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禁煙外来の女医は、煙草の煙に宿る怪異を見届ける  作者: にせもん


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第二話「他人の煙草」



 梅雨というのは、煙怪の季節だと燈は思っている。


 湿気を含んだ空気は煙を遠くへ散らさず、その場にとどめておく。煙が濃くなるほど、煙怪も濃くなる。六月の夜は特に、どこへ行っても怪異の気配が滲んでいた。


 燈がその喫煙所を通り過ぎたのは、偶然だった。


 夜の九時過ぎ。澪の店でコーヒーを飲んで、クリニックへ戻る途中だった。商店街の外れ、古いビルの壁際に設置された屋外の喫煙スペース。灰皿が一つと、申し訳程度の屋根。昼間はスーツ姿の会社員が何人か使っているのを見かける場所だ。


 この時間に、人がいた。


 紺色のワンピースを着た女が、喫煙所の中に立っていた。


 煙草を持っている。


 火がついていない。


---


 燈は足を止めた。


 女の年齢は三十代に見えた。きれいに整えた髪、落ち着いた服装。夜の喫煙所に一人でいる雰囲気ではない。燈が足を止めたことに気づいていないのか、女はただまっすぐ前を向いたまま、火のついていない煙草を持ち続けていた。


 足元から、少し様子がおかしかった。


 ワンピースの裾が——溶けていた。


 正確には、裾の端が煙のように霞んでいる。輪郭がほどけて、地面に溶けていくように、静止している。


 燈は一呼吸置いた。


 見えている。煙怪だ。


 念煙——二層。感情の断片を持ち、人に触れようとする段階。ただし害意はなさそうだ。女の気配は穏やかで、むしろどこか疲れたような静けさがあった。


 燈は喫煙所に近づいた。


 灰皿の前で立ち止まり、女を見る。


 女はゆっくりとこちらを向いた。表情がある。笑顔だ。ただし笑顔になるのが、少し遅い——口角が上がるまでに、半秒ほどかかる。まるで笑い方を思い出しながら笑っているような、そういう微妙なずれがあった。


「あの」


 燈は言った。


「火、いりますか」


---


 女は動かなかった。


 三秒ほど、燈の顔を見ていた。それから、ゆっくりと頷いた。


 燈はバッグの中を探った。ライターを持ち歩く習慣はない。煙草も吸わない。しかし燈のバッグの中には、いつからか使い捨てのライターが入っていた。怪異と関わるようになってから、いつの間にか入れるようになっていた。


 火をつけた。


 女が煙草を近づける。火が移った。


 女は煙草を口元に運び、深く吸い込んだ。煙が立ち上った。


 燈はその煙を、じっと見た。


 煙の中に何かが浮かぶ——海岸の風景だった。夏の、どこかの海岸。砂浜に二人分の足跡。それだけが一瞬見えて、すぐに消えた。


「ありがとうございます」


 女が言った。声があった。か細いが、確かにある。


「ずっと待っていたんです」


「火を、ですか」


「ええ」


 女は煙を吐き出した。煙草の先が赤く光る。


「ここで、火を貸してくれる人を」


---


 燈は黙って聞いていた。


 女が話し始めた。声は静かで、感情の起伏がほとんどない。波のない水面のような、平たい声だった。


「婚約していた人がいたんです。式の三ヶ月前でした」


 燈はカルテも手帳も持っていない。ただ夜の喫煙所に立っていた。


「二人とも煙草を吸っていたので、よく一緒に吸いながら話していました。くだらない話ばかり。夕飯のこととか、どこへ旅行に行くかとか」


「その方は今」


「どこかで元気にしていると思います」


 女は少し間を置いた。


「私が先に逝ったので」


 やはりそうか、と燈は思った。


「事故でした。突然だったので、やり残したことばかりで」


「その中に、煙草がありましたか」


「最後に一緒に吸おうって、約束していたんです」


 女は煙草を見た。燈には見えなかった夏の海岸が、もう一度女の目に映っているように見えた。


「式の前日の夜に、二人でここで吸おうって。ここは私たちがよく来ていた喫煙所で。でも式の前日が来る前に、私が——」


 言葉が途切れた。


 女は続けた。


「彼は式の後、煙草をやめたそうです。誰かに聞きました」


「そうですか」


「だから彼は、もう火を貸してくれない」


 燈は何も言わなかった。


「ここで待っていれば、いつか誰かが火を貸してくれると思っていました。そうしたら、あの夜が——あの夜、二人で吸うはずだった夜が、少しだけ、あったことになると思って」


---


 煙草の火が、半分ほどまで燃えた。


 女は静かに吸い続けた。燈は横に立って、何も言わなかった。


 喫煙所の外を、傘を持った人が通り過ぎた。その人には女が見えていないようで、燈が一人で喫煙所に立っているように見えただろう。


「あなたは」女が言った。「煙草を吸わないのですか」


「吸いません」


「でもライターを持っている」


「必要なときがあるので」


 女は少し考えるように間を置いた。


「煙の中に何かが見えるんですか」


 燈は答えなかった。


「そういう方が、たまにいる気がします。私のことが見えている人が。でもみんな、怖がって逃げていく。あなたは逃げなかった」


「逃げても仕方がない」


「慣れているんですか」


「慣れてはいません」燈は正直に言った。「ただ、逃げると後悔するので」


 女はそれを聞いて、今度はずれのない笑顔を浮かべた。自然な、温かい笑顔だ。


「そうですね」


---


 煙草がほとんど燃え尽きた。


 吸い殻が短くなる。女の輪郭が、少しずつ薄くなり始めた。足元の霞が膝まで上がってきた。


「ひとつ、お願いしてもいいですか」


 女が言った。


「彼に伝えることはできませんが」


「はい」


「ありがとう、と——誰かに言いたかった。彼に言いたかった。間に合わなかったので、あなたに言わせてください」


 燈は頷いた。


「ありがとう」


 女は言った。


 煙草が燃え尽きた。


 その瞬間、女の輪郭が一気にほどけた。足元から、膝から、胸から、肩から——紺色のワンピースが煙に変わっていく。笑顔が最後まで残って、それからその笑顔も煙に溶けた。


 後に残ったのは、灰皿の上の吸い殻一本だけだった。


 燈は灰皿を見た。


 吸い殻は普通の吸い殻だった。でも燈には、それが普通の吸い殻でないことがわかった。この吸い殻に火をつけても、煙怪は出ない。そういうものに見えた。何かが完結した後の、空っぽで静かな残骸。


