表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
禁煙外来の女医は、煙草の煙に宿る怪異を見届ける  作者: にせもん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/5

第四話「澪標の夜」


 喫茶店「澪標」には、七人の常連がいる。


 澪はそれを「七人衆」と呼んでいた。本人たちは知らない。ただ澪の中で、この七人は特別な位置にある。週に何度も来る人、月に一度だけ来る人、季節が変わるたびに現れる人。来るペースは違っても、みんなこの店が必要で来ている——澪にはそれがわかる。


 七人の中で最も長い常連は、坂本という六十代の男だった。


---


 坂本が最初に店に来たのは、十一年前だ。


 妻に先立たれた直後だったと、後から聞いた。その夜は雨で、びしょ濡れのまま入ってきて、コーヒーを頼んで、何も言わずに三時間座っていた。帰り際に「また来ます」と言った。次の日も来た。その次の日も来た。


 以来、坂本は週に四日、決まって夕方の六時から八時の間に来る。カウンターの一番端の席が定位置だ。コーヒーを二杯飲んで、煙草を三本吸って、帰る。話す日と話さない日がある。澪は坂本が話したい日かどうかを、入ってきた瞬間にわかるようになっていた。


 坂本は今夜、話したい日だった。


---


「澪さん」


 坂本はコーヒーの二杯目を待ちながら言った。


「うちの家内のことなんですがね」


「はい」


「最近、夢をよく見るんですよ。家内の夢」


 澪はコーヒーを淹れながら聞いた。


「それは珍しいことですか」


「いや、よく見てたんですよ最初の頃は。でも最近はめっきり見なくなっていて、それがここ一週間でまた見るようになって」


「どんな夢ですか」


「特に何もない夢なんです。家内がそこにいる。台所で何か作ってる。俺が声をかけようとすると目が覚める」


 澪はカップを出した。


「悪い夢ではないですね」


「悪くはないんですが」坂本は少し考えた。「なんか、胸のあたりがもやもやして。懐かしいんだか、悲しいんだか、嬉しいんだか、よくわからない感じで目が覚めるんですよ」


「それは——」


 澪は言いかけて、止まった。


 坂本の背後に、何かがあった。


 カウンターの端、坂本の定位置の少し後ろ。そこに、薄い煙のような揺らぎがあった。煙草の煙ではない。坂本はまだ今夜の一本目を吸っていない。では何の煙か。


 揺らぎは人の形に近かった。しかしはっきりとした輪郭はなく、ただそこに「何かの気配の濃い場所」がある——そういう見え方をした。


 澪は目を細めた。


 最近、こういうものが少し見えるようになっていた。燈に話してはいない。見えるといっても輪郭程度で、燈のように詳しくはわからない。ただ——この揺らぎは、いつからそこにあったのか。


 今夜初めて気づいたが、もしかしたらずっとあったのかもしれない、と澪は思った。


---


 その夜、閉店間際に燈が来た。


 珍しく晴も一緒だった。二人で並んでカウンターに座り、見た目は仲のいい姉と弟のようだったが、当人たちはそういう認識はないらしく、座り方に微妙な距離があった。


「今日は二人で」澪は言った。


「たまたまです」燈が言った。


「クリニックの近くで仕事してたら先生とかち合っただけっす」晴が言った。


 同じことを別々に説明した。澪は何も言わずにコーヒーを二つ淹れた。


 坂本はまだいた。今夜は話したいことが多い日らしく、三杯目のコーヒーを頼んでいた。煙草も四本目に入っていた。澪は心配したが、今日だけ、という顔をしていたので黙っていた。


