漂っていた。近づきすぎると消えてしまう気がして、少し距離を保っていた。でも近くにいたかった。理由はわからない。ただ、そう思った。
*——何かを、伝えたかった。*
何を伝えたいのか、私にもわからなかった。言葉を持っていなかった。感情でできているのに、それを言葉に変える方法を知らなかった。
ただ、そばにいることしかできなかった。
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煙草が半分ほど燃えた。
私は少し焦った。煙草が燃え尽きれば、煙は消える。煙が消えれば、私も消える。それがこの世界の理だと、なぜか生まれた瞬間から知っていた。
残り時間がある。
私は女のそばで何ができるか、考えた。
触れることはできない。言葉もない。声もない。ただ煙として、そこにいることしかできない存在だった。
それでも——
私は女の頬のそばまで、漂っていった。
体温が感じられた。涙で濡れた頬の、温かさ。人間は泣いているときでも、体温がある。当たり前のことなのかもしれないが、私には初めて知ることだった。
女が、ふと手を止めた。
煙草を持ったまま、きょろきょろと周囲を見た。何かを感じたのかもしれない。私の気配に、気づいたのかもしれない。
でも何も見えなかったのだろう。女はまた窓の外を見た。
その顔が、少しだけ——変わっていた。
わずかに、力が抜けていた。肩のあたりが、少し下がっていた。泣いた後の顔が、泣いている途中の顔より、少しだけ穏やかになるような——そういう変化だった。
*——伝わったのかもしれない。何も言っていないのに。いるだけで、伝わったのかもしれない。*
私は、それでよかった、と思った。
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煙草が、残り三分の一になった。
私は自分が薄くなっていくのを感じた。輪郭が、またぼやけてきた。大きくなりかけていた人の形が、ほどけていく。
怖くはなかった。
生まれた瞬間から、これで終わりだと知っていたから。煙草の煙から生まれて、煙草の煙と一緒に消える。それが私の全部だった。
ただ——もう少しだけ、いたかった。
もう少しだけ、女のそばにいたかった。
女がまだ泣き止んでいなかったから。書類の赤い印を、まだ受け入れられていないから。飲みかけの水のコップが、まだそこにあるから。
でも煙草は燃え続けた。
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消えかける直前、私は気づいた。
部屋の中に、もう一つの気配があった。
窓の外、少し離れた場所に——誰かがいた。人間ではなかった。私と同じような存在。でも私よりずっと長くそこにいる、落ち着いた気配だった。
目が合った、と思った。目があるかどうかもわからないのに、そう感じた。
その気配は、私よりずっと遠くから、女を見ていた。
私は消えながら、その気配に問いかけた。言葉ではなく、ただ問いかけた。
*——あなたは、誰ですか。*
返事はなかった。
でも気配は少し動いた。窓の方へ、近づいてきた。
私が消えた後も、女のそばにいてくれる——そういう意思のように感じた。
それでよかった、と思った。
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煙草が、燃え尽きた。
私は消えた。
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翌日の夕方、霧島燈はそのアパートの前を通った。
通り過ぎるだけのつもりだったが、足が止まった。
三階の窓が開いていた。昨夜と同じ部屋。カーテンが風に揺れていた。
煙の気配があった。でも昨夜のものではなかった。もっと古い、長く積もった気配。燈には、それが何かまだわからなかった。ただ、誰かがずっとそこにいる感じがした。
燈は空を見上げた。
晴れた午後の空に、白い雲が一筋流れていた。
煙草の煙のような形をした雲だ、と思った。そう思ってから、らしくないと思った。
歩き出した。
その部屋のことは、誰にも話さなかった。
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その夜、女は煙草を一本だけ吸った。
昨夜より少なかった。泣かなかった。書類の赤い印を、もう一度だけ見て、引き出しにしまった。
窓を開けて、煙を外へ吐き出した。
煙は夜の空気に溶けて、消えた。
その煙の中に、何かが生まれたかどうか——女には、わからなかった。
でも煙草を消したとき、少しだけ、肩が軽かった。
なぜかはわからなかった。
ただ、そういう夜だった。




