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禁煙外来の女医は、煙草の煙に宿る怪異を見届ける  作者: にせもん


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『煙怪(えんかい)』 第一話「禁煙外来の夜」



 霧島燈の一日は、煙草の匂いから始まる。


 クリニックの入口を開けた瞬間、昨日の患者が残していった微かな残り香が鼻をつく。本人たちは気づいていないだろう。禁煙外来に来るほどの喫煙者の煙草の匂いは、服の繊維の奥まで染み込んでいる。どれだけ洗っても、どれだけ時間が経っても、完全には消えない。


 燈は白衣を羽織りながら、今日のカルテを確認した。


 午前が四件。午後が五件。そのうち新規が一件。


 予約票の備考欄には、受付の田中さんが小さな字で書き添えていた。


*——「理由欄:彼女に振られたから」とおっしゃっていました。どうしますか?*


 燈は一瞬だけ目を細め、そのままペンでチェックを入れた。


 禁煙の動機は人それぞれだ。健康のため。家族のため。お金のため。どれも正しい理由で、どれも正しくない理由だと、燈は思っている。人が煙草をやめる本当の理由は、たいていもっと別のところにある。


 それを探るのが、燈の仕事だった。


---


 午後三時四十五分。最後の新規患者は、約束の時間の五分前に現れた。


 瀬川晴、二十四歳。


 ドアを開けた瞬間、燈は反射的にその人間の「密度」を読んだ。長年の習慣だ。意識してやっているわけではなく、目に入った瞬間にわかってしまう。


 晴の密度は——異様に、薄かった。


 怒りや悲しみや不安といった、人間なら誰でも纏っているはずの感情の色が、ほとんど見えない。感情がないわけではない。むしろ逆だ。何かを抱えているのに、それが外に出てこない。大きな器に、感情が全部収まってしまっている——そういう印象だった。


