第三話「煙草の怪談」
灰島煙草店の暖簾をくぐると、いつも時間が少し遅くなる気がした。
店内は狭い。ガラスケースに並んだ煙草の箱、壁に貼られた古い銘柄のポスター、カウンターの隅に積まれた煙管のパーツ。すべてが燈の生まれる前から、そこにあったような顔をしている。空気まで古い。煙草の匂いと、木の匂いと、古い紙の匂いが混じり合った、独特の静けさがある。
「いらっしゃい」と九十九は言った。
カウンターの奥で、何かの帳簿を見ていた老人が顔を上げた。よれた前掛け、薄くなった白髪、細い目。笑っているのか、ただ目を細めているだけなのか、いつもわからない。
「先生が来るとは珍しい。煙草でも始めましたか」
「そんなわけがありません」
「そうですか。茶でも」
聞き方が疑問形ではない。燈が答える前に九十九は奥へ引っ込み、しばらくして茶の入った湯飲みを二つ持って戻ってきた。
カウンターに座った燈に、一つを差し出す。
「患者さんのことで少し聞きたいことがあって」
「個人情報の話は困りますよ」
「患者の話ではなく、煙怪の話です」
九十九は湯飲みを両手で包んだ。
「ほう」
「子どもの煙怪が出ました。繰り返し、同じ患者の煙に。念煙の段階だと思うのですが、出る頻度が少し多い気がして」
「同じ人間の煙に繰り返し出るということは、その煙怪はその人間と何か縁がある」
「そうは思うのですが、正体がわからなくて」
九十九は少し考えるように湯飲みを見た。
「子どもの煙怪というのは、珍しくもないが、そう多くもない」
「なぜですか」
「子どもは大人より、吐き出せなかったものが少ないから。未練や後悔を積み重ねるには、それなりの時間がいる」
「では子どもの煙怪が生まれるとしたら」
「突然、理不尽に逝った場合」九十九は言った。「時間が足りないまま消えていかなければならなかった場合。そういうときは、言えなかった言葉が一言だけ残る。大人の煙怪より、言葉が少ない。でも少ない分だけ、重い」
タバコ、やめて。
燈は湯飲みを持ったまま、その言葉を思い出した。
「何か言いましたか、その子どもの煙怪は」
「ええ」
「同じ言葉を、毎回」
「そうです」
九十九は頷いた。「それは成仏まで時間がかかる。一言の言葉を、届けるべき相手に届けるまで、繰り返す」
「届けるべき相手が誰かわからない場合は」
「届くまで、繰り返す」
それだけ言って九十九は茶を飲んだ。燈も倣って一口飲んだ。少し渋くて、でも嫌いではない味だった。
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それから二人は、しばらく黙っていた。
灰島煙草店の静けさは、外の音を遮断している。商店街の喧騒が、ここまでは届かない。煙草と木と古い紙の匂いの中で、沈黙が自然に存在していた。
燈が聞いた。
「煙怪について、何か話してもらえますか。知識として」
「知識として、ですか」
「あなたは私より長く、煙怪と関わっている。私が知らないことを、あなたは知っている」
九十九は少し笑った。少し、というのが正確で、口の端が僅かに動いただけだ。
「怪談でよければ」
「なんでも」
「怪談というのはね」九十九は言った。「話すたびに少し変わる。盛られたり、削られたり、語り手の都合で形が変わる。でも煙怪の話だけは、変わらない。煙怪は形を変えないから」
「どういう意味ですか」
「聞けばわかります」
九十九は湯飲みを置き、前掛けの紐を少し直してから、話し始めた。
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「ずいぶん昔の話です。私がまだ研究者だった頃——といっても、もうそんな肩書きは捨てましたが——煙怪の発生が著しく多い場所がありました。山間の小さな村です」
燈は黙って聞いた。
「その村では、煙草の栽培が盛んでした。畑一面に煙草の葉。収穫期には村中が煙草の匂いに包まれる。当然、煙怪の濃度も高い。私は調査のために、その村に滞在しました」
「どのような煙怪が出ましたか」
「様々です。畑に出る煙怪、蔵に出る煙怪、辻に出る煙怪。でも村人は誰も怖がっていなかった。彼らにとって煙怪は——」九十九は少し間を置いた。「先祖だったんです」
「先祖」
「その村では、人が死ぬと煙草を一本吸わせてから棺に入れる風習がありました。死者の最後の息を煙草の煙に混ぜて、空へ送り出す。その煙が、しばらくの間は村のそばをさまよう。それが煙怪です。村人たちはそれを知っていて、畑や辻で煙怪を見かけると、手を合わせていた」
燈は少し考えた。
「それは美しい習慣ですね」
