第四話「澪標の夜」
喫茶店「澪標」には、七人の常連がいる。
澪はそれを「七人衆」と呼んでいた。本人たちは知らない。ただ澪の中で、この七人は特別な位置にある。週に何度も来る人、月に一度だけ来る人、季節が変わるたびに現れる人。来るペースは違っても、みんなこの店が必要で来ている——澪にはそれがわかる。
七人の中で最も長い常連は、坂本という六十代の男だった。
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坂本が最初に店に来たのは、十一年前だ。
妻に先立たれた直後だったと、後から聞いた。その夜は雨で、びしょ濡れのまま入ってきて、コーヒーを頼んで、何も言わずに三時間座っていた。帰り際に「また来ます」と言った。次の日も来た。その次の日も来た。
以来、坂本は週に四日、決まって夕方の六時から八時の間に来る。カウンターの一番端の席が定位置だ。コーヒーを二杯飲んで、煙草を三本吸って、帰る。話す日と話さない日がある。澪は坂本が話したい日かどうかを、入ってきた瞬間にわかるようになっていた。
坂本は今夜、話したい日だった。
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「澪さん」
坂本はコーヒーの二杯目を待ちながら言った。
「うちの家内のことなんですがね」
「はい」
「最近、夢をよく見るんですよ。家内の夢」
澪はコーヒーを淹れながら聞いた。
「それは珍しいことですか」
「いや、よく見てたんですよ最初の頃は。でも最近はめっきり見なくなっていて、それがここ一週間でまた見るようになって」
「どんな夢ですか」
「特に何もない夢なんです。家内がそこにいる。台所で何か作ってる。俺が声をかけようとすると目が覚める」
澪はカップを出した。
「悪い夢ではないですね」
「悪くはないんですが」坂本は少し考えた。「なんか、胸のあたりがもやもやして。懐かしいんだか、悲しいんだか、嬉しいんだか、よくわからない感じで目が覚めるんですよ」
「それは——」
澪は言いかけて、止まった。
坂本の背後に、何かがあった。
カウンターの端、坂本の定位置の少し後ろ。そこに、薄い煙のような揺らぎがあった。煙草の煙ではない。坂本はまだ今夜の一本目を吸っていない。では何の煙か。
揺らぎは人の形に近かった。しかしはっきりとした輪郭はなく、ただそこに「何かの気配の濃い場所」がある——そういう見え方をした。
澪は目を細めた。
最近、こういうものが少し見えるようになっていた。燈に話してはいない。見えるといっても輪郭程度で、燈のように詳しくはわからない。ただ——この揺らぎは、いつからそこにあったのか。
今夜初めて気づいたが、もしかしたらずっとあったのかもしれない、と澪は思った。
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その夜、閉店間際に燈が来た。
珍しく晴も一緒だった。二人で並んでカウンターに座り、見た目は仲のいい姉と弟のようだったが、当人たちはそういう認識はないらしく、座り方に微妙な距離があった。
「今日は二人で」澪は言った。
「たまたまです」燈が言った。
「クリニックの近くで仕事してたら先生とかち合っただけっす」晴が言った。
同じことを別々に説明した。澪は何も言わずにコーヒーを二つ淹れた。
坂本はまだいた。今夜は話したいことが多い日らしく、三杯目のコーヒーを頼んでいた。煙草も四本目に入っていた。澪は心配したが、今日だけ、という顔をしていたので黙っていた。
坂本が煙草に火をつけた瞬間——燈が止まった。
コーヒーカップを口元まで持ち上げたまま、動かなくなった。視線が、坂本の後ろへ向いていた。
澪は燈を見た。燈は澪の視線に気づいて、カップを静かに置いた。
「澪さん」燈は小声で言った。「坂本さんの後ろ、見えていますか」
澪は少し驚いた。
「少しだけ。最近見えるようになって、あなたに言おうか迷っていたんですが」
「いつからいるかわかりますか」
「今夜気づきましたが、もっと前からいる気がします」
晴が二人の会話を聞いて、さりげなく坂本の後ろを見た。何も見えない様子だが、首をわずかに傾けた。気配はわかるのかもしれない。
「なんすか、あれ」晴が囁いた。
「まだわかりません」燈は言った。