「えーと、瀬川です。予約してた」


 晴はラフなジャケット姿で、少し人懐こい笑顔を浮かべた。診察室を一度ぐるりと見回して、「思ったより普通の病院ですね」と言った。


「禁煙外来は普通の病院ですよ」


「なんか、もっと怖い感じかと思って。禁煙!て感じの」


「座ってください」


 晴は素直に椅子に座った。燈はカルテを開きながら言った。


「今日の煙草は何本吸いましたか」


「朝一本、昼に二本、来る前に一本。計四本っす」


「禁煙しようと思った理由を聞かせてください」


「あー」


 晴は少し間を置いた。笑顔が一瞬だけ、何か別のものになった。


「振られたんで」


「それは承知しています」


「彼女に、煙草臭いって言われ続けてたんで。やめるやめるって言いながらやめなかったんで。まあ、それだけが原因じゃないと思うんすけど」


「今は?」


「今は?」


「禁煙したいと思っていますか。煙草をやめたいと」


 晴はまた少し考えた。今度の間は、さっきより長かった。


「……わかんないっすね、正直」


 燈はペンを置いた。


「正直な答えをありがとうございます。多くの患者さんは『やめたいです』と言います。でもやめられない理由のほとんどは、本当はまだやめたくないからです」


「じゃあ俺も、まだやめたくないんすかね」


「あなたの場合は少し違う気がします」燈は晴の顔を見た。「やめたいかどうか以前に、煙草が何かの代わりになっているんじゃないですか」


 晴が表情を固めた。


 燈は続ける。


「煙草を吸うことで、何かを吐き出している。何かを、ごまかしている。その何かが何なのかを自分でわかっていない限り、禁煙は難しい。やめてもまた別の何かに依存します」


「……先生、けっこう直球っすね」


「そうですか」


「嫌いじゃないですよ、直球」


 晴は苦笑した。その笑顔の下に、燈には薄く見えた——火傷の跡のような、古い何かが。


---


 診察を終えたのは、午後五時を回った頃だった。


 禁煙補助薬の処方箋を渡し、次回の予約を入れ、燈は晴を見送った。田中さんがシャッターを下ろし、「お先に失礼します」と帰っていった。


 一人になった診察室で、燈はコーヒーを淹れた。今日七杯目だ。


 窓の外は、もう暗くなっていた。六月の夜はじっとりと蒸し、街灯の光が湿った空気に溶けている。


 燈はコーヒーカップを両手で持ちながら、ぼんやりと外を見た。


 すると——裏口の方から、煙草の煙が流れてきた。


 燈は立ち上がった。


 裏口に回ると、クリニックの非常口の外、自動販売機の横で晴がしゃがんでいた。煙草に火をつけたまま、スマートフォンの画面を見ている。診察の直後に吸っている。


 呆れるより先に、燈は煙を見た。


 晴が吐き出した煙が、夜気の中でゆっくりと広がっている。その煙の中に——何かがいた。


 小さな、人の形。


 子どもだ。


 七、八歳ほどの男の子の輪郭が、煙の中にぼんやりと浮かんでいる。昭和の子どものような、半ズボンに白いシャツ。顔の下半分が煙でできており、表情がはっきりしない。でも目だけが、異様なほど静かだった。


 燈は息を止めた。


 一層か、二層か——漂煙か、念煙か。見ただけではわからない。でも害はなさそうだ。ただそこにいる。煙の中で、じっとこちらを見ている。


 晴はまだ気づいていない。スマートフォンを眺めながら煙草を吸い続けている。


 少年の煙怪はゆっくりと晴の方へ近づいた。


 燈は一歩踏み出した。


「瀬川さん」


「うわっ」


 晴が飛び上がった。煙草を取り落としそうになり、慌てて拾う。


「先生! いるなら言ってくださいよ、心臓止まるかと——」


「煙草を消してください」


「え、いや、これは——」


「今すぐ」


 燈の声が、普段より低かった。晴は何かを察したように口を閉じ、コンクリートに煙草を押しつけた。


 煙が薄くなっていく。


 少年の煙怪は、消えかけながら——振り返った。燈を見た。目が合った。


 口が動いた。声はない。でも燈には読めた。


 タバコ、やめて。


 それだけ言って、少年は煙と一緒に夜の空気に溶けていった。


 後には何も残らなかった。コンクリートの上の吸い殻と、じっとりとした夜の匂いだけが残った。


---


「……先生?」


 晴が恐る恐る声をかけてきた。


 燈は少し間を置いてから、晴の方を向いた。


「クリニックの周辺での喫煙はご遠慮ください。次回から」


「あ、すみません。それはそうなんですけど」


 晴は燈の表情を窺うように首を傾げた。


「なんか、いました?」


 燈は答えなかった。


「さっき俺が煙草吸ってた煙の中に、何かいましたよね。先生、ずっとそっちを見てたから」


「気のせいです」


「気のせいって言うとき、先生の眉が少し動くんですよね。さっきの診察中も確認したんで、間違いないです」


 燈は晴を見た。


 晴はにこにこしていた。けれどその目の奥が、笑っていなかった。


「見えるんですか、先生。煙の中に何か」


 長い沈黙があった。


 街灯が雨粒を光らせた。いつの間にか、小雨が降り始めていた。


「……帰ってください」燈は言った。「次の予約は来週の火曜日です。遅刻しないように」


「はーい」


 晴は素直に歩き出した。三歩ほど進んで、振り返った。


「あの子、誰だったんすかね」


 燈は答えなかった。


「なんか、悲しそうな目してた。俺には見えなかったけど、気配みたいなのはわかったんで」


 そう言って晴は今度こそ夜の中へ歩いていった。雨の中に溶けるように、遠ざかっていく。


 燈は動かなかった。


 少年は誰だったのか。なぜ晴の煙に現れたのか。「タバコ、やめて」という言葉は、誰に向けられたものだったのか。


 わからないことだらけだ。いつもそうだ。


 燈は空を見上げた。雨が顔に当たった。


 煙怪は消えた。でもあの目の静かさが、まだ胸の中に残っていた。


---


 事務所に戻り、カルテに記録をつけながら、燈は父の手帳を引き出しから取り出した。


 古びた黒い手帳。表紙に「霧島 要 観察録」と書かれている。


 ページを開くと、父の几帳面な字が並んでいる。


*——煙怪は、人の吐き出せなかったものが形になった存在だ。消えることが彼らの完成であり、消えることを恐れる必要はない。しかしなぜ彼らが消えられないのかを、我々は問い続けなければならない。消えられない理由の中に、人間のすべてがある。*


 燈は手帳を閉じた。


 コーヒーはもう冷めていた。


 窓の外で、雨が少し強くなった。どこかで誰かが煙草を吸っているのか、風に乗って微かな煙の匂いが流れてきた。


 燈はその匂いを、ただ静かに、吸い込んだ。



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