「ええ。でも問題がありました」
九十九の声が、わずかに低くなった。
「その村に、一人だけ変わった老人がいました。その老人は、死んだ妻の煙怪をずっと追いかけていた。村中で見かけるたびに声をかけ、触れようとし、一日中畑や山を歩き回っていた」
「触れることはできたのですか」
「煙怪に触れることは、できません。煙ですから。でも老人は何十年も追いかけ続けた。妻が死んでから、自分が死ぬまでの間、ずっと」
「……妻の煙怪は、消えなかったのですか」
「消えませんでした」九十九は静かに言った。「老人が追いかけ続ける限り、妻の煙怪は消えられなかった。誰かが自分を必要としている限り、煙怪は消えることができない。老人が死んで初めて、妻の煙怪は消えることができたそうです」
静寂があった。
燈はその話の意味を、ゆっくりと自分の中に降ろしていった。
「老人は、妻を引き留めていたんですか。意図せずに」
「愛情と支配は、紙一重です」九十九は言った。「離したくないと思う気持ちは、相手を縛ることがある。煙怪に限らず」
燈は何も言わなかった。
「これが一つ目の話です」
「一つ目、ということは」
「怪談というのは、続くものですから」
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九十九はもう一杯茶を淹れてきた。
燈は待ちながら、店の壁を見た。古い煙草のポスターが何枚か貼ってある。昭和のデザインのもの、平成初期のもの、その間にどこの時代かわからないものが一枚。
九十九が戻ってきた。
「二つ目の話は、もう少し古い話です。私が直接知っているわけではない。師匠から聞いた話です」
「あなたに師匠がいたのですか」
「研究者には師匠がいます」九十九は当然のように言った。「私の師匠は煙草屋でした。この店の先代です」
燈は店内を見回した。
「この店は、そういう人間が代々やってきた場所ですか」
「そういう人間が、たまたま煙草屋になることが多かっただけです。煙怪を見るには、煙草の側にいるのが手っ取り早いので」
「合理的ですね」
「先代の師匠が若い頃の話です。その頃、煙草は今より生活に近いものでした。祭りの夜、縁側、田畑の休憩時間——どこにでも煙草があった。当然、煙怪も今より多かった」
九十九は話を続けた。
「ある秋の夜、師匠は祭りの帰り道で一人の男に出会いました。男は辻に立って煙草を吸っていた。師匠は煙怪が見えたので、男の煙に何かいないか確認しようとした。ところが——」
九十九が話を止めた。
燈は気づいた。
店内の空気が、変わっていた。
煙草の匂いが、少し濃くなっていた。九十九の話を始める前と、明らかに違う。火がついている煙草はないのに、煙の気配がある。燈は鼻ではなく、皮膚で感じていた。産毛が、微かに立つような感覚。
「九十九さん」
「聞こえていますか」
「はい、でも——」
「聞こえていますか」
九十九が繰り返した。
燈はよく見た。九十九の口が動いているが、声と口の動きが、少しずれていた。まるで、声だけが先に来ているような。
燈は椅子から少し身を引いた。
煙が来ていた。どこからかはわからない。店の奥から、壁の隙間から、古い木材の中から滲み出るように、薄い煙の気配が満ちていた。
燈は煙の中を見た。
何かが、いた。
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人の形ではなかった。
煙の中に、文字が浮かんでいた。
筆で書いたような、古い字体の文字。びっしりと煙の中に並んでいる。読もうとすると、視線を合わせた文字から順に消えていく。読ませないようにしているのか、それとも見られることで消えていく性質なのか。
九十九は話を続けていた。目の前で何かが起きているのに、九十九は気づいていないように見えた。
*——気づいていないのではなく、これが話の一部なのかもしれない。*
燈は冷静にそう考えた。
文字が動いていた。煙の中を流れるように、文字の群れが移動する。燈の方へ近づいてくる。何かを伝えようとしているのか、それとも——
「先生」
九十九が言った。今度は声と口の動きが一致していた。
九十九は燈をまっすぐ見ていた。
「見えていますか」
「見えています」
「読めますか」
燈は煙の文字を見た。読もうとすると消える。でも消えた後の空白の形が、文字の形を残している。消えた跡を読む——
燈は息を呑んだ。
消えた文字の跡が残している形。それはひとつの文だった。
*——ここに来てはいけなかった。*
「九十九さん」
「読めましたか」
「これは」