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坂本が四本目の煙草を深く吸い込んだとき、煙が後ろへ流れた。
煙が揺らぎに触れた瞬間、揺らぎの輪郭がはっきりした。
燈には見えた。
女性だった。年齢は六十代ほど。エプロン姿で、少し猫背。顔は煙で霞んでいるが、柔らかい雰囲気がある。坂本の背中のすぐ後ろに立ち、坂本の肩のあたりをじっと見ていた。触れようとしているのか、ただ眺めているのか——距離が、一定だった。近すぎず、遠すぎず。
念煙——二層。でも普通の念煙より、ずっと穏やかだ。害意も切迫感もない。ただそこにいる。坂本のそばに、ただいる。
燈には、すぐにわかった。
*坂本さんの、奥さんだ。*
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「澪さん」燈は言った。「坂本さんは、ここに来る前から——奥さんを亡くされていますか」
「ええ。十一年前に」
「この店に来るようになったのは」
「奥さんが亡くなってすぐの頃から」
燈は坂本の後ろを見た。奥さんの煙怪は動かなかった。坂本が話をして、笑って、煙草を吸う、その全てをただ静かに眺めていた。
「どのくらい前からいるか、わかりますか」
「わかりません。でも」澪は少し考えた。「坂本さんがここに来るようになった頃から、この店の空気が変わった感じはしていました。あったかくなった、というか。そのときから、いたのかもしれません」
「十一年」
「ええ」
燈は湯飲みを持った。
十一年。坂本がここに来るたびに、奥さんの煙怪も来ていた。坂本がコーヒーを飲んで、煙草を吸って、時々話をして、帰っていく——その全てを、後ろから見ていた。
消えなかった理由は、九十九の怪談の老人と同じだ。でも違うところがある。
坂本は奥さんの煙怪が見えていない。知らない。追いかけていない。ただここに来るだけだ。
それでも奥さんは消えなかった。
*——消えたくなかったのかもしれない。*
燈はそう思った。
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「先生」晴が囁いた。「消えさせた方がいいんですか、その人」
燈は答えなかった。
「なんか、悪いもんじゃない感じがするんですけど。気配が——あったかい感じがして」
「見えるんですか」
「見えないんですけど。なんか温度が高い場所がある」
澪が二人の会話に割って入った。
「消えさせるって、どうやって」
「煙怪が消えるのは、言えなかった言葉を誰かに届けたときです。あるいは——消えることを、自分で選んだとき」燈は言った。「無理に消す方法もありますが、私はやりません」
「どうするつもりですか」
燈は坂本を見た。坂本は三杯目のコーヒーを飲みながら、窓の外の夜を眺めていた。その背後に、奥さんの煙怪が静かに立っていた。
燈には、奥さんの煙怪が何を思っているのかが、薄くわかった。言葉ではない。気配のようなものとして伝わってくる。
悲しんでいない。
寂しくもない。
ただ——見ていたかった。
夫が笑っているのを。話しているのを。煙草を吸って、コーヒーを飲んで、普通に夜を過ごしているのを。それだけを、見ていたかった。
「今夜は、何もしません」燈は言った。
「何もしない?」
「あの方が消えたくないなら、消えなくていい」
晴が少し驚いた顔をした。
「先生、そういうこと言うんですね」
「場合によっては」
「なんか今日の先生、ちょっと違う」
「どこが」
「なんか——いつもより、ちょっとだけ柔らかい感じがします」
燈は答えなかった。
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坂本が帰り支度を始めた。
コートを羽織り、財布を出し、澪にいつもの金額を払う。
「また来ます」
「お待ちしています」
坂本は立ち上がった。その瞬間、後ろに立っていた奥さんの煙怪が、少し動いた。
坂本の肩に、触れようとした。
煙の手が、コートの肩のあたりまで伸びた。でも触れられない。煙だから、すり抜けてしまう。
坂本はそのとき、少し首を傾けた。
不思議そうに、肩のあたりを見た。
「なんか、いつも帰るときに肩のあたりが——温かい気がするんですよね」
澪が一瞬、燈を見た。
「気のせいですかね」坂本は笑った。「歳ですかね」
「気のせいじゃないと思いますよ」
澪が言った。