 坂本が煙草に火をつけた瞬間——燈が止まった。


 コーヒーカップを口元まで持ち上げたまま、動かなくなった。視線が、坂本の後ろへ向いていた。


 澪は燈を見た。燈は澪の視線に気づいて、カップを静かに置いた。


「澪さん」燈は小声で言った。「坂本さんの後ろ、見えていますか」


 澪は少し驚いた。


「少しだけ。最近見えるようになって、あなたに言おうか迷っていたんですが」


「いつからいるかわかりますか」


「今夜気づきましたが、もっと前からいる気がします」


 晴が二人の会話を聞いて、さりげなく坂本の後ろを見た。何も見えない様子だが、首をわずかに傾けた。気配はわかるのかもしれない。


「なんすか、あれ」晴が囁いた。


「まだわかりません」燈は言った。


---


 坂本が四本目の煙草を深く吸い込んだとき、煙が後ろへ流れた。


 煙が揺らぎに触れた瞬間、揺らぎの輪郭がはっきりした。


 燈には見えた。


 女性だった。年齢は六十代ほど。エプロン姿で、少し猫背。顔は煙で霞んでいるが、柔らかい雰囲気がある。坂本の背中のすぐ後ろに立ち、坂本の肩のあたりをじっと見ていた。触れようとしているのか、ただ眺めているのか——距離が、一定だった。近すぎず、遠すぎず。


 念煙——二層。でも普通の念煙より、ずっと穏やかだ。害意も切迫感もない。ただそこにいる。坂本のそばに、ただいる。


 燈には、すぐにわかった。


*坂本さんの、奥さんだ。*


---


「澪さん」燈は言った。「坂本さんは、ここに来る前から——奥さんを亡くされていますか」


「ええ。十一年前に」


「この店に来るようになったのは」


「奥さんが亡くなってすぐの頃から」


 燈は坂本の後ろを見た。奥さんの煙怪は動かなかった。坂本が話をして、笑って、煙草を吸う、その全てをただ静かに眺めていた。


「どのくらい前からいるか、わかりますか」


「わかりません。でも」澪は少し考えた。「坂本さんがここに来るようになった頃から、この店の空気が変わった感じはしていました。あったかくなった、というか。そのときから、いたのかもしれません」


「十一年」


「ええ」


 燈は湯飲みを持った。


 十一年。坂本がここに来るたびに、奥さんの煙怪も来ていた。坂本がコーヒーを飲んで、煙草を吸って、時々話をして、帰っていく——その全てを、後ろから見ていた。


 消えなかった理由は、九十九の怪談の老人と同じだ。でも違うところがある。


 坂本は奥さんの煙怪が見えていない。知らない。追いかけていない。ただここに来るだけだ。


 それでも奥さんは消えなかった。


*——消えたくなかったのかもしれない。*


 燈はそう思った。


---


「先生」晴が囁いた。「消えさせた方がいいんですか、その人」


 燈は答えなかった。


「なんか、悪いもんじゃない感じがするんですけど。気配が——あったかい感じがして」


「見えるんですか」


「見えないんですけど。なんか温度が高い場所がある」


 澪が二人の会話に割って入った。


「消えさせるって、どうやって」


「煙怪が消えるのは、言えなかった言葉を誰かに届けたときです。あるいは——消えることを、自分で選んだとき」燈は言った。「無理に消す方法もありますが、私はやりません」