 燈はそっと、吸い殻に触れた。


 まだ微かに温かかった。


---


 澪の店に引き返したのは、十時を回った頃だった。


 「澪標」はその時間、常連が一人二人残っているだけで、静かだった。カウンターの奥で澪が拭きものをしていた。燈が入ってきたのを見て、何も聞かずにコーヒーを淹れ始めた。


 燈はカウンターに座った。


「また何かありましたか」


 澪は聞いた。聞き方が上手い。「何かあったんですか」ではなく「また何かありましたか」という聞き方が。燈に「いつものこと」として話せる余地を作ってくれる。


「喫煙所の女性でした」


「成仏できましたか」


「そういう言い方は正確ではないけれど——消えていきました。自分で望んで」


「それはよかった」


 コーヒーが来た。燈は両手で包んだ。


「ありがとうと言いたかっただけだったんです、その人は」


「言えましたか」


「私に言いました」


 澪は少し黙った。それから言った。


「あなたが受け取ったんですね」


 燈は何も言わなかった。コーヒーを一口飲んだ。苦かった。


「受け取れるって、大事なことだと思いますよ」


「私は医者です。治すのが仕事で——」


「治す必要がない相手もいるでしょう」


 燈は澪を見た。


 澪は何でもないような顔で、グラスを拭いていた。


「消えていく人の言葉を、受け取れる人がいる。それだけで救われるものが、この世にはたくさんあると思います。煙怪に限らず」


 燈はコーヒーの水面を見た。揺れて、静まって、また揺れた。


「……そうかもしれません」


「そうですよ」


 澪は断言した。それ以上は何も言わなかった。


---


 帰り際、燈はふと気づいた。


 澪の店のカウンターの端に、小さな灰皿が置いてある。喫煙可の店なので当然だが——その灰皿の中に、吸い殻が一本だけあった。


 澪は煙草を吸わない。


 いつからそこにあったのか。誰が吸ったのか。燈は聞かなかった。


 ただ、その吸い殻が喫煙所の女が残したものと、同じ温度に見えた。


 気のせいかもしれない。


 燈はそう思いながら、夜の商店街へ出た。雨はもう上がっていた。濡れたアスファルトが街灯を反射して、足元に光が広がっていた。


 どこかで煙草の煙が流れてきた。


 燈は立ち止まらずに、歩き続けた。


 今夜の煙には、何も見えなかった。


 それでよかった、と思いながら。


---


 翌日。


 クリニックに来た瀬川晴は、問診票に書くことを間違えたらしく、受付の田中さんと揉めていた。


「いや、職業欄にフリーランスって書いたら、具体的に何のフリーランスか書けって言われたんですけど」


「医療事務的に必要なんですよ」


「でもなんかざっくりしてるんですよね俺の仕事、デザインっちゃデザインなんすけど」


「グラフィックデザイナーでいいじゃないですか」


「ちょっと違うんですよね」


 燈は診察室から二人のやり取りを聞きながら、カルテを開いた。


 晴の欄に、昨夜のことを書くかどうか迷った。


 書かなかった。


 煙怪のことはカルテには書けない。燈には燈の手帳があり、家に帰ってからそちらに記録する。それが長年のやり方だった。


 ドアが開いて、晴が入ってきた。


「先生おはようございます、ていうか昼ですね」


「座ってください。先週より早く来ましたね」


「一応、やる気はあるんで」


 晴は椅子に座り、少し真面目な顔をした。


「先週の帰り道、もう一本吸いそうになって。でもやめました」


「理由は」


「なんか、あの後に吸う気になれなくて」


 燈はペンを止めた。


「煙草吸ったとき、ちっちゃい子の気配がしたじゃないですか。あの後からなんか、吸うたびにそれを思い出してしまって」


「気配がわかるんですか」


「見えないんですけど、なんか——温度みたいなのが変わる気がするんですよね。人がそこにいる感じっていうか。子供の頃からそういうのは薄っすらわかって、でもなんもないことが多いんで気のせいだと思ってたんですけど」


 燈は晴を見た。


 やはりこの青年は普通ではない。怪異に好かれるのは体質だけではなく、こういう微かな知覚力もあってのことだろう。


「昨日も何かありましたか」燈は聞いた。「煙草を吸うときに」


「昨日は——あ、夜に一本吸ったとき、なんかあったかもしれないっす」


「どういう感じですか」


「ちょっと、暖かい風が通ったような」晴は首を傾げた。「なんか、ありがとうって言われた気がしたんですよね。でも誰もいないし」


 燈は視線をカルテに落とした。


 喫煙所の女は誰に向けた「ありがとう」を持っていたのか。婚約者に。燈に。そして——晴にも、向けていたのかもしれなかった。あの喫煙所の常連の誰かが晴だった可能性も、ある。


「先生、やっぱり昨日も何かあったんすか」


「どうして」


「眉が動いたんで」


 燈は眉を意識して止めた。


「気のせいです」


「絶対気のせいじゃないやつだ、それ」



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