坂本は少し不思議そうな顔をした。それからもう一度笑って、「そうですかね」と言った。嬉しそうな笑い方だった。
ドアが開き、坂本は出ていった。
奥さんの煙怪は、坂本がドアから出た後も、しばらくドアの方を見ていた。それから——燈の方を向いた。
目が合った。
奥さんの煙怪は、何も言わなかった。ただ目が合って、それから笑ったように見えた。顔が煙で霞んでいて、はっきりとはわからない。でも笑ったように見えた。
そして、すっと薄くなった。
消えたのではなかった。ただ薄くなって、店の空気の中に溶けていった。また坂本が来るまで、ここで待つのかもしれない。
燈は何も言わなかった。
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三人が残った店の中で、澪がコーヒーを淹れ直した。
「あの方は消えないんですね、しばらく」澪が言った。
「消えたくないんだと思います」燈は言った。「坂本さんが来るたびに、あの方も来る。それで十分なんじゃないですか」
「悲しい話ですか、それは」
「悲しいかどうか、私にはわかりません」
「俺はなんか」晴がカップを両手で持ちながら言った。「よかったな、て思いました」
「よかった?」
「旦那さんのそばにいられてるから。見えてなくても、知らなくても。いるじゃないですか、ちゃんと」
燈は晴を見た。
晴はコーヒーを飲んでいた。難しいことを言っているつもりのない顔で、ただそう思ったから言った、という顔だった。
「あなたはいつも、そういう言い方をしますね」
「そういう言い方、て」
「難しくせずに、核心を言う」
晴は首を傾けた。
「先生に言われると照れますね」
「褒めていません」
「でも褒めてましたよね」
「褒めていません」
澪がくすりと笑った。
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深夜、燈は一人でクリニックに戻った。
事務机に座り、手帳を開いた。今夜の記録をつける。
*——「澪標」常連客の一人に、念煙が付随している。存在期間は推定十年以上。消えないのは害意や未練からではなく、純粋に「そこにいたい」という意思と思われる。害はない。介入せず、経過観察とする。*
ペンを置いた。
窓の外に、夜が広がっていた。
燈は父の手帳を引き出しから出した。今夜こそ読もうと思った。でもまた、開けなかった。
ただ表紙を撫でた。
坂本の奥さんが、十一年間ただそこにいた話を思った。触れることができなくても。届けるべき言葉がなくても。ただ、そこにいたかった。
燈は手帳を引き出しに戻した。
コーヒーを淹れた。今日八杯目だ。
飲みながら、窓の外の夜を見た。
どこかで煙草の煙が一筋、街灯の光の中を流れていった。誰かが深夜に一人で吸っている。その煙に何かがいるかどうか、この距離ではわからない。
燈はただそれを、見ていた。
介入しない。届けない。ただ見ている。
今夜は、それでいい気がした。
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翌朝、クリニックを開けると、入口のドアマットの上に煙草が一本だけ置いてあった。
燈の知らない銘柄だった。包装の文字が読めないほど古く、色褪せていた。火をつけた形跡はない。
誰が置いたのか、わからなかった。
燈はしばらくそれを見て、それから白衣のポケットに入れた。捨てる気にはなれなかった。
田中さんが来て「おはようございます」と言った。
「田中さん、この煙草に見覚えはありますか」
田中さんはポケットから出された色褪せた煙草を見て、「昭和のものじゃないですか、これ」と言った。
「どこから来たのか、わかりますか」
「さあ——」
田中さんは首を傾けた。それ以上わからなかった。
燈はポケットに戻した。
今日の最初の患者は九時からだった。カルテを確認しながら、燈はふと昨夜の澪の言葉を思い出した。
*——坂本さんがここに来るようになった頃から、この店の空気があったかくなった感じはしていました。*
十一年。奥さんは十一年、夫のそばにいた。
燈の父が失踪したのは、二十年前だ。
二十年間、父の煙怪はどこにいたのか。
あるいは——父は、まだどこかにいるのか。
燈はポケットの中の煙草に触れた。
わからなかった。でも今日は、少しだけ、知りたいという気持ちが昨日より大きかった。