「どうするつもりですか」


 燈は坂本を見た。坂本は三杯目のコーヒーを飲みながら、窓の外の夜を眺めていた。その背後に、奥さんの煙怪が静かに立っていた。


 燈には、奥さんの煙怪が何を思っているのかが、薄くわかった。言葉ではない。気配のようなものとして伝わってくる。


 悲しんでいない。


 寂しくもない。


 ただ——見ていたかった。


 夫が笑っているのを。話しているのを。煙草を吸って、コーヒーを飲んで、普通に夜を過ごしているのを。それだけを、見ていたかった。


「今夜は、何もしません」燈は言った。


「何もしない?」


「あの方が消えたくないなら、消えなくていい」


 晴が少し驚いた顔をした。


「先生、そういうこと言うんですね」


「場合によっては」


「なんか今日の先生、ちょっと違う」


「どこが」


「なんか——いつもより、ちょっとだけ柔らかい感じがします」


 燈は答えなかった。


---


 坂本が帰り支度を始めた。


 コートを羽織り、財布を出し、澪にいつもの金額を払う。


「また来ます」


「お待ちしています」


 坂本は立ち上がった。その瞬間、後ろに立っていた奥さんの煙怪が、少し動いた。


 坂本の肩に、触れようとした。


 煙の手が、コートの肩のあたりまで伸びた。でも触れられない。煙だから、すり抜けてしまう。


 坂本はそのとき、少し首を傾けた。


 不思議そうに、肩のあたりを見た。


「なんか、いつも帰るときに肩のあたりが——温かい気がするんですよね」


 澪が一瞬、燈を見た。


「気のせいですかね」坂本は笑った。「歳ですかね」


「気のせいじゃないと思いますよ」


 澪が言った。


 坂本は少し不思議そうな顔をした。それからもう一度笑って、「そうですかね」と言った。嬉しそうな笑い方だった。


 ドアが開き、坂本は出ていった。


 奥さんの煙怪は、坂本がドアから出た後も、しばらくドアの方を見ていた。それから——燈の方を向いた。


 目が合った。


 奥さんの煙怪は、何も言わなかった。ただ目が合って、それから笑ったように見えた。顔が煙で霞んでいて、はっきりとはわからない。でも笑ったように見えた。


 そして、すっと薄くなった。


 消えたのではなかった。ただ薄くなって、店の空気の中に溶けていった。また坂本が来るまで、ここで待つのかもしれない。


 燈は何も言わなかった。


---


 三人が残った店の中で、澪がコーヒーを淹れ直した。


「あの方は消えないんですね、しばらく」澪が言った。


「消えたくないんだと思います」燈は言った。「坂本さんが来るたびに、あの方も来る。それで十分なんじゃないですか」


「悲しい話ですか、それは」


「悲しいかどうか、私にはわかりません」


「俺はなんか」晴がカップを両手で持ちながら言った。「よかったな、て思いました」


「よかった?」


「旦那さんのそばにいられてるから。見えてなくても、知らなくても。いるじゃないですか、ちゃんと」


 燈は晴を見た。


 晴はコーヒーを飲んでいた。難しいことを言っているつもりのない顔で、ただそう思ったから言った、という顔だった。


「あなたはいつも、そういう言い方をしますね」


「そういう言い方、て」


「難しくせずに、核心を言う」


 晴は首を傾けた。


「先生に言われると照れますね」


「褒めていません」


「でも褒めてましたよね」


「褒めていません」


 澪がくすりと笑った。


---


 深夜、燈は一人でクリニックに戻った。


 事務机に座り、手帳を開いた。今夜の記録をつける。


*——「澪標」常連客の一人に、念煙が付随している。存在期間は推定十年以上。消えないのは害意や未練からではなく、純粋に「そこにいたい」という意思と思われる。害はない。介入せず、経過観察とする。*


 ペンを置いた。


 窓の外に、夜が広がっていた。


 燈は父の手帳を引き出しから出した。今夜こそ読もうと思った。でもまた、開けなかった。


 ただ表紙を撫でた。


 坂本の奥さんが、十一年間ただそこにいた話を思った。触れることができなくても。届けるべき言葉がなくても。ただ、そこにいたかった。


 燈は手帳を引き出しに戻した。


 コーヒーを淹れた。今日八杯目だ。


 飲みながら、窓の外の夜を見た。


 どこかで煙草の煙が一筋、街灯の光の中を流れていった。誰かが深夜に一人で吸っている。その煙に何かがいるかどうか、この距離ではわからない。


 燈はただそれを、見ていた。


 介入しない。届けない。ただ見ている。


 今夜は、それでいい気がした。


---


 翌朝、クリニックを開けると、入口のドアマットの上に煙草が一本だけ置いてあった。


 燈の知らない銘柄だった。包装の文字が読めないほど古く、色褪せていた。火をつけた形跡はない。


 誰が置いたのか、わからなかった。


 燈はしばらくそれを見て、それから白衣のポケットに入れた。捨てる気にはなれなかった。


 田中さんが来て「おはようございます」と言った。


「田中さん、この煙草に見覚えはありますか」


 田中さんはポケットから出された色褪せた煙草を見て、「昭和のものじゃないですか、これ」と言った。


「どこから来たのか、わかりますか」


「さあ——」


 田中さんは首を傾けた。それ以上わからなかった。


 燈はポケットに戻した。


 今日の最初の患者は九時からだった。カルテを確認しながら、燈はふと昨夜の澪の言葉を思い出した。


*——坂本さんがここに来るようになった頃から、この店の空気があったかくなった感じはしていました。*


 十一年。奥さんは十一年、夫のそばにいた。


 燈の父が失踪したのは、二十年前だ。


 二十年間、父の煙怪はどこにいたのか。


 あるいは——父は、まだどこかにいるのか。


 燈はポケットの中の煙草に触れた。


 わからなかった。でも今日は、少しだけ、知りたいという気持ちが昨日より大きかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