「二つ目の話の続きです」九十九は静かに言った。「師匠が辻で出会った男の煙草の煙に、文字が浮かんでいた。読もうとすると消える。でも師匠は消えた跡を読むことができた。そしてその文字が何を言っていたかというと——」
九十九は一拍置いた。
「——お前は正しい場所にいる。」
燈は九十九を見た。
「さっきのと、違います。私が見た文字は『ここに来てはいけなかった』でした」
「そうですか」
九十九は驚いた様子がなかった。
「語り手によって、見えるものが変わる」
「どういうことですか」
「その怪異はね」九十九は言った。「話の中にいる。私がこの怪談を語るとき、怪異も一緒に来る。そして聞いている人間の、心の状態を映し出す。師匠には『正しい場所にいる』と見えた。あなたには——」
煙がすっと薄くなった。文字は全て消えていた。
「『ここに来てはいけなかった』と見えた」
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沈黙があった。
燈は湯飲みを見た。茶の表面が静かに揺れていた。
「私が、来てはいけなかったということですか。この店に」
「怪異がそう言っているだけです。意味は自分で考えるものです」
「あなたはどう思いますか」
「私は語り手なので、怪異の外にいます。見えない」九十九は言った。「でもあなたが今、何かを恐れているとしたら——知ることを、恐れているんじゃないですか」
燈は答えなかった。
「私に会いに来たのは、煙怪の知識のためだけじゃないでしょう。父親のことを聞きたかった。でも聞けなかった。聞く前に怪異が現れたから、それを言い訳にして帰れると思った」
「……そんなことは」
「眉が動いています」
燈は眉を意識した。動いていた。
九十九は静かに笑った。今度ははっきりと、目の端に皺が寄るくらい笑った。
「急ぐことはない」
いつもの言葉だった。
「煙は、逃げやしない」
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燈は店を出た。
商店街の夕暮れが、橙色に街を染めていた。人が行き交い、どこかの惣菜屋から揚げ物の匂いが流れてくる。灰島煙草店の中の時間と、外の時間が違いすぎて、燈はしばらくその場に立ち尽くした。
父のことを聞けなかった。
九十九の言う通りだった。知識を口実にして来て、本当に聞きたいことを言い出せなかった。怪異が現れたことで、それが曖昧になった。
よかったと思っていた。
それが——怪異の答えだったのかもしれない。
燈はバッグの中を探った。父の手帳を持ち歩いていることに、今更気づいた。出かけるときに無意識に入れていた。
取り出して、表紙を見た。「霧島 要 観察録」
開かなかった。
また今度、と思いながら、バッグに戻した。
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その夜、澪の店に寄ると、晴がカウンターで澪と話していた。
「なんで来てるんですか」
燈が言うと、晴は振り返って「いやあ」と頭を掻いた。
「先生のクリニックの近くで仕事してて、終わったらなんか引き寄せられてここに来てたんですよね」
「引き寄せられた、という表現が気になります」
「僕はよく来るんですよ、晴くん」澪が言った。「居心地がいいって言って」
「煙草吸えるし、澪さん話聞いてくれるし、いい店じゃないですか」
「禁煙外来の患者がここで煙草を吸っていていいんですか」
「一日三本以内ならいいって言ったのは先生ですよ」
燈は反論できなかった。段階的減煙のステップとして、そう言ったのは確かだった。
澪がコーヒーを三つ並べた。
「灰島さんのところへ行ってきたんですか」
「怪談を聞いてきました」
「怪談」晴が身を乗り出した。「どんな」
燈は少し考えた。話してもいいことと、そうでないことがある。でも今夜の怪談は——なぜか、話してもいい気がした。
「煙の中に文字が浮かぶ怪異の話です。読もうとすると消える。でも消えた跡を読むと、その人間の心の状態が言葉になって出てくる」
「こわ」晴が言った。「先生は何て出たんすか」
「……関係ありません」
「絶対関係ある」
「晴くん」澪が止めた。
晴は大人しくコーヒーを飲んだ。それからぽつりと言った。
「俺に出たら、何て書いてあるんすかね」
燈は答えなかった。
澪は何も言わずに、グラスを拭いていた。
三人分のコーヒーの湯気が立ち上り、天井へ向かって、ゆっくりと消えていった。
その煙の中に、燈は何も見なかった。
今夜は、何も見たくなかった。




